黒田了一
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黒田 了一(くろだ りょういち、1911年3月16日 - 2002年7月24日)は、日本の憲法学者。元大阪府知事。在任、1971年4月-1979年4月。
[編集] 来歴
大阪府吹田市生まれ。旧制北野中・旧制三高から東北帝国大学法文学部を卒業後、東北帝大法学部助手を経て満州国高等鉄路警護学校教官などを歴任。終戦後5年間シベリア抑留を経験し、1950年に帰国。大阪市立大学法学部助教授に就任し、憲法学を担当した。1956年に教授に昇任し学生部長・法学部長を歴任、日本学術会議「学問・思想の自由」委員会委員長・日本科学者会議全国参与・大阪護憲連合代表委員なども務めた。
[編集] 人物
1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。また公選府知事としては初の大阪府出身者である。
就任後は公約に掲げた公害規制をはじめ、老人医療無料化・府立高等学校増設など、低所得者層を重視した福祉政策を取っていくが、これが財政赤字を生み自民党や財界などからの批判を招いた。加えて同和行政を巡っては社会党との軋轢が激しく、もともと同党の大阪府本部は反共派が多いこともあり、次第に同党は反黒田のスタンスを取っていく。1975年府知事選では、民社党支持の全日本労働総同盟(同盟)大阪府本部のみならず、社会党支持の日本労働組合総評議会(総評)大阪府本部も反黒田で合意。公明党と共に桃山学院大学学長の竹内正己を独自候補として擁立し、自民党も左藤知事での副知事だった湯川宏を擁立するが、公害対策や大型開発よりも福祉を重視した実績に府民の支持は熱く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。史上初めて日本共産党単独与党の知事が誕生したことは当時衝撃的なニュースとなり、UPI通信は、「日本共産党が、史上初めて自らのガバナー(知事)を持った」と世界に報じた。
その後も舞台裏では反黒田陣営が形成され、1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を勤めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。社公民・社会民主連合もこれに乗るが、総評中央が「公害対策は企業の生産性を圧迫する。メダカやホタルが府税を負担してくれるわけではない」「私のバックボーンは皇国史観」「女は本能に属するもの」などの発言を連発する岸を反自民・反独占に沿わない候補の可能性があると待ったを掛けたり(結局、大阪府本部の意向を了承)、亀田得治ら社会党の一部が離党して黒田を応援するなど混乱が見られた。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指すが、僅差で岸に敗れた。
落選後は弁護士、大阪経済法科大学教授などとして活動しつつ、革新統一運動を進めていった。また歌作をよくし、「草舟」の号を持っている。
大阪府知事 | ||
2代 左藤義詮 |
3代 1971 - 1979 |
4代 岸昌 |
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