江尻亮
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江尻 亮 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 茨城県高萩市 |
生年月日 | 1943年1月10日(65歳) |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1965年 |
初出場 | 1965年 |
最終出場 | 1979年 |
経歴 | |
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江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は茨城県高萩市出身のプロ野球選手・プロ野球監督。現役時代は大洋ホエールズ・横浜大洋ホエールズで外野手として活躍した。引退後は大洋でコーチ・監督を務めたほか、千葉ロッテマリーンズの監督も務めた。左投げ左打ち。
目次 |
[編集] 略歴
- 1965年 早稲田大学のエースとして東京六大学野球連盟で46回2/3無失点・シーズン防御率0.00のリーグ記録を樹立した実績を評価され、大洋に投手として入団。
- 1967年 打者転向。左翼手の定位置を獲得。
- 1968年 打率.283で初のベストテン入り(セ・リーグ9位)。
- 1970年 右翼手にコンバート。ベストナインの外野手部門に選出。
- 1973年 2度目のベストナイン選出。
- 1977年 巨人戦で加藤初投手から頭部に死球を受け、36時間にわたり昏睡状態に陥る。これを機に右翼の定位置を高木嘉一に奪われ先発出場が激減、選手生命を大きく縮めた。
- 1979年 現役引退。
- 1980年 1軍打撃コーチ就任。
- 1982年 2軍打撃コーチ就任。
- 1985年 2軍監督就任。
- 1987年 スカウト転身。進藤達哉・石井琢朗など、他球団がノーマークだった後年の名選手を発掘し、ドラフト外で入団させる。
- 1990年 ヘッドコーチ就任。
- 1992年 シーズン途中、須藤豊監督の休養により監督就任。シーズン終了後、フロントへ転身。
- 1995年 早大の先輩であるロッテの広岡達朗ゼネラルマネージャーの誘いを受け、ロッテの2軍ヘッドコーチに就任。シーズン途中、1軍ヘッドコーチへ昇格。
- 1996年 ボビー・バレンタイン監督の解任に伴いロッテ監督に就任するも、前年2位のチームは低迷し、江尻自身もシーズン中に体調を崩し途中休養した時期があった。シーズン終了後、成績不振の引責や、自分を招聘した広岡GMの解任もあり、わずか1年で辞任。ロッテの編成部長に就任。ロッテ監督就任直後のファン感謝デーで熱狂的なボビー・バレンタインファンから「広岡リモコン江尻しね。」という垂れ幕を掲げられるという屈辱を味わった。
- 2001年 ロッテ退団。
[編集] エピソード
- 早大時代は一時投手兼代打要員という中途半端な立場だった。厳しい練習に耐えかねて何度か部を抜け出そうとしたこともあったと本人が述懐している。ところが4年時に就任間もない石井藤吉郎監督に投手専任を申し出て認められた。石井が選手に好きなポジションをやらせるという方針だったのだが、これが直後のリーグ無失点記録につながった。江尻は早大時代にも頭部に死球を受け生死をさまようという不幸な事故に遭っている。
- 現役時代は、勝負強い打撃が持ち味の中距離打者。レギュラーとして活躍したのは1967年~1976年までの10シーズン。主に1番~3番を打ち、守備においては、投手出身でもあることから強肩で鳴らした。 規定打席で打率3割に達したシーズンはなかったものの、打撃ベストテンには4度にわたってランクインされている。
- 大卒でプロ入り後に打者転向し、1000本安打を達成した数少ない選手の一人である。
- 1978年、前年頭部死球を受けた巨人加藤初が先発した試合で別当薫監督は代打にいる江尻を送り「このままで終わりたくないだろう。ケリをつけてこい」とハッパをかけた。この言葉で江尻は奮起し、加藤からプロ野球最後のホームランを放った。なお、横浜移転後は代打で活躍し2年で引退した。
- 1992年、須藤豊率いる大洋は佐々木主浩、石井琢朗、盛田幸妃、野村弘樹、友利結など若手を積極登用した結果開幕からつまずき最下位。須藤監督は5月に早々と辞任チームから手を引く。江尻はこれにより急遽チームの指揮を執らざるを得なくなったが、先発の柱だった盛田を中継ぎに転向させ、またアキレス腱を痛め抑えに回っていた遠藤一彦を先発に再転向させるなど投手陣の建て直しで残りのゲームの勝率を5割で乗り切った。「次の年も引き続いて生え抜き監督に指揮を」という声もあったが辞退している。今でもこの当時を知る大洋・横浜ファンにはこの年の江尻を高く評価し、次期監督に江尻を推薦する熱狂的な意見すら存在する。
- 1996年の「大矢監督の大コンバート」まで石井琢朗はサードを守っていたが、世代交代を痛感していた須藤は石井をショートで育て、正ショートだった名手進藤達哉をサブに回していた。しかし、それはチームの成績を引き換えにする覚悟を必要とするものだった。江尻は勝利を目標とし、石井をサードに回すことでショート進藤と併用している。また、盛田と佐々木の記憶に残るダブルストッパーが誕生したのも盛田の中継ぎ転向を促した江尻によるものである。この年盛田は中継ぎ適正を十二分に発揮、大車輪の活躍でリリーフながら最優秀防御率を受賞している。
- 1992年のシーズンオフにチームが「横浜ベイスターズ」に改称したため、江尻は「大洋ホエールズ」の最後の監督となった。後任には早大・大洋の先輩の近藤昭仁が就任。
- 一方1996年のロッテは、1992年の大洋と同じく伊良部秀輝のMLB移籍問題など危機に瀕しており、やはり彼の腕の見せ所と思われたが、大洋時代の勝率を大きく下回った。なお、後任には同じく近藤が就任している。
- 現役引退まで独身を貫きコーチ時代の42歳の時に15歳以上も年下の女性と結婚したため話題になった。
- 実家は旅館を営んでいた。
- 俳句が趣味で俳号を称している程である。
[編集] 背番号
- 19 (1965年~1979年)
- 91 (1980年~1986年、1990年~1992年)
- 90 (1995年~1996年)
[編集] 投手通算成績
- 10試合 0勝1敗0S 防御率3.50
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
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1965年 | 大洋 | 19 | 27 | 25 | 5 | 7 | 0 | 0 | 1 | 10 | 3 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | .280 |
1966年 | 71 | 201 | 24 | 61 | 18 | 2 | 4 | 95 | 16 | 0 | 1 | 0 | 7 | 22 | .303 | ||
1967年 | 117 | 297 | 36 | 73 | 11 | 4 | 7 | 113 | 21 | 4 | 2 | 1 | 16 | 22 | .246 | ||
1968年 | 127 | 435 | 56 | 108 | 20 | 7 | 14 | 184 | 44 | 10 | 6 | 0 | 22 | 52 | .248(23) | ||
1969年 | 113 | 382 | 53 | 108 | 17 | 2 | 18 | 183 | 43 | 5 | 5 | 1 | 23 | 60 | .283(9) | ||
1970年 | 128 | 458 | 53 | 124 | 23 | 3 | 11 | 186 | 51 | 13 | 12 | 1 | 26 | 40 | .271(9) | ||
1971年 | 127 | 464 | 49 | 130 | 14 | 3 | 6 | 168 | 31 | 17 | 1 | 2 | 37 | 38 | .280(5) | ||
1972年 | 127 | 423 | 57 | 112 | 18 | 4 | 12 | 174 | 39 | 11 | 1 | 3 | 41 | 47 | .265(22) | ||
1973年 | 122 | 433 | 54 | 126 | 18 | 1 | 15 | 191 | 44 | 8 | 1 | 5 | 35 | 41 | .291(5) | ||
1974年 | 120 | 426 | 54 | 120 | 9 | 4 | 10 | 167 | 37 | 4 | 5 | 1 | 32 | 34 | .282(13) | ||
1975年 | 123 | 430 | 48 | 119 | 12 | 2 | 7 | 156 | 36 | 6 | 14 | 3 | 27 | 30 | .277(17) | ||
1976年 | 114 | 360 | 38 | 90 | 13 | 1 | 8 | 129 | 33 | 3 | 0 | 1 | 20 | 31 | .250 | ||
1977年 | 68 | 166 | 19 | 44 | 10 | 1 | 1 | 59 | 21 | 1 | 0 | 5 | 19 | 11 | .265 | ||
1978年 | 59 | 61 | 4 | 16 | 2 | 0 | 2 | 24 | 13 | 0 | 0 | 1 | 7 | 11 | .262 | ||
1979年 | 42 | 42 | 1 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 4 | 0 | 0 | 0 | 3 | 5 | .262 | ||
通算成績 | 1485 | 4603 | 551 | 1249 | 186 | 34 | 116 | 1851 | 436 | 82 | 48 | 24 | 317 | 449 | .271 |
[編集] タイトル・表彰
[編集] 監督通算成績
- 237試合 114勝119敗4引分 勝率.489
[編集] 関連項目
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- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1992年は5月5日からシーズン終了まで指揮。
渡辺大陸 1950 | 中島治康 1951 | 有馬義一 1951 | 小西得郎 1952-1953 | 永沢武夫 1954 | 藤井勇 1955 | 迫畑正巳 1956-1958 | 森茂雄 1959 | 三原脩 1960-1967 | 別当薫 1968-1972 | 【代行】青田昇 - 宮崎剛 1972 | 青田昇 1973 | 宮崎剛 1974 | 秋山登 1975-1976 | 別当薫 1977-1979 | 土井淳 1980-1981 | 【代行】山根俊英 1981 | 関根潤三 1982-1984 | 近藤貞雄 1985-1986 | 古葉竹識 1987-1989 | 須藤豊 1990-1992 | 江尻亮 1992 | 近藤昭仁 1993-1995 | 大矢明彦 1996-1997 | 権藤博 1998-2000 | 森祇晶 2001-2002 | 【代行】黒江透修 2002 | 山下大輔 2003-2004 | 牛島和彦 2005-2006 | 大矢明彦 2007- |
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