中里篤史
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中里篤史 中日ドラゴンズ No.18 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県朝霞市 |
生年月日 | 1982年9月12日(25歳) |
身長 体重 |
185cm 84kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2000年 1位 |
初出場 | 2001年9月16日 |
経歴 | |
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
中里 篤史(なかざと あつし、1982年9月12日 - )は野球選手、中日ドラゴンズの投手である。背番号は18番。
目次 |
[編集] 高校時代
春日部共栄高校入学時は180cmの長身ながら60kgの痩せた体格だった。当時の本多監督が直球だけで三振を奪える投手を目指して徹底的な体力強化を行なわせ、変化球はカーブのみを練習させた。その結果、ストレートに磨きがかかり、2年生の時にはすでに140km/hをマークしていた。その年の秋季関東大会の初戦では東海大相模と激突し、1対2で延長戦の末に敗れた。なお、東海大相模は翌年のセンバツで優勝している。3年時には春季埼玉県大会で優勝。関東大会ではセンバツ出場の国士舘相手に好投して全国レベルの実力を改めて証明した。
甲子園出場・優勝を目標として調整に力を入れた夏の県大会では、初戦は5回コールドゲーム、15奪三振の完全試合(参考記録)を達成。すなわち、すべてのアウトを三振で取る快投を見せる。埼玉県大会決勝では浦和学院高校の坂元弥太郎と延長10回を投げ合うもサヨナラ負けを喫し、惜しくも甲子園出場はならなかった。このころは東海大相模の筑川利希也、桐生第一の一場靖弘とともに関東3羽ガラスとしてプロのスカウトから注目されたが、特に右肩の可動域やその腕の振りを高く評価されていた。高校生の右投手としてはトップクラスの評価を受け、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団する。
[編集] 中日ドラゴンズ時代
2001年、ルーキーながらフレッシュオールスターでは150km/hをマーク。9月16日、巨人戦で一軍デビューを飾った。またこの試合ではプロ初安打となるタイムリーも放っている。ストレートは151km/hを記録し、松井秀喜をして「高校出のルーキーの球じゃない」と驚愕させた。先輩に対する挨拶も非常に良い好青年で、この試合の解説を担当した田淵幸一から賞賛された。
しかし同年オフ、階段で転倒しそうになり、とっさに手すりをつかんだ際に脱臼。右肩関節唇および同関節包の損傷で、投手生命をも危ぶまれ、野手転向や引退の噂も出るほどの重症を負った。2年間リハビリに努めていたが、2003年オフのトレーニング中にまたも右肩を故障してしまった。
2005年に4年ぶりに一軍に復帰し、初登板で148km/hを計測。リリーフでプロ初勝利をあげた。
2006年は8月に一軍復帰すると、自己最多の13試合に登板。日本シリーズでも起用された。東京ヤクルト戦で自己最速の152km/hをマーク。この年はビハインドでの登板が多かったが、登板した試合でチームに流れを呼び込むこともあった。背番号が70から18になったことからも期待が伺える。
2007年、バランスボールから落下し左肘骨折する怪我を負い、一軍登板なしに終わった。
2008年、FA移籍した和田一浩の人的補償で、セットアッパーの岡本真也が埼玉西武ライオンズに移籍。その後、ポスト岡本の最有力候補として期待され、8年目にして初の開幕一軍入りを果たす。しかし、5月初旬に登録を抹消された。その後ファームでも投げていないことから故障したと思われている。
[編集] エピソード
- 高校時代から俊足・強打として鳴らしており、打撃センスは非常に高い。高校3年時の夏の県大会でも上尾高校戦で土壇場の9回に適時打も放っている。高校時のスカウトの評価は「打者としても将来の中軸を担える」・「左の桑田」と言われていた。そのため、2001年オフの故障時には、球団関係者から非公式ながら打者転向の打診が複数回あったと本人がのちに語っている。中日のヘッド兼打撃コーチを務めたことがある佐々木恭介は、「中里の野手としての素質は福留以上」と野手としての可能性の高さを様々なメディアでコメントしている。
- これまでクルーンや藤川球児と対戦したことのある高橋由伸に「今までで一番すごいストレートを投げたのは中里」とまで言わしめた。
- 2005年の復活登板以来、帽子のつばには「感謝」の二文字が記されている。これは、故障中に治療やリハビリで関わった病院の医師や看護士、見捨てなかった球団、応援し続けてくれたファンへの感謝の気持ちをマウンド上でも忘れない為である。なお、大怪我後ウエスタンリーグの試合で初めて投げた時は医師や看護士もスタンドで涙を流していた。
- 肩関節・肘が非常に柔らかい。
- 2006年、日本ハムの新庄剛志の現役最終打席で登板し、泣きながら打席に立つ新庄を直球勝負で三振に打ち取った。
- 前述のように、野球のプレーと関係のない場面での怪我が何故か多い。
- 2008年、和田一浩のFA入団の人的補償として岡本真也が埼玉西武ライオンズへ移籍した事に対して、「唯一のドラフト同期だった人がいなくなってしまい、さみしい」と語った。中里以外の2000年度ドラフト選手は既に戦力外または他球団へ移籍している。
[編集] 通算成績(2007年シーズン終了時)
年度 | 所 属 球 団 |
登 板 |
勝 利 |
敗 北 |
セ 丨 ブ |
完 投 |
完 封 勝 |
無 四 球 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001年 | 中日 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 45 | 9.0 | 12 | 0 | 5 | 0 | 5 | 1 | 0 | 8 | 6 | 6.00 |
2005年 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18 | 4.0 | 3 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4.50 | |
2006年 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 46 | 10.0 | 9 | 1 | 7 | 1 | 14 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3.60 | |
通算成績 | 17 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 109 | 23.0 | 24 | 2 | 14 | 1 | 22 | 1 | 0 | 14 | 12 | 4.70 |
※2002~4年、2007年シーズンは出場なし。
[編集] 背番号
- 28 (2001年 - 2003年)
- 70 (2004年 - 2005年)
- 18 (2006年 - )
[編集] 関連項目
監督 |
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66落合博満 |
二軍監督 |
85辻発彦 |
コーチ |
81高代延博(野手総合チーフ)|80森繁和(バッテリーチーフ)|89高橋三千丈(投手)|78小林聖始(投手)|76近藤真市(投手)|72田村藤夫(捕手)|86古久保健二(捕手)|79長谷部裕(捕手)|88高柳秀樹(打撃)|77宇野勝(打撃)|75石嶺和彦(打撃)|71川相昌弘(内野守備走塁)|74風岡尚幸(内野守備走塁)|82奈良原浩(内野守備走塁)|73笘篠誠治(外野守備走塁)|83音重鎮(外野守備走塁)|90三木安司(トレーニング)|93宮前岳巳(トレーニング)|91塚本洋(トレーニング)|92勝崎耕世(コンディショニング)|94住田ワタリ(コンディショニング)|84早川和夫(育成) |
投手 |
0金剛弘樹|11川上憲伸|13岩瀬仁紀|14朝倉健太|16佐藤充|17川井進|18中里篤史|19吉見一起|20中田賢一|21チェン|23鈴木義広|26山内壮馬|29山井大介|33平井正史|34山本昌|38斉藤信介|41浅尾拓也|42R・クルス|43小笠原孝|47菊地正法|49M・ネルソン|50佐藤亮太|54赤坂和幸|58樋口賢|60高江洲拓哉|61久本祐一|64清水昭信|67高橋聡文|68長峰昌司|69小林正人 |
捕手 |
00前田章宏|22田中大輔|27谷繁元信|28小田幸平|37小山良男|39清水将海|59小川将俊 |
内野手 |
1堂上直倫|2荒木雅博|3立浪和義(打撃コーチ兼任)|6井端弘和|25新井良太|31森野将彦|32中川裕貴|36谷哲也|40西川明|44T・ウッズ|45森岡良介|46岩崎達郎|48澤井道久|53柳田殖生|55福田永将|57デラロサ|99中村紀洋 |
外野手 |
4藤井淳志|5和田一浩|7李炳圭|8平田良介|9井上一樹|24英智|30小池正晃|35上田佳範|51中村一生|56中村公治|62普久原淳一|63堂上剛裕 |
中日ドラゴンズ 2000年ドラフト指名選手 |
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1位:中里篤史 / 2位:洗平竜也 / 3位:井本直樹 / 4位:岡本真也 / 5位:土谷鉄平 6位:山崎賢太 / 7位:仲澤忠厚 / 8位:辻田摂 |