早野宏史
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早野宏史 | ||
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名前 | ||
愛称 | ボンさん、ハヤヤ | |
カタカナ | ハヤノ ヒロシ | |
ラテン文字 | HAYANO Hiroshi | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1955年11月14日 | |
出身地 | 神奈川県 | |
身長 | 169cm | |
体重 | 59kg | |
選手情報 | ||
ポジション | FW
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早野 宏史(はやの ひろし、1955年11月14日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。
目次 |
[編集] 来歴
神奈川県立生田高等学校を経て、中央大学法学部政治学科卒業後の1978年日産自動車サッカー部(横浜F・マリノスの母体)に入社。小柄だがスピードのある技巧派FWとして活躍した。中央大学時代の後輩金田喜稔、その金田の高校時代の後輩木村和司とともに、当時日産ターボトリオと称される。
12年間の現役選手生活を経て1987年から日産サッカー部の下部組織「日産ファーム」(現在のサテライトチーム)、「日産ユース」「日産レディース」などで監督として指導者の下積みを送った。1992年のJリーグ開幕とともにマリノスのコーチに就任。1995年S級ライセンス資格(Jリーグのトップチーム=社会人チーム=監督就任に必要)を取得。同年シーズンの途中から監督に昇格しその年のリーグ戦を制覇した。
その後1996年に退任後はNHK衛星放送のJリーグ中継とWOWOWのヨーロッパサッカー中継で解説を担当。NHKでは他にサタデースポーツ(総合テレビ)のサッカーコメンテーターとしてレギュラー出演しており、くだらない駄洒落やオヤジギャグを絡ませた楽しい解説で視聴者の人気を集めた(「ジダンが地団駄踏んだ」は有名)。
1999年から2001年まで、ガンバ大阪の監督に就任。 チームを「ヤングボーイズ」と取材などで呼び、若い選手をピッチに送り出した。
2002年から再びサッカー解説者としてNHK衛星放送、WOWOWで活動した後、2004年7月、柏レイソルが成績不振を理由に前監督を解任したのに伴い新監督として就任。しかし半年でチームは立て直せずチームは年間最下位。幸いこの年はJ1チームを16チームから18チームに増やすのに伴い、例年のように自動降格ではなくJ1最下位とJ2・3位との入れ替え戦があった。J2のアビスパ福岡とのJ1・J2入れ替え戦で2勝して残留を決めた。しかし、翌2005年もチームは低迷を続け、結局、年間16位で2年連続のJ1・J2入れ替え戦(相手はヴァンフォーレ甲府)に回る。入れ替え戦では、第一戦1-2、第二戦2-6と連敗してチームはJ2降格となった。その後、J2降格の責任を取って辞任した。
その後NHKサッカー解説を経て、2007年、古巣横浜F・マリノスで現場復帰を果たしたが、サポーターから歓迎を受けて監督の椅子に座った訳では無かった。就任が決定した際、監督としての能力を疑問視するサポーターからの抗議メールがクラブに対して700通余り届いたと言われている。それに加え、(早野の就任のみが理由でないにせよ)年間チケットの不買運動までも行われたという。
そのような逆境の中で迎えた2007年は、好不調の差が大きく現れたシーズンとなったが、最終的に前年度を上回る7位でリーグ戦を終了した。しかし、目標とした3位以内には届かなかったため、翌シーズンへの契約更新はなされず、天皇杯終了後にコーチの水沼貴史・高橋真一郎・武藤覚らとともに辞任。
2008年はNHKサッカー解説者に復帰。
渾名は早野凡平が由来のボンさん。
[編集] 監督実績について
1995年の第1期マリノス時代にチャンピオンシップを制覇しているが、実際にはホルヘ・ソラリ前監督の下で首位を独走していたマリノスが、同監督の胃潰瘍により退団することになった為にコーチから昇格し、ソラリのサッカーを踏襲したのみであり、早野本人も後年「あの時の自分はチームを作り上げたわけではない」と語っている。実際、1995年もソラリ就任中の成績は13勝3敗だったのに対して、早野就任後は19勝17敗(+チャンピオンシップ2勝)という成績にとどまった。それでも、当時全盛であったヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のチャンピオンシップ3連覇を阻んだのは紛れもない事実である。
しかし、自身の色を出そうと取り組んだ1996年は8位という成績不振で、サポーターから解任を求める声を抑え切れなかったフロントは更迭している。
ガンバ大阪時代は成績はトータルでは中位にとどまったものの、早野就任前のガンバは1997年を除いて下位に低迷していたことを考慮すると、ある程度は健闘したと言える。また若手を積極的に起用し、2002年以降のガンバの躍進の基礎となる選手層を作ったことは評価する声も少なくない。
ここまでは「良くもないが決して酷くも無い監督実績」であったが、2004年途中に柏レイソルの監督に就任してからは鳴かず飛ばずの状態に陥った。
2004年シーズンは冒頭で述べられている通り最下位に終わり、また2005年シーズンも低迷し、クラブはシーズン後半にフランサなどの大物外国人を補強したが、(そのフランサが怪我で離脱したこともあったが)早野は彼らを十分に使いこなす事が出来なかった(なお、そのフランサは、早野が辞任した後の2006年シーズンでは怪我がちだったにも関わらず柏のJ1復帰に十分貢献し、また2007年シーズンでは「チームのキーマン」として絶大な信頼を置かれている)。またシーズン終盤には「鶏を追いかけるトレーニング」などの奇抜な練習を度々行い、サポーターやサッカーファンからの失笑を度々買っていた。
最終的に柏レイソルはJ1・J2入れ替え戦で大敗し、この時の試合後、柏の選手達から「決まり事がほとんど無くて中途半端だった」という旨のコメントが出された[1]。当時の柏のチームとしてのプロ意識の低さや雰囲気の悪さを指摘する声もあるが、早野がこのクラブでは監督としての勤めを果たせていなかった事が伺える。
柏時代、解任論が強まると何故か成績が一時的に良くなる傾向があり、当時を知っている柏のサポーターからは「アリバイ勝利」を行う癖があるとまで言われている。この流れに入った場合は相手が強豪チームであっても勝利を収める傾向にある(2005年の柏レイソルは、浦和レッズに3-0と圧勝したり、同年優勝のガンバ大阪にもホームでは勝っている)。しかし、そのような好調期は短期間で終わり、解任論の沈静化と共に再度成績は悪化していく。もちろん、対戦相手の居る世界で狙って「アリバイ勝利」できる訳ではない。しかし、この謎の傾向により、結果的に監督交代のタイミングを失うことになり、最終的に最悪な結果(=J2降格)を残す事になってしまったのが2005年の柏レイソルであった。
2007年シーズンは、「攻撃サッカー」を掲げ、4-3-3システムを採用。開幕戦の甲府戦こそ勝利したものの、その後J2からの昇格組に連敗を喫するなど、早くも不安視されていた通りの結果となってしまった。しかし、ナビスコカップ清水戦で4-4-2にシステム変更して上昇の切っ掛けを掴み、4節の広島戦に快勝してからはチーム状態が持ち直した。7節の大分戦、8節の新潟戦でそれぞれ5-0、6-0と圧勝し、続く川崎戦で勝利し3連勝を飾っており、采配への批判は以前に比べ沈静化していった。その後、11節の浦和戦で引き分けて以降、リーグ戦12試合無敗(6勝6分)、特に8月は横浜ダービーでの8-1の圧勝劇を皮切りに、5試合で4勝1分け19得点と絶好調であった。しかし、9月以降にナビスコカップ含め公式戦6連敗というチームタイ記録(過去の6連敗時も監督は早野であった)も残してしまっており、好不調の差がくっきりと現れた形となった。
2007年に横浜F・マリノスの監督に就任した際、早野自身は木村和司や水沼貴史らのいた往年の日産のサッカー、前がかりで相手をおもちゃにした強い日産サッカーの復活が目標と述べていた[1]。「プレス」を前面に押し出したサッカーを採用し、「ハードワークをしない選手は起用しない」とも発言していた。若手の起用にも着手し、開幕戦では長谷川アーリアジャスール、続いて乾貴士らを起用し、特に小宮山尊信はレギュラーとして定着し、日本代表候補として合宿に招集されるまでに至った。それまで出場機会の多くなかった山瀬幸宏を抜擢し、レギュラーに定着させている。
ただし「決まり事を作れずに、意思統一がされていない中途半端なチーム作りをしてしまう」という柏時代に選手から声のあがっていた、指導力不足は古巣でも改善されたとは言えない。現にチームの選手内からも監督の手腕に疑問が持つコメントが3月のシーズン開幕直後から出てきてしまっている[2]。
また2007年3月21日のナビスコカップ予選、対大宮アルディージャ戦の試合後に「トレーニングのパフォーマンスの40%も出せないことにびっくりした」というコメントを出した[2]が、試合前日までの練習風景を見ていた一部サポーターからは「練習内容が100%そのまま出ただけであり、早野のコメントは単なる責任逃れではないか」という声もあったという。
元監督の岡田武史でも建て直せなかったチームを建て直し、かつプレッシングサッカーを浸透させた手腕を賞賛して「早野を見直した」、「早野は名将となった」と称える声が多くなっている。
[編集] エピソード
- これまでの経歴を見るとワールドカップに合わせて現場を離れ、解説者に戻ってきている。
- 2006年10月の浦和レッズ対ジェフ千葉戦では総合テレビで解説を勤め、ダジャレをアナウンサーに流される場面もあった。
- 2007年の横浜F・マリノス監督就任にあたり、「ダジャレを封印した」などと報じられた。しかし、その後の6月半ばに「解禁」したようである。
[編集] 個人成績
年度 | クラブ | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1978年 | 日産 | JSL2部 | |||||||
1979年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
1980年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
1981年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
1982年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
1983年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
1984年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
1985年 | 日産 | JSL1部 | |||||||
通算 | JSL1部 | ||||||||
JSL2部 |
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | チーム(監督成績) |
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1995年 | J1 | 1st | 26 | 17 | 9 | 0 | 優勝 | 横浜マリノス (33勝31敗) |
2nd | 26 | 15 | 11 | 0 | 3位 | |||
1996年 | J1 | - | 30 | 14 | 16 | 0 | 8位 | |
1999年 | J1 | 2nd | 15 | 5 | 9 | 1 | 13位 | ガンバ大阪 (31勝33敗4分) |
年間 | 30 | 11 | 18 | 1 | 11位 | |||
2000年 | J1 | 1st | 15 | 5 | 8 | 2 | 13位 | |
2nd | 15 | 10 | 5 | 0 | 4位 | |||
年間 | 30 | 15 | 13 | 2 | 6位 | |||
2001年 | J1 | 1st | 15 | 9 | 6 | 0 | 5位 | |
2nd | 15 | 5 | 8 | 2 | 11位 | |||
年間 | 30 | 14 | 14 | 2 | 7位 | |||
2004年 | J1 | 2nd | 15 | 2 | 6 | 7 | 15位 | 柏レイソル (10勝21敗18分) |
年間 | 30 | 5 | 15 | 10 | *最下位 | |||
2005年 | J1 | - | 34 | 8 | 15 | 11 | *16位 | |
2007年 | J1 | - | 34 | 14 | 12 | 8 | 7位 | 横浜F・マリノス |
- 1995年では、参加チーム14チームで年間4回の総当たり制(前後期制の2回ずつ)を敷いていた。
1stステージ第16節までソラリ監督(13勝3敗)、残り10戦で4勝6敗。年間王者決定戦では2勝。 - 1996年では、参加チーム16チームの年間2回の総当り制で1シーズン制を敷いた。
- 2001年は、2ndステージ第8節まで2勝5敗1分(後任の竹本監督代行は7試合3勝3敗1分)。
- 2004年は、入れ替え戦で勝利してJ1残留。
- 2005年より、1st, 2ndステージ制を廃止し、1シーズン制を採用している。
- 2005年は、入れ替え戦で敗北してJ2降格
[編集] 出典
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