ラモス瑠偉
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ラモス 瑠偉 | ||
---|---|---|
名前 | ||
愛称 | カリオカ | |
カタカナ | ラモス ルイ | |
ラテン文字 | RAMOS Ruy | |
帰化前 | Ruy Gonçalves Ramos Sobrinho | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1957年2月9日(51歳) | |
出身地 | ブラジル リオデジャネイロ | |
身長 | 181cm | |
体重 | 71kg | |
血液型 | O型 | |
選手情報 | ||
ポジション | MF | |
利き足 | 右足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1977-1996 1996-1997 1997-1998 |
読売クラブ/ヴェルディ川崎 京都パープルサンガ ヴェルディ川崎 |
302 (83) 20 (0) 39 (0) |
代表歴2 | ||
1989-1995 | 日本 | 32 (1) |
監督歴 | ||
2006-2007 | 東京ヴェルディ1969 | |
1国内リーグ戦に限る。2007年1月27日現在 22007年1月27日現在 |
ラモス 瑠偉(ラモス ルイ、Ramos Ruy、1957年2月9日 - )は、ブラジル出身の日本の元サッカー選手、サッカー指導者。元東京ヴェルディ1969監督。フットサルの元日本代表選手。ブラジル名はRuy Gonçalves Ramos Sobrinho(ルイ(フイ)・ゴンサゥヴェス・ラモス(ハモス)・ソブリニョ)。
目次 |
[編集] プロフィール
ブラジルのリオデジャネイロから山側に70-80キロほど入る、メンデスという小さな町でサッカー好きな税理士の父の元、5人兄弟の4番目の子として生まれる。愛称のカリオカは「リオっ子」という意味で出身地に由来する。なお、カリオカとは厳密にいえばリオ市中心部出身者を意味するが、実はリオ中心部出身でない。そのためフルミネンセ(リオ市郊外)もしくは、本当はパウリスタ(サンパウロ出身者)ではないかという噂もある。
1977年に来日。1989年に日本に帰化。1984年に結婚した初音夫人との間に1男1女。
[編集] 人物
帰化したとはいえ、やはりブラジルのサンバは好きで、外苑前にあったコパ東京(後に成増へ移転)というシュハスカリア(シュハスコ料理店)では、月1回程度のペースでパゴーヂ(サンバの一種)を自ら演奏し歌っていた。楽器はタンタンを担当。またラモスが出演するパゴーヂは俗にラモパゴと呼ばれる。なお2008年1月に、念願であった自身がオーナーであるブラジルレストラン、Restaurante Carioca by R.Ramos をオープンさせた。別の店ではあるがラモパゴも今後不定期で行う予定。
[編集] 現役時代
少年時代リオからサンパウロに移り、20歳の時に当時読売FC(現東京ヴェルディ)でプレーしていたジョージ与那城にスカウトされる。1977年4月に来日し入団。当時のニックネームはラモスの細い肉体に着目して名づけられた「エンピツ」。その後「カリオカ」の愛称で親しまれる。
MFとして有名だが、本人によればブラジル時代はDFとしてプレイしていたという。そして来日からしばらくはFWとしてプレイした。初めは若さと日本語もわからなかったためトラブルを起こし、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた事もあった。国内唯一の"クラブチーム"、ブラジルスタイルの"プロの集団"である読売クラブに対しては、日本サッカー協会や実業団チームからの妬みや反発が強く、クラブを代表してラモスが被害を被った側面もある。しかし1年間の出場停止が解け復帰した1979年はいきなり、"得点王"と"アシスト王"の二冠を獲得。この偉業は日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか成し遂げた者はいない(Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。
サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いた1985年キリンカップでは、日本代表と並んで読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明し、海外クラブに勝てないどころか、対読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であると言えた(当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身)。国の代表として全く良いところ無く終わった日本代表に対して、読売クラブの、そしてラモスのテクニックが「世界基準」であることを改めて証明した大会であった。
このころよりセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。
日本サッカーが低迷する時代、読売FC(現在の東京ヴェルディ)対日産自動車(現在の横浜F・マリノス)だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカー発展させた功労者の一人。当時のラモスを木村和司は「非常に汚い選手だった…うまいけどね」と振り返る。
1989年に日本に帰化しサッカー日本代表に加わり、中心選手として活躍。1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア予選の日本代表に選出されるが、ブラジル流サッカーを信奉するラモスは、規律と組織を重視するハンス・オフト監督批判をマスコミ上で展開したため、一時期代表を外されかねない危機もあった。オフトとの和解後は代表のキーマンとして活躍するも、ドーハの悲劇を経験。
Jリーグの発足で、読売FCからヴェルディ川崎になっても中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続けていたが、1996年夏にヴェルディの監督に就任したエメルソン・レオンとは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し京都パープルサンガへ移籍する。しかし翌1997年夏にレオンが退任するとすぐさま古巣のヴェルディ川崎に復帰。入団時に「関西のサッカーを盛り上げるために来た」と発言しながら、結果的には腰掛けにされた形の京都のサポーターの中には、このためにラモスに対して反感を持つ者も少なくない。
1998年11月に現役を退く。1999年8月には三浦知良や武田修宏、北澤豪などのヴェルディ・オールスターズとJリーグ選抜軍によるJリーグ初の公認引退試合が国立霞ヶ丘競技場で開催された。この試合の最後の挨拶でファンに向けて「生まれかわっても、日本に来てワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。
[編集] フットサル日本代表に
サッカー引退直後の1999年2月、フットサル日本代表に招集された。同年3月、マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に主将として出場、4位となった。[1]
[編集] 引退後
引退後は評論家として活動。一時、解説業も行っていたが、サッカーへの情熱が人一倍強いがゆえに、プロ意識の低い選手をストレートに批判する際に乱暴な言葉遣いになってしまうことから、テレビ局側から敬遠されてしまう。
2000年にブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」を受勲した。
[編集] 沖縄かりゆしFC監督・FC琉球アドバイザー時代
2002年に、沖縄かりゆしFC(九州社会人リーグ所属)のテクニカルアドバイザー兼任の形で現役復帰を果たすが、シーズン終了後の経営陣との対立からの退団でチーム内選手の集団退団騒動にまで発展した。またこの年、連続テレビ小説さくらに居酒屋の主人役で出演した。かりゆしFC退団後は、退団選手が中心で、恩人・与那城ジョージが監督を務めるFC琉球(JFL)のテクニカルアドバイザーを務める。
[編集] 柏レイソルコーチ時代
2004年10月にJリーグの監督を務めるために必要な公認S級コーチの資格を取得。2005年にビーチサッカー日本代表の監督に就任し、ビーチサッカーワールドカップではベスト4の躍進に貢献。同年9月13日、J1リーグで降格争いの真っ只中にあった柏レイソルのコーチに就任。古巣ヴェルディのJ2降格を決定させる試合の対戦相手として引導を渡す役目になるという皮肉な巡り合わせもあった。柏では監督の早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、チームはヴェルディともどもJ2降格となりコーチを辞任。
[編集] 東京ヴェルディ1969監督時代
2006年からはJ2落ちした古巣の東京ヴェルディ1969の監督に就任。前年度のレギュラーの殆どを失うチーム状況の中、「1年でJ1復帰」を掲げ、J2に加えACL出場のため登録メンバーを大幅に増やして臨んだが日程は過密となり、前年からの課題であったディフェンス面での不安を解消することが出来ず、J2初年度は7位で終了したが、2007年も指揮を執ることが早々と決定。
この年、チームは名波浩や服部年宏など実績あるベテランを獲得。在籍メンバー大半を入れ替える大型補強を行い、開幕前にはJ1昇格候補の筆頭に挙げられた。体制発表の際にクラブの萩原代表からは、圧倒的な強さを見せられなかった場合は早期解任の可能性まで示唆されており、背水の陣で臨むシーズンとなった。開幕5試合で4勝1分とスタートダッシュに成功したが、その後課題のディフェンス面の不安が露呈し連敗を重ね、第7節(対アビスパ福岡戦)から第12節(対サガン鳥栖戦)まで6連敗を喫してしまい、「(この先)2連敗なら解任」などといった厳しい状況に追い込まれた。
そのような状況の中、第13節(対水戸ホーリーホック戦)も大敗を喫しクラブワーストタイの7連敗となり、しかも不調の水戸に大量得点での今期初白星を献上するという失態に、次節の結果に関係なく解任濃厚(後任はコーチの柱谷哲二の昇格が有力)と報道された。しかし、続く第14節(対京都サンガF.C.戦)で4-1と大勝し、一転続投が決まった。
その後こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更、守備の立て直しを図り、以後は安定して勝ち点を得られるようになった。9月頃からはフッキを1トップに据えた4-5-1へとシステムを変更したがこれが功を奏し、8連勝を記録するなど追い上げを見せ、2位でシーズンを終了。J1復帰を成し遂げた。なお、J1昇格を決めたセレッソ大阪戦は、監督に就任してちょうど100試合目(リーグ、ACL、天皇杯を含め)であった。
シーズン終了後に監督を勇退し、エグゼクティブディレクターとして東京Vのフロント入りすることが発表された。
また、同年9月15日に母がリオデジャネイロの病院で心臓発作のため82歳で死去した。だがこの事を選手にも伝えず、帰国もしないで指揮を執り続けた。
[編集] プレースタイル
技術・攻撃的能力が高く、FW、攻撃的MF、ボランチと中盤から前ではどのポジションでも一流の実績を残した。日本リーグ時代のプレー振りからドリブラーの印象も根強くもたれているが、本質的にはパサーであり、当時の同僚たちは「ラモスのように正確でやわらかいパスを出せる選手はその後現れていない」との言葉を残している。
元々DFだったため守備的能力も高い。最も印象的な(得意な?)プレイは、中盤で相手のパスを奪ってそのままダイレクトに素早く縦パスを出すもので、93年のドーハの悲劇の時、韓国戦で取ったカズの得点は、ラモスのこのカウンター気味のパスから生まれた。また、スライディングタックルの名手でもあり、ドリブルする相手選手の斜め後方からトップスピードでスライディングタックルを仕掛けてもファウルを犯さずボールを奪える技術を持っていた。
ただし来日当初はうまい選手とは思われていなかった。その後、悪質な反則(本人曰くブラジルではあたりまえのプレー)で1年間の出場停止を食らい、試合に出られず練習しかできない日々の中で技術的に向上したと思われる。当時を知る者は「下手な選手だったけど、日本に来てからうまくなった珍しい選手だ」と評価する。
現役引退後でも、親交のある選手(いわゆる"ドーハ組"など)の引退試合等に招待出場する機会があると、現役選手に混ざっていても色あせないプレーを見せ周囲を驚かせる。生田智子(中山雅史の妻)はテレビ番組で「ラモスさんは技術があったから40歳までプレーできた」とコメントしている。
2007年にTBSスーパーサッカーの企画にて、現役バリバリのサッカー女子日本代表を揃えた「なでしこオールスターズ」を相手に、元日本代表で固めた「スーパーサッカーオールスターズ」の一員として参加。年下の小倉隆史や福田正博をさしおいて当時49歳とは思えないプレーでチームの挙げた得点の半分である5得点を叩き出し衰えない技術を披露。この活躍ぶりに加藤浩次から賞賛の意味で「今季は(ヴェルディで)プレイングマネージャーでいけるんじゃない?」とコメントした。
[編集] エピソード
- 子供のころ、体格的に細身だったのでジッコ(Zico・やせっぽち)とも呼ばれていた。これは前・日本代表監督であるジッコとおなじ理由である。
- 食事面でも日本にも慣れ親しんだが、本人曰く海産物は苦手。フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王」出演の際には、豆腐も「味がしない」という理由で食べられないとコメントしており、酒も生ビールしか飲まない。
- 左肩に妻の名前とハートマークに弓矢の刺さったタトゥーを施しており、Jリーグ開幕前後に多数あったスポーツニュース系番組での密着取材の際に愛情の証として度々披露していた。
- ディスコ好きで有名。また私服時は靴下は履かず、常に裸足で靴を履くこだわりを持つ。
- 「もっとも卑怯なフェイント」(一部のファンが良い意味で言っていることだが)こと「審判が笛を吹いた」フェイントの考案者として知られている。これは、相手選手とボールを奪い合っている真っ最中に、突如動きを止めて両手を広げ「おい、今のプレイのどこがファウルだって言うんだ!」と叫ぶというもの。相手選手は、審判がラモスのファウルを取ったと勘違いしてボールを奪う動作を中断するが、実際はオンプレイなのでその隙にラモスがボールを奪ってしまうのである。試合場はサポーターの歓声や鳴り物が響いているので相手選手が笛を聞き逃したと思ってしまう可能性は高く、面白いほど効果を挙げたそうだが、相手チームから「あのフェイントは止めろ」と言われ封印したという。
- 喧嘩サッカーを信条としており、指導者になってからも「組織力や技術が優れていても、裏づけとなる精神力・闘争心がなければそれは無駄になる。どちらも必要だ」という発言をしばしばしている。ピッチ上でもピッチ外でもラモスは闘争心を剥き出しにしており、その気性の荒さゆえにチームで浮いたり和を乱す存在と目されることもあった。1993年7月10日には当時ガンバ大阪に在籍していた賈秀全からファールを受けた際、報復行為として賈秀全の顔面にボールを投げつけ大乱闘となった(ちなみにこのとき賈秀全は退場処分となったが、ラモスはイエローカードを受けるにとどまった)。
- 1998年のフランスワールドカップ時にNHKの番組にて、惨敗した日本代表チームのプレーについて「こんなサッカーじゃオナニーしてるのと一緒だよ」と発言し、その後同局での解説はなくなってしまった。また、同大会中に「ガム食ってニヤニヤするなよ!」「彼らを日本代表と認めたくない」とも発言している。
- いわゆる「ブラジルサッカー」の信奉者であること、また先に挙げたように精神面を重視する発言がよく取り上げられるが、選手時代に代表監督だったオフトをはじめ、引退後はヨーロッパサッカーにかかわる指導者の元でコーチ修行をするなどその思想の影響も受けており、指導者としてはイメージと裏腹の現実的な視点も持つ。東京中日スポーツでサッカー評論を担当した際には理論的・冷静な分析を披露し、驚くサッカーファンも少なくなかった。
- 元DFだった影響かディフェンスには厳しく、ドイツW杯前に、日本代表の三都主アレサンドロの守備が雑なため、サイドバックとしては使うべきではないと名指しで批判した。
- 2006年J2終盤、「J1復帰できたら丸刈りしヒゲも剃る」旨の発言があったが、同年のJ1復帰はならなかった。
- 2007年に公開された日本映画「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」に本人役(1990年時)で出演した。(広末涼子演ずる主人公に「ドーハでのロスタイム、コーナーキックに気をつけて!」と忠告される)
- 代表ユニフォームに日の丸をつけるよう提案したのはラモスである。また、サッカーの社会的地位が非常に高いブラジル出身の帰化人であることからか、代表選手に強く愛国心を求めている。上記の発言のように、プロ意識と国民の期待を背負っているという責任感に欠けている選手を強く批判しており、ドイツワールドカップでも「やる気がない。自分のためだけに戦っている」と発言した。
[編集] 語録
- 「俺のポジションを取ろうとする奴は足の骨を折ってやる。」
- 「日の丸の付いたユニフォームを着るなんて本当に夢のようだった。嬉しくて涙がこぼれたよ。」
- 「カミサマ…。」(ドーハの悲劇で同点ゴールを決められた瞬間に天を仰ぎ)
- 「みんなタレントだよ。笑い顔で。タレントばっかり」(大事な試合で負けた日本代表を解説でこう表現した)
- 「シュート外して笑うなよ!」「ガム食うなよ!」「戦争なんだよ! ワールドカップは!」(フランスW杯での日本敗戦直後にNHKアナウンサー有働由美子の「でも、みんな頑張りましたよね」などのフォローを一切無視して、熱く叱咤した)
[編集] 所属クラブ
- 1975年-1977年 サージFC(ブラジル)
- 1977年-1996年 読売クラブ/ヴェルディ川崎(日本)
- 1996年-1997年 京都パープルサンガ(日本)
- 1997年-1998年 ヴェルディ川崎(日本)
[編集] 個人タイトル
- 日本年間最優秀選手賞 2回(1990年、1991年)
- JSL得点王 2回(1979年、1983年)
- JSLアシスト王 3回(1979年、1991年、1992年)
- JSLベストイレブン 6回(1979年、1983年、1987年、1990年、1991年、1992年)
- Jリーグベストイレブン 2回(1993年、1994年)
- 功労選手賞 (1998年)
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1975 | サージ | ||||||||||
1976 | サージ | ||||||||||
1977 | サージ | ||||||||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1977 | 読売 | JSL2部 | 4 | 5 | |||||||
1978 | 読売 | JSL1部 | 0 | 0 | |||||||
1979 | 読売 | JSL1部 | 15 | 14 | |||||||
1980 | 読売 | JSL1部 | 15 | 7 | |||||||
1981 | 読売 | JSL1部 | 9 | 1 | |||||||
1982 | 読売 | JSL1部 | 13 | 1 | |||||||
1983 | 読売 | JSL1部 | 14 | 10 | |||||||
1984 | 読売 | JSL1部 | 16 | 9 | |||||||
1985 | 読売 | JSL1部 | 18 | 7 | |||||||
1986-87 | 読売 | JSL1部 | 15 | 4 | |||||||
1987-88 | 読売 | JSL1部 | 17 | 4 | |||||||
1988-89 | 読売 | JSL1部 | 17 | 3 | |||||||
1989-90 | 読売 | JSL1部 | 22 | 5 | |||||||
1990-91 | 読売 | JSL1部 | 21 | 2 | |||||||
1991-92 | 読売 | JSL1部 | 18 | 2 | |||||||
1992 | V川崎 | - | J | - | |||||||
1993 | V川崎 | - | J | 30 | 4 | ||||||
1994 | V川崎 | - | J | 26 | 3 | ||||||
1995 | V川崎 | - | J | 23 | 2 | - | |||||
1996 | V川崎 | - | J | 9 | 0 | - | |||||
1996 | 京都 | - | J | 10 | 0 | ||||||
1997 | 京都 | 10 | J | 10 | 0 | - | |||||
1997 | V川崎 | 10 | J | 10 | 0 | ||||||
1998 | V川崎 | 10 | J | 29 | 0 | ||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
日本 | J | 147 | 9 | ||||||||
日本 | JSL1部 | 210 | 69 | ||||||||
日本 | JSL2部 | 4 | 5 | ||||||||
総通算 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 1得点(1990-1995)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1990 | 3 | 0 |
1991 | 2 | 0 |
1992 | 10 | 0 |
1993 | 14 | 1 |
1994 | 0 | 0 |
1995 | 3 | 0 |
通算 | 32 | 1 |
[編集] 指導歴
- 2002年 沖縄かりゆしFC:テクニカルディレクター
- 2005年 ビーチサッカー:日本代表監督
- 2005年9-月12月 柏レイソル:コーチ
- 2006年-2007年 東京ヴェルディ1969:監督
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | チーム |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | J2 | - | 48 | 21 | 19 | 8 | 7位 | 東京ヴェルディ1969 |
2007年 | J2 | - | 48 | 26 | 11 | 11 | 2位 | 東京ヴェルディ1969 |
[編集] CM出演
- 永谷園「Jリーグカレー」
- 放送当時、カレーを食べた少年がモーフィングという手法を用いてラモスに「変身」するCMが話題になった。
- 同「お茶漬け海苔」
- 「日本人ならお茶漬けだろうが!!」のセリフで人気を集める。
- 興和新薬株式会社
- 「こっちにはバンテリンがあるよ。これは有利です。」(2002 FIFAワールドカップ直前)
- 久光製薬エアーサロンパス
- ヴェルディの選手在籍時に収録し、当時のヴェルディのカップ戦ユニフォームを着用して撮影した。しかし直後に京都へ移籍。ユニフォームの色をコンピュータ処理で京都のチームカラーの紫に着色し直したものを放送していた
- ダイハツ工業 テリオスキッド
- 本田技研工業 バモス 『バモス×ラモス篇』 栗山かほりと共演 (2007年2月 - )
- パチンコ・ABC(静岡県内のみの放映)
[編集] 映画出演
- シュート!
- バブルへGO!! タイムマシンはドラム式
- 両作品とも本人役(カメオ出演)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
日本代表 - AFCアジアカップ1992 優勝メンバー (初) | |
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1 松永成立 | 2 大嶽直人 | 3 勝矢寿延 | 4 堀池巧 | 5 柱谷哲二 | 6 都並敏史 | 7 井原正巳 | 8 福田正博 | 9 武田修宏 | 10 ラモス瑠偉 | 11 三浦知良 | 12 山田隆裕 | 13 阪倉裕二 | 14 北澤豪 | 15 吉田光範 | 16 中山雅史 | 17 森保一 | 18 神野卓哉 | 19 前川和也 | 20 高木琢也 | 監督 オフト |
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