宥和政策
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宥和政策(ゆうわせいさく、英Appeasement(慰撫)、宥和主義(ゆうわしゅぎ)とも)とは戦争に対する恐れ、倫理的な信念、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式で、敵対国の主張に対して、相手の意図をある程度尊重する事によって問題の解決を図ろうとすること。危機管理においては、抑止の反対概念として理解される。日本では主に、イギリス首相チェンバレンの対ドイツ政策を指す言葉と理解されており、一般には、「盲目的な戦争嫌悪で、ファシストに譲歩した軟弱外交」といった否定的な意味で使われ、反戦平和という概念自体への批判、ひいては反戦平和運動への感情的なバッシングに用いられている。
宥和は、第二次世界大戦の勃発を防げなかった理由で、否定的な意味合いで用いられているが、広義の意味での宥和政策は価値中立的な政策であり、また、30年代特有の政策ではないと言える。
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[編集] 宥和策への別の見方
この数年で宥和策の意味合いが変わりつつある。1983年のポール・ケネディのStrategy and Diplomacyによれば宥和策は「合理的な交渉や妥協により、不満を認め、満足させることにより、高価で流血を招き危険が伴う武力紛争に頼ることを回避する、国際的な論争の解決方針」であると定義した。また、2000年に スティーブン R.ロックは、Appeasement in International Politicsにおいて宥和政策の理論化をおこない、「宥和=誤り」という従来解釈からの脱却を目指した。これらの研究の基本的なスタンスは、宥和=対独宥和政策と言うレッテルからの脱却であり、決して「宥和が外交政策上、正しい」と主張している訳ではない。例えば、ロックは、「宥和は間違いな時もあり、正しいときもある」と主張しており、彼の研究は、あくまでその成否の条件を探るものである。
少なくとも上記の2人の問題関心は、「対独宥和政策を宥和政策の全て」と判断する傾向へのアンチテーゼであるとも言える。彼らの観点からすれば、対独宥和は、あくまで'appeasement'の一事例に過ぎない。
[編集] ヒトラーへの宥和策
[編集] 平和主義の台頭
第一次世界大戦による甚大な被害への反省と恐怖から、ヨーロッパでは「あらゆる戦争に対して無条件に反対する」という平和主義が台頭した。
- 1920年、世界平和実現のため、国際連盟が作られた。
- 1924年、「侵略戦争は国際犯罪である」と明記したジュネーブ議定書が採択された。
- 1928年、不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約、戦争ノ抛棄ニ関スル条約)が締結された。
[編集] ナチ党の台頭
第一次世界大戦の結果、1919年にパリで結ばれたヴェルサイユ条約は、ドイツに対して、1320億金マルクという天文学的賠償額を要求し、全植民地と領土の13パーセントを剥奪、戦車・空軍力・潜水艦の保有禁止、陸軍兵力の制限(10万人以下)、参謀本部の解体など、ドイツの経済や安全保障にとって非常に厳しいものとなった。この反動で、ヴェルサイユ体制打破を掲げるヒトラーとナチ党が国民の支持を得ていった。
1933年、ヒトラーは「全権委任法」の成立により、完全な独裁者となる。
[編集] ファシストへの譲歩
1935年、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の取り決めを一方的に破棄して再軍備と徴兵制の復活を発表した(陸軍の人員を12倍にし、空軍を創設)。平和主義を求める世論に縛られている各国は、このドイツの行動を黙認した。
これに対してイギリスのチャーチルが警告したが、各国はチャーチルを「戦争屋」と嫌い、無視した。
1938年、ヒトラーがズデーテン地方(チェコスロバキアの要衝)を要求したことを受け、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア4カ国の首脳会議(ミュンヘン会議)がミュンヘンでおこなわれた。イギリスのチェンバレン首相は、平和主義のためと、戦争準備の不足から、要求をのんだ(ミュンヘン協定)。
帰国したチェンバレン首相は「我が首相がヨーロッパの平和を守った。イギリスが戦争を防いだ。」と大衆に大歓呼の声で迎えられた。
1939年、ミュンヘン協定に反しドイツはチェコスロバキアを解体し、チェコを併合した。世論は180度逆転し、チェンバレンは辞任、失意のうちに死去した。
[編集] 第二次世界大戦での宥和策の結果
1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。当時西部戦線のドイツ軍兵力が29個師団だったのに対し、英仏は110個師団を有し、圧倒的に英仏側が優勢であったが、実際にはポーランドを援助せず、見殺しにした。高機動力を誇るドイツ軍の前にポーランド軍はいとも簡単に粉砕され、ポーランドは東西をドイツ、ソ連に分割された。さらにヒトラーは対仏侵攻作戦を行い電撃戦(ブリッツクリーク)と呼ばれる空陸一体戦で連合軍を粉砕した。
チャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』のなかで、「第二次世界大戦は防ぐことができた。宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう。」と述べている。
ただし、近年のイギリスでは「チェンバレンは宥和政策で稼いだ時間を、軍備増強のために最大限有効活用した。宥和政策がなければ、イギリスは史実よりさらに不十分な軍備のまま開戦し、ドイツを叩き潰すどころか史実よりもさらに苦境に追い込まれ、極言すればスピットファイアなしでバトル・オブ・ブリテンを戦う(そして破れる)ことになっていただろう」という肯定的な意見もある。