E.T.A.ホフマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
---|
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
エルンスト・テオドール・アマデウス(E.T.A.)・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776年1月24日 ケーニヒスベルク - 1822年6月25日 ベルリン)はドイツの小説家、詩人、作曲家、音楽評論家、画家にして本職は裁判官であった、マルチ芸術家である。とりわけ19世紀初頭におけるロマン派文学者の代表、幻想文学の奇才として知られる。
彼の洗礼名は本来エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム(Ernst Theodor Wilhelm)であったが、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにあやかって(伯父と同じ名を嫌ったともいう)ヴィルヘルムをアマデウスに自分で改名した。
[編集] 生涯
E.T.A.ホフマンの父クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマンと母ルイーゼ・アルベルティーネ・デルファーはいとこ同士であり、どちらも法律家の家系であった。ホフマンは3人兄弟の末っ子として生まれたが、両親は間もなく不仲となり2歳のときに別居した。ホフマンは母に引き取られたが、その母も精神を病んだため、ホフマンはおじおば達に育てられた。父の遺産は受け継いだものの、少年にとっては辛い境遇であった。こうして少年期のホフマンは芸術に精神的救いを求めるようになった。
ケーニヒスベルク大学法科を出たのちプロイセン王国の官吏となって、伯父ヨハンとともにグローガウ(現在ポーランドのグウォグフ、当地のユダヤ人にドイツ風の姓を与えるのも仕事であった)へ、ついでベルリンへ赴任した。1800年陪審判事としてポーゼン(ポズナニ)へ赴任したが、ここでいとことの婚約を突然破棄したり、上司に反抗するなどトラブルを起こしプウォツクへ左遷された。しかしここでミハリーナ・ローラー=ツジンスカと結婚した。1804年昇進してワルシャワへ移ったが、ナポレオン軍がプロイセンに攻め込んできたため、1807年単身ベルリンへ移った。ナポレオン軍占領下で官吏を罷免され、戦火を避けながら苦労の末バンベルク歌劇場指揮者など音楽で生計を立てた。このころミュンヘンでピアノを教えていたユリア・マルクという少女に奇妙な恋心を抱き、彼女の結婚の際には激怒のあまり異常な振る舞いをして周囲から顰蹙を買ったと伝える。このときの経験はのちに『黄金の壺』などの作品に活かされた。
ナポレオン没落後の1814年に再び大審院判事に取り立てられてベルリンに戻り、それ以後昼間は裁判官、夜は芸術家の二重生活を送り、幻想的な作品を数多く世に出した。またヨハネス・クライスラー楽長というペンネームで音楽評論も手がけた。ベートーヴェンを「ロマン主義者」と呼んで讃えたが、これは音楽について「ロマン主義」という言葉が用いられた最初と言われる。
晩年は脊椎カリエスで寝たきりとなったが、最後まで創作意欲は衰えず短編『隅の窓』を口述筆記させている。
[編集] 作品
- 黄金の壷 Der Goldne Topf(1814)
- クライスレリアーナ Kreisleriana(1814-1815)― クライスラー楽長が語る音楽評論・エッセー集。シューマンのピアノ曲集『クライスレリアーナ』はこれに因む。
- 悪魔の妙薬 Die Elixiere des Teufels(1815)
- カロ風幻想曲集 Fantasiestücke in Callot's Manier(1815)
- くるみ割り人形とねずみの王様 Nußknacker und Mausekönig(1816)― チャイコフスキーの『くるみ割り人形』はデュマの範案である「はしばみ物語」を元に制作された。
- 夜曲集 Nachtstücke(1817)(『砂男Der Sandmann』などを含む短編集)
- スキュデリ嬢 Das Fräulein von Scuderi(1819)
- 牡猫ムルの人生観 Lebensansichten des Katers Murr(1820)― クライスラー楽長(ホフマン自身)の伝記と飼猫ムルの自伝がなぜか混ざってしまったという設定の、ホフマンの代表作。夏目漱石の『吾輩は猫である』に影響を与えた可能性も指摘される。
- 蚤の親方 Meister Floh(1822)
- 隅の窓 Des Vetters Eckfenster(1822)
作曲家としては、オペラ『ウンディーネ』(フーケ原作)や『ミサ曲』などの作品がある。
オッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』は、『砂男』等をもとにした、ホフマン自身を主人公とするロマンチックな恋物語である。