小池正晃
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小池 正晃 中日ドラゴンズ No.30 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市保土ヶ谷区 |
生年月日 | 1980年5月15日(28歳) |
身長 体重 |
183cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 中堅手、左翼手、一塁手 |
プロ入り | 1998年 6位 |
初出場 | 2001年4月20日 |
年俸 | 3,000万円(2008年) |
経歴 | |
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小池 正晃(こいけ まさあき、1980年5月15日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。愛称は「ゴジ」。
目次 |
[編集] 来歴・人物
横浜市立峯小学校卒業、横浜市立宮田中学校卒業、横浜高校卒業。
いわゆる「松坂世代」の一員。松坂大輔、後藤武敏、小山良男らと同じ春夏連覇を成し遂げた横浜高校の中心選手として活躍した。横浜ファンや球団公式は小池世代を用いることが多い。後にチーム所属の同学年選手と横浜55年会を結成。
プロでは安定した外野守備と高確率で決める送りバントを武器に活躍している。
[編集] プロ入り前
1998年、横浜高校で松坂大輔、後藤武敏、小山良男らとともに甲子園春夏連覇達成。主に1番右翼手として活躍。夏の3回戦・星稜戦では先頭打者本塁打を放った。
1999年、横浜高校からドラフト6位で横浜ベイスターズに入団。
[編集] プロ入り後
4月20日にプロ入り3年目で初出場。9月25日には7番左翼手で初スタメン出場した。
主に代打として60試合に出場、同年5月23日の広島戦でプロ入り初本塁打。プロ入り後は三塁手も兼任しており序盤はサードでの出場もあったが、終盤には鈴木尚典の離脱で左翼手での出場が増えた。
村田修一、古木克明等に弾き出される形で出場機会が9試合と激減したが、二軍ではチームトップの打率.325、10本塁打を打った。
この年も一軍には上がるものの、試合には出られずにすぐに逆戻りという状態が続いていた。シーズン終了間際の対ヤクルト27回戦では、2打席連続の本塁打を放った。また二軍では二年連続2桁本塁打を打っている。
背番号を44に変更。尊敬するMLBのマイク・キャメロン外野手と同じ番号を手に入れ心機一転を図った。
牛島和彦新監督に俊足を生かした広い守備範囲を買われ、6番中堅手で初の開幕スタメンの座をつかんだが、打撃不振で一時レギュラーから退き、ケビン・ウィット・内川聖一・古木らが左翼のレギュラーを争った。しかし5月末に2番で起用されると5試合で5本塁打を打ち、そのまま2番左翼手のレギュラーに定着した。多村仁の離脱時はセンターも守り、自己最多の出場機会を得た。37犠打は犠打数セリーグトップで、20本塁打を放った長打力も見せ、一躍主力選手となった。
スタメンに定着すると、本拠地横浜スタジアムでの打席登場時にTONY BASILのヒット曲"MICKEY"が流れるのに合わせて、外野の一部ファンが「小池さーん、小池さーん」と叫ぶようになった。
開幕当初は2番レフトだったが、打撃不振のためレフトのポジションを吉村裕基に奪われる。しかし多村が負傷で長期離脱すると、中盤以降は2番センターで事実上のレギュラーとして固定されるようになった。
自己最多の39犠打で2年連続最多犠打を獲得し、職人ぶりは健在だった。しかし打撃不振のさなか、チームの先頭打者石井琢朗がヒットで出塁すると小池が送りバントをするケースが多く、一部のファンからは「自動バント」と揶揄されることもあった。
シーズン終盤の9月28日の中日戦(ナゴヤドーム)で、佐藤充から左手に死球を受け途中退場。すぐに病院で検査したところ中指の骨折で全治2ヶ月と診断されたため登録抹消される。2年連続規定打席到達を目前にして無念のリタイアとなった。
1番に新加入の仁志敏久、2番には石井が入り、センターには多村がソフトバンクへトレード移籍したため金城龍彦が配置転換される。また大矢明彦監督のもと、佐伯貴弘や内川が外野にコンバートされる激しいポジション争いの中、打撃でアピールすることが出来ずレギュラー定着には至らなかった。
6月20日の対ソフトバンク戦(横浜スタジアム・セ・パ交流戦)でプロ入り初のサヨナラホームランを放った。
内野にも挑戦する予定で、オープン戦では主に一塁手として起用された。6月16日、石井裕也との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
[編集] エピソード
- 実家は松原商店街にあるお茶屋「丸秀園」。そのため試合前の選手紹介では、「松原商店街の星」と紹介されている。
- 出身中学である横浜市立宮田中学校のソフトボールの授業で、3階建て校舎越えホームラン(推定80m弾)を放ったことがある。
- 小学校時代から、体ががっちりしてたため、後輩からは怖がられることが多かった。顔はそこそこかっこよかったらしい。(テレビ番組にて小池の母親が発言)
- ラーメンが大好きで、遠征に出かけるとその地方のラーメンを食べることがよくあると言う。引退後はラーメン屋を経営したいとも語っている。
- 中学3年生の中本牧シニアに在籍当時、ブラジルで行われたシニアの世界大会の選抜チームに同チームから小山良男とともに参加。江戸川南シニア在籍の松坂大輔と知り合う。既に横浜高校へ進学が決まっていた小池と小山は、帝京高校への進学が決まっていた松坂を「横浜高校で甲子園へ行こう」と誘った。(そして松坂はその誘いを受け帝京高校を蹴り横浜高校へ入学した)
- 小学校時代は宮田町少年野球部に在籍。野球の基本を白井元康氏(同野球部監督)に学ぶ。練習後はよく監督のお店(そばや:佐久良屋)でそばを食べていた。当時よりからだが大きかった。
[編集] 年度別打撃成績
表中の太字はリーグ記録。
年度 | 所属チーム | 背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
1999 | 横浜 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
2000 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | ||
2001 | 19 | 24 | 3 | 7 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 6 | 0 | 0 | .292 | ||
2002 | 60 | 109 | 11 | 28 | 4 | 0 | 2 | 38 | 11 | 1 | 1 | 2 | 1 | 2 | 31 | 0 | 2 | .257 | ||
2003 | 9 | 10 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .300 | ||
2004 | 9 | 14 | 4 | 5 | 2 | 0 | 2 | 13 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 1 | 0 | .357 | ||
2005 | 44 | 129 | 404 | 66 | 98 | 16 | 0 | 20 | 174 | 53 | 0 | 1 | 37 | 5 | 46 | 95 | 9 | 3 | .243 | |
2006 | 112 | 352 | 45 | 94 | 23 | 2 | 7 | 142 | 33 | 3 | 2 | 39 | 3 | 23 | 79 | 4 | 2 | .267 | ||
2007 | 83 | 112 | 14 | 26 | 7 | 0 | 2 | 39 | 7 | 0 | 2 | 5 | 0 | 9 | 16 | 2 | 2 | .232 | ||
通算 | 9年 | 421 | 1025 | 143 | 261 | 54 | 2 | 33 | 418 | 108 | 4 | 6 | 84 | 9 | 85 | 232 | 16 | 9 | .255 |
[編集] 個人記録
- 初出場・初安打 - 2001年4月20日対巨人戦で、代打出場・岡島秀樹投手から内野安打。
- 初本塁打・初打点 - 2002年5月23日対広島戦でリゴ・ベルトラン投手から。
- 初盗塁 - 2002年9月15日対ヤクルト戦で。
- 最多犠打 - 2005年 37犠打、2006年 39犠打。
- 球団通算6000本塁打 - 2005年6月1日、対楽天戦で山村宏樹投手から。
- サヨナラ本塁打 - 2007年6月20日対ホークス戦で水田章雄投手から。
[編集] 背番号
- 56(1999年 - 2004年)
- 44(2005年 - 2008年途中)
- 30(2008年途中 - )
- ちなみに、2005年に放送されたドラマ「H2~君といた日々」で横浜ベイスターズに入団した橘英雄は、背番号56をつけている(背中の名前は「KOIKE」となっている。このとき、小池はタイロン・ウッズの退団で背番号を変更したばかり)。
[編集] 高校時代の戦績・記録
- 1998年 - 第80回全国高等学校野球選手権大会
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- プロ野球「横浜55年会」オフィシャルサイト(サイト内に本人によるブログあり)
監督 |
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66落合博満 |
二軍監督 |
85辻発彦 |
コーチ |
81高代延博(野手総合チーフ)|80森繁和(バッテリーチーフ)|89高橋三千丈(投手)|78小林聖始(投手)|76近藤真市(投手)|72田村藤夫(捕手)|86古久保健二(捕手)|79長谷部裕(捕手)|88高柳秀樹(打撃)|77宇野勝(打撃)|75石嶺和彦(打撃)|71川相昌弘(内野守備走塁)|74風岡尚幸(内野守備走塁)|82奈良原浩(内野守備走塁)|73笘篠誠治(外野守備走塁)|83音重鎮(外野守備走塁)|90三木安司(トレーニング)|93宮前岳巳(トレーニング)|91塚本洋(トレーニング)|92勝崎耕世(コンディショニング)|94住田ワタリ(コンディショニング)|84早川和夫(育成) |
投手 |
0金剛弘樹|11川上憲伸|13岩瀬仁紀|14朝倉健太|16佐藤充|17川井進|18中里篤史|19吉見一起|20中田賢一|21チェン|23鈴木義広|26山内壮馬|29山井大介|33平井正史|34山本昌|38斉藤信介|41浅尾拓也|42R・クルス|43小笠原孝|47菊地正法|49M・ネルソン|50佐藤亮太|54赤坂和幸|58樋口賢|60高江洲拓哉|61久本祐一|64清水昭信|67高橋聡文|68長峰昌司|69小林正人 |
捕手 |
00前田章宏|22田中大輔|27谷繁元信|28小田幸平|37小山良男|39清水将海|59小川将俊 |
内野手 |
1堂上直倫|2荒木雅博|3立浪和義(打撃コーチ兼任)|6井端弘和|25新井良太|31森野将彦|32中川裕貴|36谷哲也|40西川明|44T・ウッズ|45森岡良介|46岩崎達郎|48澤井道久|53柳田殖生|55福田永将|57デラロサ|99中村紀洋 |
外野手 |
4藤井淳志|5和田一浩|7李炳圭|8平田良介|9井上一樹|24英智|30小池正晃|35上田佳範|51中村一生|56中村公治|62普久原淳一|63堂上剛裕 |
横浜ベイスターズ 1998年ドラフト指名選手 |
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1位:古木克明 / 2位:矢野英司 / 3位:金川直樹 / 4位:福本誠 / 5位:金城龍彦 / 6位:小池正晃 |