シベリア抑留
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シベリア抑留(シベリアよくりゅう)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にソビエト連邦軍の満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)侵攻によって生じた日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなどに抑留し、強制労働に使役したことを指す。
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[編集] 概要
[編集] ソ連軍侵攻
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦を布告をし、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ協定に基づくものであった。
樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。
満州でも8月17日に派遣された皇族が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥は8月19日に停戦交渉に入って、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことは少なかった。日本軍の崩壊した後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。
[編集] 連行
占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除され[1]、9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本(あるいは解放されたであろう祖国)に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は57万名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には200万人以上[2]とも言われる。
[編集] 収容所
帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていた。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、建国当初から行われていた。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていた。一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパロシアなどにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[3](犠牲者数に関しては後述)。
一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。
[編集] 日本側の対応
- ソ連との停戦交渉時、瀬島龍三が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が故・斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)、保阪正康らにより主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。瀬島は停戦協定の際のソ連極東軍事司令官ワシレフスキーと関東軍総参謀長秦には上記の密約を結ぶ権限がなかったことを用いながら反論している[4]。
- 当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという(稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』(文春文庫)・文藝春秋社刊)。
- 左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。
- 日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。
[編集] 帰国
1947年(昭和22)から日ソが国交回復する1956年(昭和31)にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われたが、様々な事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地人女性と恋仲になった、など)で帰国をせずにソ連に残留して帰化した人、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した人までいる。
一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による1950年(昭和25)からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている[5]。しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に彼等を監視下においた[6]。
冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。
[編集] 抑留理由
ソビエト連邦の独裁的指導者ヨシフ・スターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない。」というものであったが、日本占領政策にソ連の影響力を強めようとする策略だったと考えられる[要出典]。しかし、トルーマンはこれを一蹴したため、「その代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、この理由はソ連の捏造の可能性が高いという説もある[7]。
[編集] 犠牲者数
従来死者は約6万人とされてきたが実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もある[要出典]。
[編集] 補償問題
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰れば、その捕虜の所属国が支払うことになっている。
日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。
シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。
[編集] 関連団体
- 全国抑留者補償協議会(全抑協)
- 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会
- 財団法人全国強制抑留者協会
[編集] シベリア抑留に関連する作品
- 『岸壁の母』
- 『極光のかげに―シベリア俘虜記』高杉一郎・岩波文庫 ISBN 4003318315
- 『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』内村剛介・講談社 ISBN 4061982605
- 『プリンス近衛殺人事件』V.A.アルハンゲリスキー・新潮社 ISBN 410540301X
- 『収容所から来た遺書』辺見じゅん・文芸春秋 ISBN 4167342030
- 『シベリア抑留1450日』山下静夫・デジプロ ISBN 9784490206135
- 『ミュージカル異国の丘』劇団四季
- 『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』滝沢聖峰・大日本絵画 ISBN:4-499-22647-3
- 『遥かなる約束』 2006年 フジテレビ 阿部寛・黒木瞳主演
[編集] 経験した著名人
- 相沢英之 - 大蔵次官、元自民党衆院議員。経企庁長官などを歴任した。全国強制抑留者協会会長(著書に抑留体験を小説にした『タタァルの森から』がある)
- 朝枝繁春 - 陸軍中佐、大本営作戦参謀として防疫給水部731部隊の証拠隠滅を命じたことで知られる。
- 井上頼豊 - チェロ奏者
- 板垣正 - 元自民党参議院議員(帰国後の一時期日本共産党に入党 のち脱党)、日本遺族会事務局長
- 宇野宗佑 - 第75代内閣総理大臣(抑留記『ダモイ・トウキョウ』を執筆)
- 香月泰男 - 洋画家
- 胡桃沢耕史 - 作家(『黒パン俘虜記』を執筆)
- 黒田了一 - 元大阪府知事
- 黒柳守綱 - ヴァイオリン奏者(黒柳徹子の父)
- 近衛十四郎 - 時代劇俳優(松方弘樹・目黒祐樹の父)
- 近衛文隆 - 陸軍中尉(近衛文麿の長男、抑留中に死去)
- 小堀宗慶 - 遠州茶道宗家12世。遠州流は小堀遠州を流祖とする茶道。
- 佐藤忠良 - 彫刻家
- 四国五郎 - 画家、絵本作家
- 瀬島龍三 - 陸軍中佐、関東軍参謀。後の伊藤忠商事会長
- 平参平 - 元吉本新喜劇座長
- 竹内悌三 - 1936年ベルリンオリンピックサッカー日本代表。ポジションはDF。抑留中に死去。
- 富木謙治 - 武道家。
- 秦彦三郎 - 陸軍中将、関東軍総参謀。A級戦犯としての逮捕リストにも名があった。
- 藤田真 - ニュージャパンキックボクシング連盟理事長
- 前田長吉 - 競馬騎手(名牝クリフジで東京優駿を含む変則三冠達成。抑留中に死去。2006年に遺骨を確認)
- 水原茂 - 野球選手。元読売ジャイアンツ監督
- 三波春夫 - 歌手
- 三橋達也 - 俳優
- 村上信夫 - 元帝国ホテル料理長
- 柚木進 - 元南海ホークス投手(終戦後のエース)
- 横山操 - 日本画家
- 吉田正 - 作曲家(異国の丘を作曲)
[編集] 注釈
- ^ その最中にソ連兵士によって殺害されたものも相当いるという。なお、このときのソ連兵には規律がなく、なぜ日本軍が負けたのか訝しがる兵士が多かったらしい[要出典]。
- ^ アルハンゲリスキーの著作およびマッカーサー元帥の統計より
- ^ 当初から10万名は死亡したと言われ、グラスノスチ後に発見された資料によると40万人とも言われる。
- ^ 『日本の証言』フジテレビ出版
- ^ 米軍のプロパガンダ映画に「赤化されてしまった人々」として登場する
- ^ 斎藤貴男の父親は帰国者の一人で、自民党都議の後援会員であったが、それでも死ぬまで監視対象とされ、斎藤も就職差別を受けたという(「訴えにあたって」)。
- ^ 国際政治学者瀧澤一郎の見解。