岸壁の母
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岸壁の母(がんぺきのはは)とは、ソ連による抑留から開放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。
ソ連からの引揚船が着くたびに何時でも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になったのである。
目次 |
[編集] 事実関係
流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせという名の女性。明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子に貰い昭和6年に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年渡満、入隊。同年ソ連の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。終戦後いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。
端野新二は実際に生存、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、のちに満州に移され中国共産党八路軍に従軍、その後レントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っているということを知っていたが、帰ることも、また連絡することも無かった。理由は様々に推測され、語られているがはっきりしない。
昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード「岸壁の母」が大流行(100万枚以上)。昭和47年(1972年)にはキングレコードから二葉百合子が再び大ヒット(250万枚[1])させ、昭和51年(1976年)には中村玉緒主演で映画化される。さらに、昭和52年(1977年)に市原悦子主演でドラマ化(「岸壁の母」)された。
端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で亡くなった。
平成12年(2000年)8月に京都新聞が新二の生存を報道。中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。平成15年文藝春秋に「『岸壁の母』49年目の新証言」が掲載。
[編集] 脚注
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、109頁。ISBN 4390116495
[編集] 参考文献
- 図書
- 『未帰還兵の母』端野いせ著(新人物往来社 1974.7)
- 『岸壁の母』端野いせ著(新人物往来社 1976)
- 『親と子の日本史』(扶桑社 2001.3)
- 収録タイトル「岸壁の母と息子:息子は上海で静かに生きていた」
- 後に文庫化された(下記)
- 『親と子の日本史』上巻(扶桑社 2004.6)
- 雑誌
- 「岸壁の母の戦後」山田智彦(『文藝春秋』59巻10号 1981.9) 訃報に触れての回想
- 「岸壁の母49年目の新証言」斎藤充功(『文藝春秋』81巻8号 2003.7)