三浦知良
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三浦知良 | ||
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名前 | ||
愛称 | カズ、キング・カズ | |
カタカナ | ミウラ カズヨシ | |
ラテン文字 | MIURA Kazuyoshi | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1967年2月26日(41歳) | |
出身地 | 静岡県静岡市葵区 | |
身長 | 177cm | |
体重 | 72kg | |
血液型 | A型 | |
選手情報 | ||
在籍チーム | 横浜FC | |
ポジション | FW(WG、CF) | |
背番号 | 11 | |
利き足 | 右足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1981 1982-1985 1986 1987途 1987-1988 1989 1990途 1990-1992 1992-1994 1994-1995 1995-1998 1998-1999 1999-2000 2001-2005途 2005 2005-2006 2006-現在 |
ジュベントス サントス マツバラ CRB キンゼ・デ・ジャウー コリチーバ サントス 読売クラブ ヴェルディ川崎 ジェノア ヴェルディ川崎 クロアチア・ザグレブ 京都パープルサンガ ヴィッセル神戸 横浜FC シドニーFC 横浜FC |
39(9) 58(36) 21(1) 95(55) 12(0) 41(21) 103(24) 16(4) 4(2) 63(9) |
代表歴2 | ||
1990-2000 | 日本 | 91(56)
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1国内リーグ戦に限る。2007年12月15日現在 22007年12月15日現在 |
三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、日本の現役最年長プロサッカー選手。静岡県静岡市葵区出身。横浜FC所属。
ブラジル時代のポジションは左WGであったが、日本帰国後はセンターフォワードとしてJリーグで活躍し、日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。しかし、ワールドカップ予選での総得点を27点記録するも、ワールドカップは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼年期
1967年、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父につけられたものだという。1973年、静岡市立城内小学校に入学した。
小学時代には、静岡市のゴールというスポーツショップを経営する伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚し、三浦姓を名乗るようになった。
[編集] ブラジル時代
1982年、私立静岡学園高校を、1学年修了を待たずして中退。ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学。その後ブラジル中を渡り歩くことになる彼の出発点であった。 なお、ブラジルへ渡った1982年は、三浦和義容疑者による「ロス疑惑」で日本中が騒然となっていた時期であったため、母から「同姓同名の人がロスで事件に巻き込まれたから、気をつけなさい。」と声をかけられたという。
1985年、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場。SBSユースに、キンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋。当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った。
1986年2月、サントスFC(カンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国選手権の古豪)とプロ契約。しかし1年間で出場できたのは1部リーグ2試合だけに留まり、チームの足を引っ張り現地のマスメディアから「サントスのウイングが日本人に務まるわけがない」と叩かれ、半ば戦力外という形で放出され5月にはパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国を果たした。
その年の10月にはパラナ州のソシエダージ・エスポルティーバ・マツバラへレンタル移籍し、1987年2月にはマツバラと正式契約を結び、南部三州リーグ優勝に貢献。
10月、アラゴアス州のクルベー・デ・レガッタス・ブラジル(CRB)に移籍し、日本人で初めてブラジル全国選手権に出場。この後、カズの代名詞となる高速ドリブルを磨いていった。
1988年、サンパウロ州選手権のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。日本人として、リーグ戦初ゴールをコリンチャンス戦で記録した。このときの試合はテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った。クラブでの活躍により、カズはジャウー市から名誉市民賞を贈られている。
1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献。
1990年2月、満を持してサンパウロ州のサントスFCへ再移籍。1987年にマツバラへレンタルされた時からもう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたカズは、高額な契約金で誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍だった。
この時カズは、サントスFCで足を引っ張りマスコミからたたかれたときのころからは考えられないほど成長しており、出場回数も飛躍的に増え主力選手の1人として認知されるようになっていた。
[編集] 日本への凱旋〜欧州移籍
1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本リーグ・読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、期待とは裏腹に、クラブでは日本のサッカーになじめずなかなか活躍できなかったが、徐々に日本のサッカーに慣れ、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれ読売 = 川崎の黄金期を築いた。1992年日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞に続き1993年、日本人最高の20得点を記録しヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞した。日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。
プロとして築いた数々のキャリアを引っ提げて、1994年にはイタリア・セリエAのジェノアに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。ACミランとのセリエAデビュー戦において、フランコ・バレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼下系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。復帰後、サンプドリアとのジェノヴァダービー決勝点となるゴールを奪う。しかし結局ゴールはこれのみで,21試合出場に留まった。なおジェノアとの契約は当初から、チームの戦力補強として合意に至ったというよりも、ジェノアのユニフォームスポンサーとなったケンウッドの後押しで実現したとも言われている。この当時はまだまだ日本人に対しての偏見が強く、保守的だったジェノアの監督からは快く思われていなかった。カズの移籍は当時ヴェルディのオーナーであった渡邉恒雄との、1年限定との約束(レンタル)であったため、シーズン終了後にはヴェルディへ復帰することとなった。そのためスペインリーグやスイスリーグのチームからオファーが来ていたが、代理人への話だけで具体的な身分照会はなかった。
その後、ヴェルディに復帰すると、1996年には得点王になるなど活躍したが、1997年頃から本来のスピードやキレがなくなり(イタリア時代の経験から、筋力トレーニングを増やした結果や怪我が原因という意見が多い)、得点数は減少。チームも年々勝てなくなっていった。
1998年末、川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍を決意した。ザグレブでは、アシストのみでゴールは挙げられなかった。そのシーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるアルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。
[編集] Jリーグへの復帰〜現在
1999年7月、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた、京都パープルサンガに移籍。2000年には17得点を記録し、残留争いをするチームにもかかわらずストライカーの役割を十分に果たした。しかしこのシーズン、京都は降格し「カズを2部チームに在籍させるのは失礼である」という不可解な理由で自身2回目であるゼロ円提示を受ける。
2001年からはヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。得点に関しては、1年目は11得点を記録し、健在ぶりをアピールしたが、その後は4年間で僅か13得点といった結果しか残せなかった。2005年には、監督のように振る舞っていたコーチである兄の泰年に依るカズ自身も含めた不可解な選手起用により兄泰年は解雇され、本人もキャプテンの座を剥奪されてベンチ外に置かれるなど散々なシーズンとなった。シーズン途中の2005年7月、追われる形で横浜FCに移籍した。 横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍。シドニーFCには元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。
カズは放映権を取得していた日テレの意向によりゲストプレイヤー枠で起用され、リーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。特にこの時の2得点はラインの背後に抜け出てのゴールということで、本人もヴェルディ時代以来の裏への飛び出しで決めたゴールと述懐している。カズはゲストプレイヤーとしての4試合出場で予定通りにチームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では2試合に先発出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦に勝ち6チーム中5位となった。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。
2006年2月からは横浜FC選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。ちなみに現役にこだわる姿勢のため、Jリーグの監督に必要な指導者ライセンスを所持していない。このシーズン、39試合に出場し僅か6得点を記録したのみとはいえ、「予想外の躍進」と言われた横浜FCのJ1初昇格に貢献した。
2007年9月15日・サンフレッチェ広島戦において、日本人選手史上最年長ゴールを記録し、2007年シーズンは3得点の成績だった。2007年10月21日横浜FCのJ2降格決定後、自身41歳になる来期も現役続行を示唆している。2007年12月1日浦和レッズ戦では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという状態の中、現日本代表の阿部勇樹をサイドから抜き去り、その後のセンタリングから決勝点をアシストした。
[編集] 日本代表
[編集] 代表デビュー〜エースとして
日本代表としても数々の輝かしい実績を残す、彼のA代表デビューは1990年9月のバングラデシュ戦。その後もハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップ、アジアカップ1992では「魂込めました、足に」の名セリフで知られる後半終了間際のゴールを決めたイラン戦での活躍もあり優勝などに貢献する。
1993年のワールドカップ米国大会予選はカズの独壇場となった。1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ不動のエースとして活躍。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは本大会出場を引き寄せただけでなく、日本サッカーが韓国を40年間超えられなかった壁であったワールドカップ予選のアウェー戦で初めて破ったという意味でも値千金であった。
しかし2次予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「右足を目一杯伸ばしたが、相手選手にセンタリングを上げられてしまい、『決められるんじゃないか…』という、かなり嫌な予感がした」と語っている。
[編集] フランスW杯に向けて
その後、パウロ・ロベルト・ファルカン、加茂周と監督が変わる中でも、カズはコンスタントにゴールを決め続け、エースの座を保持し続けていた。だが、1997年のワールドカップフランス大会最終予選、初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後の試合では1ゴールも挙げられず、カズ代表不要論が高まり、国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、またそれらに応戦する姿がワイドショーで放映された。
その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことは現在でも語り草となっている。
この時、サブメンバーでウォーミングアップを行っていた呂比須ワグナーがベンチに呼ばれてユニフォームに着替え、ピッチ内へは中山の交代だと伝えられていた。だが岡田武史監督はその時ベンチに座っていた城彰二にも声をかけ、同時に交代することを決断した。城はベンチに座っていたため、無論ウォーミングアップは行っておらず、正に急な交代となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴンなのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)一般的には『まさか俺を交代させるのか?』と言うアピールだとマスコミに勝手に解釈をされてしまい、ファンの間で誤解を受ける切っ掛けとなってしまった。イランのアジジが11番を着けており同時に交代したため、どちらの11番を指しているのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている。また予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴る事」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴った事で「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。
1998年、ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだ。しかし、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から惜しくも漏れ、苦渋の帰国となった(ニヨンの衝撃)。
1990年に帰国した折、「日本代表をW杯に出場させるために帰ってきました」とコメントしたとおり、この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられ、世間を二分する大論争になった。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断に批判が集中した。
発表に至るまでは、マスコミによるカズ不要論も新聞紙面を中心に語られており、現場でもコーチ陣とのミーティング内で調子の上がらないカズを外すべきという声が既に挙がっていたという。W杯参加国全ての監督がしなければならなかった決断に過ぎず、カズがその対象になったということでしかない、と言う声もある。しかし、他にも日本代表に残りながら出場のチャンスが全くなかった選手がいたことにも批判が集中した。また、精神的支柱として位置していたカズをいきなりチームから外してしまったことで、チームが空中分解してしまったと批判するマスコミも多かった。
おして、同じくベテランながら不調で本大会でのプレーが疑問視された、リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリード所属であり、スター選手でもあったクロアチアのダヴォール・シューケルが大活躍し、クロアチアを3位に押し上げた結果を見たごく一部のファンからは「こんなことならば、カズをメンバー入りさせていれば結果が変わったかもしれない。」というスペインと日本のレベル差を考慮しない字の通りの不毛な論議が起った。
カズ自身にとって非常に不幸であったのは、世界の強豪国の代表チームであれば必ずエースの穴を埋める選手が現れるのだが、結局当時の日本ではカズに代わる選手は出てはこなかったことで、怪我を押して出なければいけないことであった。結果調子を落とし、最後の最後でベンチからすら外されてしまうということは、まさにサッカー後進国である日本の厳しい台所事情を表していた。
[編集] フランスW杯後
フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからもしばらく代表に招集されることはなかったが、1999年末から2000年までは再び代表に招集された。しかし2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦が最後の出場になった。この試合では、中田英寿からのパスで現在のところ、最後となる国際Aマッチでのゴールを決めている。それ以降は韓国戦に招集はされたが、サポーターからベンチに座るカズへのカズコールも起きたにもかかわらず、結局出場機会はなかった。トルシエは、カズの人格面を高く評価しており、2002年のワールドカップではコーチとしてカズをチームに加えたい意向を示し、カズ自身もその打診があったと認めている。しかしあくまで現役選手としての代表にこだわるカズはこれを固辞した。
[編集] プレースタイル
ブラジル時代は細身の体を生かして、キレのあるドリブル突破でウイングとして活躍。サントスのファンの間では、カズのブラジル代表への帰化を望む声もあったほど。ブラジルより帰国後は、フィジカル面で一皮剥け、カズ・フェイント(リベリーノというブラジル代表選手のフェイントをアレンジしたもの)と称された独特のフェイントを駆使したドリブル突破はサポーターを魅了した。
その他、パス、トラップ、シュート等基本的なプレーも、ず抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。本人も息子に「止める蹴るが大事」と教えているように、基本的なプレーをおろそかにしない。若い頃は、彼がクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった。
また、代表やクラブで全盛期を迎えていた頃からのメンタリティの強靱さは健在。現在Jリーグでベテランらしい読み、熟練した体の使い方等は若手選手の模範と言える。得点の減少により出場時間は大幅に減ったものの、本職であったチャンスメーカー的な役割を担い前線で積極的にプレスを掛け守備を安定させる役割を務めている
現在ではFWの仕事に守備は含まれているが、90年代は守備はFWに要求されていなかった。その時代にも守備をしっかりこなす等、献身的なプレーも特徴である。
[編集] 人物
[編集] パブリック・イメージ
通称は「カズ」「キング・カズ」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に「週刊サッカーマガジン」などベースボール・マガジン社の出版物)ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもあるが、同姓の選手が多いこともあり、ファミリーネームの「三浦」のみで呼ぶことは少ない。愛称の「カズ」で呼ぶ事が定着している。40歳を超えても現役でプレーし続け、そのストイックな選手生活や波乱に富んだキャリアから、日本プロサッカー界におけるパイオニア的存在として名高い。
1993年8月1日タレントの三浦りさ子(旧姓:設楽理佐子)と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手三浦泰年(通称ヤス)。伯父の納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっている。
[編集] サッカー選手として
世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある。40歳を迎えてもその意識付けは全くブレることがなく、彼の存在そのものが「活きた手本」として同じピッチでプレーする選手達へプロ意識の種を蒔く事になっている。
練習量も多く常に先頭に立って声を出し、精力的に動く。『カズさんがやってるんだ、俺たちがやらなくてどうするんだ!』と練習を共にする選手の意識を変え、食生活、トレーニング、筋肉の管理、全ての面においてサッカーに捧げる生活に身を置いており、彼より若くして引退した選手達の多くが、自分たちの若い頃のプロ意識の至らなさを、カズを見て反省すると言う。
2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州一部リーグに所属するウニオン・サンジョアンのクラブ買収に乗り出していることが明らかになった。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようだ。
クロアチア・ザグレブ在籍時にチームメイトだったゴラン・ユーリッチ選手を真似て、それ以降公式戦では冬場でも半袖でプレーする(親善試合や練習試合、オールスター戦などで長袖だけしか用意されていない時を除く)。長袖だと相手DFにシャツを引っ張られる面積が増える為と言うのが理由だが、多くのファンやマスコミは『気合を入れるため』と思い込んでいた。
[編集] スター選手として
カズ加入後、横浜FCは以前より観客動員数が大幅に増え、アウェイの試合でも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。またこのシーズンの横浜FCのレプリカユニフォームは、カズ加入後に爆発的に売り上げを伸ばし完売した。同チームとしては異例とも言える追加発売を行ったが、またも完売するという盛況ぶりであった。
また、本人や一部ファン共に日本代表復帰を熱望し、今なお日本代表の背番号11には「KAZU」のネームを入れたユニフォームを注文したり代表Aマッチには着用して応援するファンも見受けられる。ちなみにデザインは彼がもっとも活躍していた1993年の"ドーハモデル"と言われている物や炎を象った96-97モデルにはじまり、代表に選出されなくなった年代の物を含め最新モデルにも11・KAZUのネームナンバーを取り付けたユニフォームなど様々である。 通常、ユニフォームを取り扱う店には代表に選ばれていない選手のネーム在庫は置かないが、カズの物だけは特別に製作される場合がある。
[編集] 背番号へのこだわり
カズの代名詞とも言える「背番号11」へのこだわりは強い。ブラジル時代、もっとも長く付けていたのが11番であり、「相棒のような物」と本人が語る。当時のブラジルは固定背番号制ではなく、1試合事に背番号が流動的に変わるシステムであったが、スタメンが固定されているチーム内では暗黙の了解で背番号がほぼ固定されていた。サントス時代などは7番や13番なども付けたが、ブラジルでの初ゴール、初の月間MVP取得時などに彼の背には11があった。日本に帰国した時も読売クラブに11を希望していたがすでに埋まっており、仕方なく空いていた24番を選択。このシーズンの活躍もあり、翌シーズンには希望通り11番を付けた。このシーズンには、「僕の背番号は11。でも、9番(ストライカー)の仕事も、10番(チャンスメーカー)の仕事も求められる。9+10+11で、30の仕事をする」と語った。クロアチア・ザグレブ在籍時には、11はすでに埋まっており、チームは空いていた9番を奨めたが、ジェノア時代、デビュー戦で9番を付け負傷退場した思いがあり13番を選択した。京都パープルサンガ移籍時も、冗談が前提であったにしろ、11を付けていた藤吉に「500万で譲ってくれないか?」と言った(カズ本人はしつこく『冗談だ』と強調するが、藤吉自身は他のインタビューにて「カズさんの目は本気だった」と語っている)。結局その年はリーグ戦は36番でプレーし(天皇杯は別登録のため11番)、翌年から11番となった。
他にも、携帯電話の末尾、車のナンバー、マンションの部屋番号、コイン駐車場に車を駐めるのも11番にしてしまう徹底ぶりで、「11じゃなきゃカズじゃ無いでしょ?」と無邪気に語る。
[編集] ファッション
2007年現在は短髪を通しているが、かつては様々なヘアスタイルで話題となった。
- はじめはごく普通のサラサラヘアだったが、1993年のJリーグ戦開幕直前にパーマを掛け、後部分を刈り込むという奇抜なヘアスタイルに(ソフトドレッドヘアという)。このヘアースタイルは、ろくでなしBLUESのあるキャラクターのモデルにもなっている。しかし開幕戦は横浜マリノスに敗れ、Jリーグ初得点もチームメイトのマイヤーに掠め取られる。こうした不調から『髪型がチャラチャラしているからだ』などと非難され、ある試合中にPKを外した反省から短髪にした。
- 短髪にした理由として、一説には、当時問題となっていたヴェルディ内紛(マイヤー、ハンセンら新入り外国人選手の起用に関する、松木安太郎監督と加藤久、ラモスら古参との対立)を収拾するための覚悟とも言われる。断髪以降、本来の調子に復調し、Jリーグ初年度MVPを獲得するに至る。そのゲンを担いでいるのかは不明だが、この年以降KAZU=短髪と言うイメージが出来上がる。
- 1994年、セリエA(当時)ジェノアへの移籍が決まった頃、髪を伸ばし始めるようになり、一時は耳が完全にかぶさるほどにまで伸びた。
- 1995年、ヴェルディ川崎復帰時はまた元の短髪に戻す。また、シーズン終了後のJリーグ・アウォーズでは、巨大なアフロで登場。ベストイレブン表彰後にそのアフロを外すと、中からは非常に明るい(白に近い)金髪になっており、場内を2度驚かせた。このエピソード以降、彼にはキングと並ぶ2つ目の称号、『お祭り男』を得ている。
- 1998年、ワールドカップフランス大会直前に代表から落選した際、北澤豪とともに傷心の帰国。この時、頭髪は金色に染められていた。
- Jリーグ初代MVPの表彰式で、派手に登場した時着ていた真赤なスーツは、6歳上の大親友田原俊彦のアドバイスによるものである。
- 神戸時代は2週間に1回は髪型を維持するために美容院に行っていた。その美容師をカズは気に入り、最近では、その美容師を横浜まで呼んでいる。また、シドニーFC移籍時にはオーストラリアまで呼び出した。無論、交通費はカズ持ちである。ちなみに最近のヘアスタイルはモヒカンリーゼントと言う通称で通っているらしい。
[編集] 語録
- 「悲しみはいつか癒えていくのかもしれない。でも、傷って消えることは無いんです」(1997年フランスW杯アジア地区最終予選開始前、「ドーハの悲劇について今どう思いますか?」と質問され)
- 「成功した時にスポーツ紙の一面になるのは普通の選手。失敗した時にスポーツ紙の一面になる選手は限られている。一面で失敗を取り上げられ叩かれることに誇りを持てばいい」(1998年柔道の田村亮子選手が、イチロー選手との対談で「KAZUさんに言われたこの話を思い出すと心強くなる」と語った)
- 「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こう(フランス)に置いてきた」(1998年6月フランスW杯メンバーから漏れての会見で)
- 「日本も世界なんですよ」(記者の「日本は世界を相手に戦えますか?」との質問に対して)
- ドリブルは、とられるから文句を言われるわけで、相手を全員抜けば、“神様”になれる。
[編集] エピソード
[編集] 選手編
- 中学3年生の時、進路指導の紙の志望高校を書く欄に『ブラジル』と書き、先生にものすごく怒られた。この件について「当時既にブラジルに行く以外考えていなかったので、高校名を書くわけにはいかないと思ったから」と『ジャンクSPORTS』出演時に語っている。
- 契約金の良さにブラジルから帰国したと語っていたが、実はラッシャー板前の家に居候という経済的に困窮していた事を浅草キッドに『ジャンクSPORTS』で暴露された。
- キックオフ前の集合写真撮影時や移動バス内では常に一番後ろの左側を定位置、練習用ビブスは11番を手放さないことに執着。
- 城彰二がW杯でフランスから帰国した際空港で水をかけられたのを友人からの口コミ(あるいはテレビを見た)で知り、城に「水をかけられたということはお前(城)が日本人全員にエースと認められたということなんだぞ。俺(カズ)だってブラジルでファンにドラム缶を投げられたんだゼ」と電話で激励の言葉をかけたという。
- ロッカールームでは常にバスローブを着用していたため、サッカー番組で神戸時代のチームメイトによって、ロッカー内にあった赤いバスローブが披露された。
- 2002年W杯の日本対ベルギー戦の直前まで、カズは一人黙々とグラウンドで練習を続けてコンディションを整えていた。ある記者がカズにその理由を尋ねると、カズは「試合直前だけど試合が始まるまでは何が起こるかわからないよね。もしかしたら集団食中毒が起こるかもしれないし、代表に選ばれたFWが怪我するかもしれない。そして、もしかしたら誰かの代わりに自分が選ばれるかもしれない。もし、そうなって自分が日本代表に選ばれた時、恥ずかしいコンディションでピッチの上に立つなんてことは、自分には絶対にできない。日本代表というのはそういうものじゃないんだ。後悔だけは絶対に残したくないんだ」と答えた。事実、そのような事態に陥ったところでカズが代表に選ばれることは皆無であったが、彼の日本代表への思いが伝わるエピソードと言える。
- ブラジルの少年たちに200個のサッカーボールを寄贈した際、ひとつひとつに「夢をあきらめるな・カズ」と自筆のメッセージとサインを入れた。現地の少年たちはずっと、そのボールの製造メーカーが「カズ」であると思い込んでいたというエピソードがある。
- 週刊サッカーマガジン(ベースボール・マガジン社刊)の「選手評価点」において、日本代表史上初の「10点満点」(通常は「6」が平均で、最低1~最高10までの0.5刻みで評価される)と評価されたことがある(他にJリーグでは、ジーコと中山雅史のみが満点を出している)。
- 横浜FCでは、監督である高木琢也より歳(学年)が上であり、高木は現役時代から長らく「カズさん」と呼んでいたが、監督と選手の関係になった際にカズから「呼び捨てでいいよ」と声を掛け、高木が遠慮なく振舞えるよう配慮した。
- 2006年から、試合時にはケガをしていなくても手首にテーピングをしている。そこには「シュート」「勝つ!」など自分を鼓舞するメッセージ、「7番(注意すべき相手選手の背番号)」「サイドチェンジしてくる時(自分のマークしている選手のポディションの確認)」など戦術的な物などが書かれている。また、「必勝」を書いたら負けたので、それ以降「必勝」は書かなくなった。
- ブラジルからの帰国直後の読売クラブ時代、天皇杯予選にラモスらと出場するも、国士舘大学にPK戦の末敗れるという番狂わせを味わっている。本人はこの時のことを、後年まで「自分のサッカー人生最大の汚点」と語っている。
[編集] プライベート編
りさ子夫人とは10代からの付き合いで、「良いも悪いも互いに全て知っている男女を越えた戦友のような間柄」だというが、互いの仕事や子供の教育の都合から別居婚形式を採っている。
- 1993年8月1日のサレジオ教会での結婚式での媒酌は、当時自身が所属していたヴェルディの親会社読売新聞社長渡辺恒雄夫妻。
- 新婚当初、カズが筋トレを始めると、夫人が自分も負けないと「腹筋対決」「自転車対決」を挑んできて勝負をしていた(しかしお互い手加減しないので大抵ケンカになる)。
- 夫人によると、長男はおっとりしており、次男はかなりヤンチャ。
- 2004年頃、長男は映画『NIN×NIN忍者ハットリくん』に夢中になり「大きくなったら忍者になりたい」と言ったという。
- 息子は2人ともサッカーをしているが、カズ自身はほとんどその姿を見たことがない。2005年、初めて長男のサッカー試合・練習を見に行ったカズは、その最中は黙ってみていて何も言わなかったのだが、終わって家に帰る際りさ子夫人に一言「いつもこんな調子なのか?」とだけ聞いたそう。
- 中山雅史・生田智子夫妻のキューピッド役になったのもカズ・りさ子夫妻。カズ主催の食事会で、当時まだ無名だった中山と、りさ子夫人と親しかった生田を引き合わせたのが縁だったという。
- ブラジルの永住権を今でも更新している。
- 9歳になる長男に「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」と聞いたら、冗談まじりに「巻!」と言われたという。
- カズ本人によれば映画『ゴッドファーザー』好きで、自身の時に奇抜なファッションはこの作品に影響を受けたことが原因だと証言している。日本サッカー界屈指の「伊達男」だと勝手に自認する。特にスーツを愛好する有名な服好きであり、都内に洋服保存用マンションを購入したほどである。
- 朝起き抜けに出掛ける時もスーツに着替える(極端な例として、コーヒーを一杯飲みに行く為だけに着替え、帰宅後にまた着替えて寝たことがある)ほどだったが、最近は所属する横浜FCの空気がそうさせたのか、ジャージで出歩くことも多くなった。しかし、サングラスとマフラーは忘れないらしい。
- 武田修宏と会う約束をしていた時に、武田が待つ場所へ全身白(帽子、スーツ)にサングラスという危険な出で立ちで現れ、武田がうろたえた。
- SMAP×SMAP出演時に、1度服を処分した事を告白。保存用のマンションを購入したにも関わらず処分せざるをえない程所有していたようだ。
- ゴッドファーザー好きは、よく行く店でカズが来店するとBGMに必ず「ゴットファーザーのテーマ」をかけさせるほど徹底している。前園真聖に「(西麻布の行きつけの飲食店で)この曲がかかってたら必ず俺がいるから」と言っていたことを前園自身が語っているほか、ミラノのフォーシーズンズホテルでもカズが行くとゴットファーザーのテーマが演奏されることを北澤豪が暴露した。(いずれも『ジャンクSPORTS』より)
- 好物は彼の自著の名前にもなっているおはぎ。そして、よく煮込んだ静岡風雑煮を真夏でも食するらしい。
- ミュージシャンの浜田省吾とブラジル時代から20年来のつきあいがあり、現在でも一緒に食事に行くことがある。カズはもともと浜田のファンで、ブラジル時代にも浜田の曲をよく聴いていたそうだ。2006年8月に発売された浜田のベストアルバムのCMにも友情出演した[1]。
- 最近(2008年)は矢沢永吉をよく聞いている[2]。
[編集] 名前に関するエピソード
- 機動戦士Vガンダムでは、カズー・ミウラという名前のパイロットが登場している。
- ロス疑惑の容疑者である三浦和義とは同音異字。ロス疑惑・三浦和義に関する報道華が過熱していた1980年代中頃は、カズはブラジルでプレーしていた。その為、サッカー選手として帰国して後も知名度を得るまでは勘違いされる事が多々あったという。
[編集] カズダンス
本人が得点を決めた時にするパフォーマンス。カレカが行っていたポーズを参考に、田原俊彦がアレンジを加えた。独特な細かいステップを踏みながら両手を回し、左手で股間を抑え右手で前方または天を指さすのがスタンダード。
カズ本人によればサンバのつもりだったのだが、これを見た当のカレカは「あれはサンバじゃないな」と言ったそうである。しかし、『ゴール後のパフォーマンス』を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた。 最近では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に吉武剛と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。
また、Jリーグ開幕時の前園真聖など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教[5]をしたという。それ以来城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また須田興輔も2005年(当時水戸ホーリーホック在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、現在実現はしていない)。またコンサドーレ札幌に所属していた相川進也(現所属FC岐阜)は2005年第34節徳島戦にて披露している。また神戸でチームメイトだった朴康造は、かつて韓国代表の試合で得点したときに披露したことがある。
なお日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時である。もっとも後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。
1995年のキリンカップでは新パターンのカズダンスを披露したが、あまり使わなかった(実は1993年度チャンピオンシップでも披露しているが、あまりにいつもと動作が違うためにカズダンスと気付かなかった)。
とんねるずの生でダラダラいかせて!!の木梨vsヴェルディと言う企画では、ロベルト・バッジョと考えたと言う今までのカズダンスとまったく違う奇抜なダンス(何かを混ぜるような動作で腕を回し、その後に頭も回す)を披露したが、公式戦などでは披露しなかった。
なお、フィニッシュはガッツポーズや投げキッスなど、いくつかヴァリエーションがある。先に述べた自身の持つJリーグ最年長ゴール記録更新の際に披露したものは、腕を回した後最後に跪いて観客席メインスタンドに向かって指差すといった物だったが、カズによれば試合後長男から「あれは『カズダンス』じゃない」とダメ出しをされたという。
[編集] 所属クラブ
- 1982年 ジュベントスカンピオナート・ブラジレイロ)
- 1982年 - 1985年 サントスFC
- 1986年 SEマツバラ
- 1987年 CRB
- 1987年 - 1988年 キンゼ・デ・ジャウー
- 1989年 コリチーバ
- 1990年 サントスFC
- 1990年 - 1994年7月 読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)
- 1994年7月 - 1995年7月 ジェノア(セリエA) (1シーズン)
- 1995年7月 - 1998年 ヴェルディ川崎
- 1999年 - 1999年7月 クロアチア・ザグレブ(クロアチア)(途中退団)
- 1999年7月 - 2000年 京都パープルサンガ
- 2001年 - 2005年7月 ヴィッセル神戸 (途中退団)
- 2005年7月 - 10月 横浜FC (途中加入)
- 2005年11月 - 2005年 シドニーFC (オーストラリア)(期限付き移籍)
- 2006年 - 現 在 横浜FC
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1982 | ジュベントス | ||||||||||
1982 | サントス | 1部 | |||||||||
1983 | サントス | 1部 | |||||||||
1984 | サントス | 1部 | |||||||||
1985 | サントス | 1部 | |||||||||
1986 | マツバラ | ||||||||||
1987 | CRB | ||||||||||
1987 | ジャウー | ||||||||||
1988 | ジャウー | ||||||||||
1989 | コリチーバ | 1部 | 6 | ||||||||
1990 | サントス | 1部 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | 読売 | 24 | JSL1部 | 18 | 3 | ||||||
1991-92 | 読売 | 11 | JSL1部 | 21 | 6 | ||||||
1992 | V川崎 | - | J | - | 10 | 10 | 2 | 1 | 12 | 11 | |
1993 | V川崎 | - | J | 36 | 20 | 1 | 0 | 3 | 3 | 40 | 23 |
1994 | V川崎 | - | J | 22 | 16 | 0 | 0 | - | 22 | 16 | |
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1994-95 | ジェノア | セリエA | 21 | 1 | - | - | 21 | 1 | |||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | V川崎 | - | J | 26 | 23 | - | 2 | 0 | 28 | 23 | |
1996 | V川崎 | - | J | 27 | 23 | 6 | 2 | 5 | 4 | 38 | 29 |
1997 | V川崎 | 11 | J | 14 | 4 | 0 | 0 | 2 | 1 | 16 | 5 |
1998 | V川崎 | 11 | J | 28 | 5 | 0 | 0 | 3 | 2 | 31 | 7 |
クロアチア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1998-99 | クロアチア・ザグレブ | 13 | 1.HNL | 12 | 0 | - | - | 12 | 0 | ||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | 京都 | 36 | J1 | 11 | 4 | 0 | 0 | 2 | 1 | 13 | 5 |
2000 | 京都 | 11 | J1 | 30 | 17 | 7 | 2 | 1 | 0 | 38 | 19 |
2001 | 神戸 | 11 | J1 | 29 | 11 | 3 | 2 | 2 | 0 | 34 | 13 |
2002 | 神戸 | 11 | J1 | 17 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 18 | 3 |
2003 | 神戸 | 11 | J1 | 24 | 4 | 4 | 0 | 3 | 2 | 31 | 6 |
2004 | 神戸 | 11 | J1 | 21 | 4 | 5 | 0 | 0 | 0 | 26 | 4 |
2005 | 神戸 | 11 | J1 | 12 | 2 | 6 | 1 | - | 18 | 3 | |
2005 | 横浜FC | 11 | J2 | 16 | 4 | - | 1 | 0 | 17 | 4 | |
オーストラリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2005-06 | シドニーFC | 21 | Aリーグ | 4 | 2 | - | - | 4 | 2 | ||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2006 | 横浜FC | 11 | J2 | 39 | 6 | - | 0 | 0 | 39 | 6 | |
2007 | 横浜FC | 11 | J1 | 24 | 3 | 4 | 0 | ||||
2008 | 横浜FC | 11 | J2 | - | |||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
日本 | J1 | 321 | 139 | 47 | 17 | 25 | 14 | 365 | 167 | ||
日本 | J2 | 55 | 10 | - | 1 | 0 | 56 | 10 | |||
日本 | JSL1部 | 39 | 9 | ||||||||
イタリア | セリエA | 21 | 1 | - | - | 21 | 1 | ||||
クロアチア | 1.HNL | 12 | 0 | - | - | 12 | 0 | ||||
オーストラリア | Aリーグ | 4 | 2 | - | - | 4 | 2 | ||||
総通算 |
国際大会個人成績 | FIFA | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
OFC | OFC CL | クラブW杯 | ||||
2005 | シドニーFC | 11 | - | 2 | 0 | |
通算 | OFC | - | - | |||
FIFA | 2 | 0 |
[編集] タイトル
- 1990/91年 - コダックオールスター(東西対抗)最優秀選手賞、日本サッカーリーグ報知・年間優秀11人賞(ベストイレブン)
- 1991/92年 - 日本サッカーリーグ最優秀選手賞、同ベストイレブン
- 1992年 - ナビスコカップMVP・得点王、ダイナスティカップMVP、AFCアジアカップ大会最優秀選手(MVP)、アジアベストイレブン賞
- 1993年 - Jリーグ最優秀選手賞、Jリーグベストイレブン、日本プロスポーツ大賞、第1回オールスターMVP、W杯アメリカ大会アジア最終予選得点王、アジアサッカー連盟(AFC)年間最優秀選手
- 1994年 - アシックスカップサッカー優秀選手賞
- 1995年 - Jリーグベストイレブン、JOMOカップMVP
- 1996年 - Jリーグ得点王、Jリーグベストイレブン
- 2000年 - Jリーグ優秀選手賞
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 91試合 56得点(1990年-2000年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1990 | 3 | 0 |
1991 | 2 | 0 |
1992 | 11 | 2 |
1993 | 16 | 16 |
1994 | 8 | 5 |
1995 | 12 | 6 |
1996 | 12 | 6 |
1997 | 21 | 19 |
1998 | 1 | 0 |
1999 | 0 | 0 |
2000 | 5 | 2 |
通算 | 91 | 56 |
[編集] 著書
- 『おはぎ』(2006年、講談社)ISBN 4063077543
- 『三浦知良 伝説の言葉-蹴音-』(2006年、ぴあ)ISBN 4835616189
[編集] 関連書籍
- 『KAZU-十五の旅立ち 三浦知良物語』(綾野まさる 著)
- 『足に魂こめました』(一志治夫 著)
- 『たったひとりのワールドカップ 三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫 著)
- 『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 - カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著)
- 『KAZU―ハーブ・リッツ作品集』(ハーブ・リッツ)
- 『三浦知良―素顔の青春』(三浦知良担当記者グループ 著)
- 『KAZU(カズ)とJリーグ』(岡 邦行 著)
- 『KAZU(カズ)―ザ・スーパーストライカー』(加藤 高尚 著)
- 『カズに賭ける夢―セリエAからワールドカップへ』(田中 孝一 著)
- 『三浦知良夢のゴールへ』(三浦知良研究会 著)
- 『三浦知良のサッカー留学物語―日本人で初のブラジル・プロになった男』(大貫 哲義 著)
[編集] CM出演
- サントリー (1991年 - 1998年)
- 「サントリービア吟生・殻破りビール」(1991年) 日本プロサッカー選手として初のCM出演
- 「デカビタC」(1992年 - 1998年)
- 読売新聞(1992年)
- プーマ ジャパン 「PUMA」(1992年 - 1996年)
- ネスレ日本 「ブイトーニ」(1994年)
- ブリヂストン 「Gグリッド」(1994年)
- 静岡県 静岡県イメージアップCM(1996年)
- ダンディハウス イメージキャラクター (2001年 - 2004年)
- パイオニア 「DVDレコーダ」(2001年)
- マニュライフ生命保険(2001年)
- 富士写真フイルム(2005年)
- 資生堂 「薬用 アデノゲン」(2005年)
- 浜田省吾ベストアルバム『The Best of Shogo Hamada vol.1 & Vol.2』TVスポット(2006年)
- セガ 「J.LEAGUE プロサッカークラブをつくろう!5」プロモーション・キャラクター(2007年)
- SUBARU 「レガシィ」 これからの道 篇(2007年5月 -)
[編集] 脚注
- ^ 日刊スポーツ、2006年7月25日、24頁
- ^ AERA、2008年3月3日号、74頁
- ^ ロス疑惑報道が活発化する2年前である。
- ^ 2008年02月25日付スポニチ Sponichi Annex - 平山衝撃!カズさん逮捕された?
- ^ カズ本人が2007年1月7日放送の『ジャンクSPORTS』にてこの件を問われた際「真似をしてもらうのはうれしい。でも城のダンスを見たら変だったので、やるならちゃんとやってくれ、と言った」と語っている。
[編集] 外部リンク
- BOA SORTE KAZU!:三浦知良オフィシャルモバイルサイト
- BOA SORTE KAZU!:三浦知良公式サイト
- 伝説の言葉「蹴音」:カズ語録(モバイルサイト)
- KING-KAZU.COM Go to Germany 2006!!(個人サイト)
- キングカズ語録&逸話コピペ
- RSSSF - Kazuyoshi "Kazu" Miura - Goals in International Matches
日本代表 - AFCアジアカップ1992 優勝メンバー (初) | |
---|---|
1 松永成立 | 2 大嶽直人 | 3 勝矢寿延 | 4 堀池巧 | 5 柱谷哲二 | 6 都並敏史 | 7 井原正巳 | 8 福田正博 | 9 武田修宏 | 10 ラモス瑠偉 | 11 三浦知良 | 12 山田隆裕 | 13 阪倉裕二 | 14 北澤豪 | 15 吉田光範 | 16 中山雅史 | 17 森保一 | 18 神野卓哉 | 19 前川和也 | 20 高木琢也 | 監督 オフト |
日本代表 - AFCアジアカップ1996 | |
---|---|
1 小島伸幸 | 2 柳本啓成 | 3 相馬直樹 | 4 井原正巳 | 5 小村徳男 | 6 山口素弘 | 7 本田泰人 | 8 前園真聖 | 9 高木琢也 | 10 名波浩 | 11 三浦知良 | 12 路木龍次 | 13 服部年宏 | 14 岡野雅行 | 15 森島寛晃 | 16 斉藤俊秀 | 17 秋田豊 | 18 城彰二 | 19 下川健一 | 20 楢崎正剛 | 監督 加茂周 |
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