ブルーノ・タウト
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ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。
1909年、ベルリンで建築設計事務所開業、1910年ドイツ工作連盟に参加。ライプチヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる。また1919年に、アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想『アルプス建築』や『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。
1924年から携わったブリッツのジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受けた。1924年から1931年の8年間で12000軒の住宅建築に関わった。1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルグ工科大学の教授に就任。
革命への憧れをもっていたタウトは1932-1933年にソ連で活動。しかしソ連建築界の後進性と技術的・経済的な困難さに失望し、すぐにドイツに戻った。しかしその直前にドイツではナチスが政権を獲得。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、その後日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月、日本を訪れ、そのまま亡命した。
来日当初は京都大丸の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台の商工省工芸指導所に着任。その後、井上房一郎の招きにより高崎に移り、約2年間を高崎で過ごした。群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。日本では建築の機会に余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。
1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブールに移住。アンカラ大学文学部など教育機関の設計、そしてイスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍したが(そのほとんどは現存している)、1938年に既に長年患っていた気管支喘息のため死去した。最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。タウトはアンカラのエディルネ・カプ墓地に葬られ、現在に至るまでそこに眠る唯一の欧米人である。
[編集] その他
- 桂離宮と日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
- 日向別邸は熱海市に寄贈され、2005年から一般公開、2006年「旧日向家熱海別邸地下室」が重要文化財に指定された。日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された。
- 高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている。