東京ヴェルディ
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東京ヴェルディ | |
原語表記 | 東京ヴェルディ |
---|---|
愛称 | ヴェルディ |
クラブカラー | グリーン |
創設年 | 1969年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン1 |
ホームタウン | 東京都 |
ホームスタジアム | 味の素スタジアム |
収容人数 | 49,970 |
代表者 | 萩原敏雄 |
監督 | 柱谷哲二 |
東京ヴェルディ(とうきょうヴェルディ、Tokyo Verdy)は、プロサッカークラブ「日本テレビフットボールクラブ」が運営するトップチーム「FCニッポン」の呼称。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟している。旧呼称は東京ヴェルディ1969・ヴェルディ川崎。
Jリーグ創設時からの加盟チーム(オリジナル10)のひとつ。1991年Jリーグ加盟。ホームタウンは東京都(2000年までは神奈川県川崎市)。ホームスタジアムは味の素スタジアム。
目次 |
クラブの概要
1969年、「読売サッカークラブ」の名で、日本初の本格的なスポーツクラブとして創立。1991年Jリーグ加盟、社名を読売日本サッカークラブに改称。ホームスタジアムは、2000年までは川崎市中原区にある川崎市営等々力陸上競技場、2001年から東京都調布市にある味の素スタジアムを使用。呼称のヴェルディはポルトガル語の「verde(ヴェルデ):緑」からの造語(結果的にイタリア語の複数形と発音が同じ)。
ホームタウンを東京都に移転した際に、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディ1969に改称。この1969は、1969年に前身の読売サッカークラブが創設されたことから取られた。 なお、2008年よりチーム名から「1969」が外され「東京ヴェルディ」に変更。
新聞社のスポーツ欄掲載の記録ページでは1998年までは単に「川崎」と現していたが、1999年から川崎フロンターレがJ2に参加したことから、これとの区別のため「V川崎」(ナビスコ杯にはフロンターレも準加盟枠で参加したため1997年以後この表記)としていた。東京移転後の2001年からはFC東京と区別するため「東京V」としている。一部新聞等では「東京ヴ」と表記していることもある。
クラブハウス・練習場は、読売クラブ、ヴェルディ川崎時代から一貫して、東京都と神奈川県川崎市に跨って位置するよみうりランド内の練習施設を、男子トップチーム以外の下部組織と一緒に使用している。クラブハウス及びグラウンドの位置は川崎市内だが、京王よみうりランド駅前のよみうりランド本社ビル内に日本テレビフットボールクラブ本社が設置されているため、登記上の住所は東京都稲城市となっている。ユースなどの下部組織チームは、ヴェルディ川崎時代においても東京都サッカー協会の所属のままだった。
男子チームの他に、女子チーム日テレ・ベレーザとその下部組織である日テレ・メニーナを所有している。トップチームであるベレーザはL・リーグ(なでしこリーグ)で常に優勝争いを繰り広げている日本女子サッカーにおける強豪の一つである。日本女子代表(なでしこジャパン)のエース澤穂希もベレーザに所属である。
サッカー以外では2001年のヴェルディ東京移転にあわせてバレーボールの東京教員クラブを引き継ぎ東京ヴェルディバレーボールチームを発足した。現在V・チャレンジリーグに所属する。この他にトライアスロンのチームもある。これらはJリーグの目指す総合スポーツクラブへの一環である。
クラブの歴史
前身
当時、日本のサッカーが、アマチュアスポーツの域に甘んじていた1969年に読売サッカークラブ創部。東京都リーグBに加盟。このチームが、日本のスポーツクラブの先駆けとなった。 当時学校体育あるいは部活動の一環としてのサッカーに飽きたらなかった若者を取り込んで学校のサッカー部を倒せるまでに成長したと言われている。 1972年にJSL2部に昇格。選手達の高いプロ意識と洗練されたテクニックに裏打ちされた攻撃的なスタイルは、当時の日本サッカーに衝撃を与え、とどまることのない快進撃と共に日本のサッカースタイルを変えたとも言われている。現在のJリーグが謳う下部組織の充実と地域に根ざした活動をいち早く実践したのもこの読売サッカークラブである。JSL優勝5回、天皇杯優勝5回、JSLカップ優勝3回と輝かしい戦績を残した。
川崎時代
1991年10月、Jリーグ開幕に備えて、読売新聞社、よみうりランド(練習場所在地)、日本テレビ放送網の3社出資による運営会社「株式会社読売日本サッカークラブ(よみうりにほん-)」が設立されたが、東京都に同リーグの規格に合ったスタジアムがなかったため、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とすることになる。等々力陸上競技場は収容人員がJリーグの規格外であったことから問題となったこともあったが、1995年までに段階を追って増築を敢行。25000人収容となった。
Jリーグ発足前後の92年から93年にかけて、クラブの出資者である、読売系のメディアを中心として読売ヴェルディと言う呼称が用いられていた。これには、既に長年、クラブチームとして「読売」の呼び名でファンに親しまれていたという理由に加え、プロ野球と同じようにJリーグも企業重視の姿勢が必要であること、「川崎」は鉄鋼メーカー・川崎製鉄(現・JFEスチール)と重機械メーカー・川崎重工業の商標であるため商標権侵害の恐れがある、東京への移転問題などといった理由が挙げられた。Jリーグはチーム名表記に際して企業名を排除してホームタウンの自治体(都道府県名、ないしは市区町村名)+ニックネームで使用する方針を定めていたため、1994年のシーズン開幕前から読売系のマスメディアでも「ヴェルディ川崎」に表記を統一するようになった。
Jリーグ発足当初は人気・実力を兼ね揃えた最強チームとして君臨し、ラモス瑠偉、三浦知良、ビスマルク、北澤豪、武田修宏、菊池新吉などを擁して1993年シーズンの初代Jリーグ年間チャンピオンとなった。なお、5月15日のJリーグ開幕戦では横浜マリノスと対戦し、オランダ人FWのヘニー・マイヤーがJリーグの第1号ゴールを決めたが、1-2で逆転負けしている。この当時、マリノスにだけは全く勝てなかった。1994年も年間チャンピオンになり、1996年には天皇杯優勝を果たしたが、その後はチーム力が低下し、スタジアムの拡張に逆行する形で観客動員数も減少した。
- 余談だが、1993年から1995年のJリーグチャンピオンシップも国立で行われたが、本来1994年の第2レグの試合は等々力で開催されることが一度決まっていた。しかし、等々力は芝生の状態が思わしくなかったということや、改修工事の第2期を行うことが決まっていたこともあり、等々力での開催を返上。国立での開催を決めたが、当初予定の11月30日は明くる12月1日にトヨタカップが行われるためにその前日練習を行った関係で使えず、12月2日に延期するハメとなった
1998年のシーズン後に読売新聞社(2006年からオフィシャルスポンサーとして看板広告を掲出)とよみうりランドが経営から撤退し、日本テレビが全額出資(その後2001年の東京移転の際、ホームタウンである稲城市の他周辺の多摩市、日野市や清水建設、京王エージェンシー〔京王電鉄系列の広告代理店〕など地元企業も出資したため、日テレ自らの資本は約79%。2008年に立川市も出資)となる。それに伴い運営法人名は「株式会社読売日本サッカークラブ」から「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、トップチーム名は「FCニッポン」に変更された。
東京移転後
2001年にホームタウンを川崎市から東京都に移転し、呼称も東京ヴェルディ1969となり、ホームスタジアムを調布市の味の素スタジアム(当時は東京スタジアム)にした。J2降格の危機に追い込まれたが、シーズン終盤に入団した元ブラジル代表FWのエジムンドの活躍で残留に成功。2003年からはカメルーン代表FWパトリック・エムボマが加入し、同年途中からオズワルド・アルディレス監督が指揮を執っていた。
2004年度の天皇杯全日本サッカー選手権大会を制し8年ぶり、東京移転後初のタイトルを獲得。同日行われた全日本女子サッカー選手権大会では女子チームのベレーザが優勝し、全日本選手権初の男女同時優勝の快挙を達成。
2005年シーズンには2004年ブラジル代表経験者でありブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得した。FIFAコンフェデレーションズカップ中断明けの7月2日のガンバ大阪戦、7月6日の浦和レッズ戦、7月17日のジュビロ磐田戦での大量失点が響き、アルディレス監督が解任され、バドンが新監督に就任したが、思うように試合が動かず、11月26日の柏レイソル戦で1-5の大敗を喫し、J2降格が決まった(奇しくも柏レイソルには、後の監督であるラモス瑠偉がコーチを務めていた)。これを受けてバドン監督は退任した。天皇杯優勝によって獲得した2006年度AFCチャンピオンズリーグの出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた。
- 過去にJリーグのタイトルを獲得したチームのJ2降格は、サンフレッチェ広島(1994年サントリーシリーズ1位。2002年度のJ1年間15位でJ2降格。2003年度のJ2で2位に入り1年でJ1復帰)以来のケースで、年間チャンピオンを獲得したチームが降格するのはJリーグ初のことだった。J2降格は、読売クラブ・ヴェルディ川崎時代からのオールドなサッカー・Jリーグマニアに衝撃が走った。
2006年からは、前年の柏レイソルのコーチであり、ヴェルディOBのラモス瑠偉が監督に就任。新体制の下で1年でのJ1復帰が目標になった。そのためにはJ1最多失点を喫した守備陣の立て直し、チーム総得点40のうち22点を叩き出したワシントンの浦和レッズへの完全移籍放出に伴う攻撃陣の強化、J2リーグ(48試合)とAFCチャンピオンズリーグ(最低でも予選6試合はこなさなくてはならなかったが、インドネシア・タイからの代表クラブが失格となったため、予選は蔚山現代ホランイとの2試合になった)を含め年間50試合以上の公式戦をこなさなくてはいけないため、選手のモチベーションの維持といった課題を克服する必要があった。だが林健太郎、米山篤志の戦力外通告に端を発した主力の大量流出により、チームは土台からの作り直しを余儀なくされた。 4月18日の日本テレビサッカークラブ株主総会で、サイバーエージェント社が株式の48.1%を取得し、50.7%を保有して同社を連結子会社として維持する日本テレビ放送網に次ぐ大株主となる事が、藤田晋サイバーエージェント社長の同クラブ取締役就任と合わせて承認された。
シーズン開幕後、課題であった失点の多さは解消されなかった。チーム構成もデジマール、ヒキ、アナイウソン、バジーリオの外国籍選手4人をシーズン途中に解雇するなどシーズン中としては異例の頻繁な入れ替えが行われ、スタメンがほぼ毎試合ごとに入れ替わったこと、若手中心だったのでベースを作ることができなかったことなどが致命傷となり、安定感を欠いた戦いが続いた。10月28日、水戸ホーリーホックに1-4で敗れ、J1復帰の可能性はなくなった。最終順位は7位で終了した。
2007年も引き続きラモス監督が指揮を執ることが決定。選手会長だった柳沢将之を含めて選手を大量に放出。新たに元日本代表の服部年宏、名波浩を始め土屋征夫、佐藤悠介などのベテラン選手を獲得。外国籍選手では既に契約を更新していたマルクスを横浜F・マリノスに引き抜かれたが、フッキ、ディエゴとJ2で実績を挙げた選手を獲得、積極的な補強を行なった。新人選手も大量7人が加入、結果的に約半数のメンバーが入れ替わりチーム構成が劇的に変化、J2レベルでは突出した戦力を揃えた。萩原敏雄代表は「内容が悪ければ早期での解任もありえる」と発言し、J1復帰はもちろん、J2優勝を義務付けられたシーズンとなった。 開幕5試合は4勝1分と順調にスタートしたものの、第7節(アビスパ福岡戦)から第13節(水戸ホーリーホック戦)までクラブワーストタイの7連敗を喫し9位にまで転落。ラモス監督の解任騒動にまで発展した。だが続く京都サンガF.C.戦に4-1で快勝するとその後は1度の連敗もなく安定して勝ち点を積み重ねていった。第4クールに入ってからは8連勝を記録するなど驚異的な追い上げを見せ、第51節終了時点では得失点差でコンサドーレ札幌をかわし首位に立った。結局最終節で抜き返され優勝は逃したものの、2位でシーズンを終了、J1復帰を果たした。シーズン終了後にラモス監督の勇退とエグゼクティブディレクターとしてのフロント入り、柱谷哲二トップコーチの監督就任が発表された。
2008年より呼称から1969が取り除かれ、東京ヴェルディとしてJ1での再スタートを切った。守備的な選手を中心に補強を行い、FC東京を戦力外となった元日本代表MF福西崇史やGK土肥洋一、横浜F・マリノスからDF那須大亮、清水エスパルスからDF和田拓三を獲得。また、新外国人としてサンパウロFCからFWレアンドロを獲得した。 さらに開幕後には川崎フロンターレからわずか2試合で退団が決まっていた昨年のエースストライカー・フッキを獲得した。
下部組織
男子トップチームの下部組織として小学生段階からスクールを全国各地に展開している。ユース年代で継続して良い成績を残し続け、ユースからトップへの昇格も多いことからヴェルディの下部組織には定評がある。2005年にはヴェルディユースが日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会の2冠を達成した。クラブで育った選手がそのままコーチとして子供たちを教えることが多いのがヴェルディの育成組織の一つの特徴であり、「読売のサッカー」が世代を超えて受け継がれている。
ホームタウンの移転
川崎から東京への移転
もともと読売クラブは練習場が都県境のよみうりランドにある事から、JSLのホームゲームは駒沢や等々力を利用していた。JSLではホームタウンの概念があいまいだったため、問題にはならなかった。下部組織の選手達も東京都と神奈川県にまたがる地域から集まっていた。
Jリーグ創立にあたりホームタウンの明確化が必要になると、ヴェルディは東京を本拠地と希望したが、5万人を超える収容人数を誇る国立競技場は全クラブに開放される中立地とされ、もう一つの有力候補であった2万人収容の駒沢では隣接する国立東京第二病院(現在の東京医療センター)のためにナイトゲーム開催ができないという制約が付けられたため、1万5千人という当時のJリーグ参加規定を満たすホームスタジアムが都内では見つからなかった。そのため、同様に東京を希望していた三菱自動車(現在の浦和レッドダイヤモンズ)とともに都外でのホームタウンを探す事になり、等々力をホームスタジアム、川崎市をホームタウンとした。
当時圧倒的な人気と巨大メディアグループのバックアップを持っていたヴェルディが首都である東京をホームにすることによりリーグの均衡が崩れることを恐れたJリーグがヴェルディの東京ホーム化を認めなかったとする見解もある。2000年にJ1昇格を果たしたFC東京の場合は、翌年の東京スタジアム開場までの1年限定として、名目上は駒沢、実質的には国立をホームスタジアムとする事を認められた。
Jリーグ発足後もヴェルディは東京都内への移転を模索した。1993年には東京都調布市にある米軍基地の跡地利用として「武蔵野の森スタジアム」(当時の仮称。後に東京スタジアムと命名され、現在は味の素スタジアム)構想が発表されたのに合わせ、ここへの移転構想を発表し、調布市も積極的に誘致に乗り出した。数年後のスタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度での移転構想という事もあり、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶した。読売系のメディアでは「読売ヴェルディ」と表記された上、等々力の大規模改修に着手した時点での移転通告を受けた川崎市が猛反発し、移転には同意しないと通告した。この結果、この移転計画はほどなく白紙撤回に追い込まれた。
その後は川崎市でのホームタウン活動を開始し、優勝時の川崎市役所パレードなども行った。Jリーグチャンピオンシップのホームゲームなど、集客の見込める試合の多くは国立開催を積極的に行った事で川崎市民からの信頼は得られず、2万5000人へのスタンド増築が終わった1995年以降の等々力では次第に空席が目立つようになった。クラブ経営の悪化、成績の低迷、主力選手の放出などと一連の悪循環を形成した。
危機を打開するため、ヴェルディは1999年に再度東京移転構想を発表した。既に武蔵野の森スタジアムが「東京スタジアム」として2001年に開業される事が確実になっており、東京都内では既にFC東京がこのスタジアムの将来利用を前提としてJ2での活動を開始していた。前回はJリーグクラブの流出に抵抗した川崎市も、1997年発足の川崎フロンターレへの支援を強化していた事もあり、ヴェルディの東京移転を容認した。ただし、東京移転後は等々力でのホームゲーム開催を一切認めないなど、両者の関係は冷却したままで終了する事になった。
これらの結果、フロンターレとの「川崎ダービー」がJ1とナビスコ杯で実現した2000年シーズンをもってヴェルディは等々力を離れ、2001年からは東京スタジアムをホームスタジアムとした。
東京移転後の状況
東京移転後、観客動員数は回復していた。2000年には1試合平均動員数が7609人まで落ち、等々力では3000人台の試合も珍しくなかったのが、2001年には1万9396人まで急増し、その後も1万5000人前後を維持していた。ただ、同じスタジアムを使用しているFC東京との「東京ダービーマッチ」でのサポーターの数という点では、FC東京の方が圧倒的に多かった。J2降格後は平均5000人程度にまで落ち込んでおり、観客動員数の回復がチームの課題の1つとなっている。
東京移転後は地域活動も活発に行っており、Jクラブの中でも地域活動回数はトップ。特にクラブ所在地の稲城市、他に立川市や渋谷区などで積極的にイベント活動を展開している。他に多摩市、日野市、八王子市など京王電鉄沿線都市でのPR活動が盛んである。[1]
また、環境活動(ヴェルディECOプロジェクト)も行っており、2007年にはアルピニストの野口健が環境活動アドバイザーに就任した。
開催スタジアム問題
川崎時代は、通常の試合を等々力、集客の見込める試合を国立という使い分けを基本とし、地方都市での開催も比較的多かった。1997年からは等々力がフロンターレとの共有状態になったが、Jリーグ所属のヴェルディの方が優位だった事と(2000年は両チームともJ1)、基本的にはJリーグは土曜、旧JFLは日曜開催で分散されていた事などから、開催スタジアムで困る事はなかった。東京移転発表後の2000年の天皇杯では、ホーム扱いの3回戦を平塚で開催している。
2001-2005年は、味の素スタジアム(東京スタジアム)をFC東京と共用する事になった。ともにJ1ということで、両者のホームゲーム節が重複しないように調整が可能だった。その中で、年に数試合は国立でのホーム開催を行った。
2006-2007年はホームゲームがFC東京と同じ日(または節)で重複することがあっても、J1チームであるFC東京に味の素スタジアムの優先使用権があるため、J2のチームでは初めて国立を使用することとなった。ACLのグループリーグ主催試合(3試合の予定だったのが1試合のみとなる)も国立開催となった。その他同じ都区内にある駒沢や、西が丘でも主催試合を実施する事になった。2008年からJ1に復帰したが、西が丘はキャパシティの、駒沢は施設の都合で使用せず、味スタと国立でのみ行われる予定。
スタイル
クラブチームとしての長い伝統のためか、選手が変わり監督が替わってもそのサッカースタイルが大きく変貌することは少なく、Jリーグの中でも最も個性が際立ったクラブの一つである。 一言で言えば「綺麗な薔薇にはトゲがある」と言う言葉がピッタリで、華麗なプレー、観客に魅せるプレーをする一方で、勝利の為にはラフプレーも厭わない、闘志あふれるプレーを見せるチームである。J2ではこの攻撃性が仇になることが多く、守備を固められてカウンターで失点というパターンがしばしば見られた。
Jリーグ年度別成績
年度 | リーグ | リーグ | 順位 | 成績 |
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1993年 | サントリー | J | 2位 | 12勝6敗 |
ニコス | J | 1位 | 16勝2敗 | |
1994年 | サントリー | J | 4位 | 14勝8敗 |
ニコス | J | 1位 | 17勝5敗 | |
1995年 | サントリー | J | 2位 | 16勝10敗 |
ニコス | J | 1位 | 19勝7敗 | |
1996年 | 年間 | J | 7位 | 19勝11敗 |
1997年 | 1st | J | 16位 | 4勝12敗 |
2nd | J | 12位 | 6勝10敗 | |
1998年 | 1st | J | 6位 | 10勝7敗 |
2nd | J | 17位 | 3勝14敗 | |
1999年 | 1st | J1 | 2位 | 11勝3敗1分 |
2nd | J1 | 10位 | 6勝8敗1分 | |
2000年 | 1st | J1 | 9位 | 7勝7敗1分 |
2nd | J1 | 10位 | 5勝7敗3分 | |
2001年 | 1st | J1 | 16位 | 4勝11敗0分 |
2nd | J1 | 9位 | 6勝7敗2分 | |
2002年 | 1st | J1 | 12位 | 5勝9敗1分 |
2nd | J1 | 4位 | 8勝5敗2分 | |
2003年 | 1st | J1 | 10位 | 6勝8敗1分 |
2nd | J1 | 9位 | 5勝4敗6分 | |
2004年 | 1st | J1 | 9位 | 5勝6敗4分 |
2nd | J1 | 9位 | 6勝7敗2分 | |
2005年 | 年間 | J1 | 17位 | 6勝16敗12分 |
2006年 | 年間 | J2 | 7位 | 21勝19敗8分 |
2007年 | 年間 | J2 | 2位 | 26勝11敗11分 |
合計 | - | J/J1 | - | 216勝190敗36分 |
合計 | - | J2 | - | 47勝30敗19分 |
獲得タイトル
国内タイトル
個人別タイトル
- Jリーグ
- 1993年 柱谷哲二、ペレイラ、ラモス瑠偉、三浦知良
- 1994年 菊池新吉、ペレイラ、柱谷哲二、北澤豪、ラモス瑠偉、ビスマルク、武田修宏
- 1995年 菊池新吉、柱谷哲二、ビスマルク、三浦知良
- 1996年 三浦知良
- 1999年 中澤佑二
- フェアプレイ個人賞
個人成績
ハットトリック
- J1
- 3得点
- 武田修宏(1993年11月6日 NICOS第10節 対ガンバ大阪)
- 三浦知良(1993年12月8日 NICOS第17節 対浦和レッドダイヤモンズ)
- ベンチーニョ(1994年8月17日 NICOS第3節 対ジュビロ磐田)
- 三浦知良(1995年9月2日 NICOS第6節 対鹿島アントラーズ)
- 三浦知良(1995年9月13日 NICOS第9節 対横浜フリューゲルス)
- 三浦知良(1996年11月6日 Jリーグ第29節 対ジェフユナイテッド市原)
- 高木琢也(1998年4月29日 1st第9節 対アビスパ福岡)
- 平本一樹(2005年4月28日 J1第8節 対名古屋グランパスエイト)
- ワシントン(2005年10月1日 J1第26節 対ジュビロ磐田)
- J2
- 3得点
歴代監督
- 松木安太郎(1993年-1994年)
- ネルシーニョ(1995年-1996年4月)
- 岸野靖之[代行](1996年4月)
- エメルソン・レオン(1996年5月-1997年1月)
- 加藤久(1997年1月-1997年6月)
- エスピノーザ(1997年6月-1997年12月)
- 川勝良一(1997年12月)
- ニカノール(1998年-1998年9月)
- 川勝良一(1998年9月-1998年12月)
- 李国秀[総監督](1999年-2000年)
- 松永英機(1999年)
- 張外龍(2000年)
- 松木安太郎(2001年-2001年7月)
- 小見幸隆(2001年7月-2002年4月)
- ロリ・パウロ・サンドリ(2002年4月-2003年5月)
- レアンドロ[代行](2003年5月)
- オズワルド・アルディレス(2003年6月-2005年7月)
- 石崎信弘[代行](2005年7月)
- バドン(2005年8月-2005年12月)
- ラモス瑠偉(2006年-2007年)
- 柱谷哲二(2008年-)
ユニフォーム
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チームカラー
- チームカラーは緑色
ユニフォームスポンサー
- 胸 サイバーエージェント(Ameba)
- 袖 リソー教育(TOMAS)
- 背中 なし
- パンツ ミロク情報サービス(MJS)
過去のユニフォームスポンサー
- コカ・コーラ(1992-95 胸、背中)
- マクドナルド・ハンバーガー(1993-95 袖)
- サントリー・モルツ(1996-1998 胸)
- サントリー(1996-98 背中)
- コナミ(1996-98 袖、1999-2001 胸、背中、2002 胸のみ)
- 楽天(2003 胸)
- レオック(2004年 胸)
- CORNES(2002-2004年 背中)
- SOPH.(2006年 パンツ)
- 日テレ(2006年 AFCチャンピオンズリーグ用)
- バップ(2007年 パンツ)
スポンサー企業に関する余談
- コカ・コーラとユニフォームスポンサーを結んでいた1994年、彼らヴェルディの選手をモデルに起用したコマーシャルが放映され、ヴェルディの主力選手が多数出演したが、エース・三浦知良はこのCMに出演できなかった。カズはソフトドリンク業界ライバルでJリーグのスポンサーでもあるサントリーとCM契約を結んでおり、デカビタCのCMに出演したため。
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 プーマ
- 1993年-1996年 リーグ戦、カップ戦共にミズノ
- 1997年-2006年 リーグ戦、カップ戦共にナイキ(1997年度のリーグ戦ではナイキがJリーグのサプライ契約を結んでいなかったので、ナイキのロゴを付ける事が出来ずヴェルディの自主製作扱いとされた)
- 2007年- kappa
チーム名の変遷
- 1969年-1991年 読売サッカークラブ
- 1992年-2000年 ヴェルディ川崎
- 2001年-2007年 東京ヴェルディ1969
- 2008年-東京ヴェルディ
トリビア
- 2005年7月2日のガンバ大阪戦は1-7で大敗したが、11年前の1994年7月2日に行われたナビスコカップの同カードでは7-1で勝っている。
- ここがヘンだよ日本人にヴェルディ川崎時代の通訳だったジョニー石橋が出演していた。
東京ヴェルディに所属するサッカー漫画の登場人物
ヴェルディ川崎および東京ヴェルディ1969所属選手も含む。
関連項目
外部リンク
GK |
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1 土肥洋一|21 高木義成|26 柴崎貴広|34 鈴木智幸 |
DF |
2 福田健介|3 萩村滋則|4 和田拓三|5 那須大亮|14 富澤清太郎|17 土屋征夫|18 海本幸治郎|22 服部年宏|27 飯田真輝|28 足助翔|29 宮坂翔 |
MF |
6 菅原智|8 柴崎晃誠|10 ディエゴ|11 大野敏隆|20 廣山望|23 福西崇史|24 吉武剛|31 新村純平|33 河野広貴 |
FW |
7 レアンドロ|9 フッキ|13 井上平|16 飯尾一慶|19 船越優蔵|25 平本一樹|32 エルサムニー・オサマ |
スタッフ |
監督 柱谷哲二|コーチ 菊原志郎|コーチ 高木琢也|フィジカルコーチ 石栗建|フィジカルコーチ バウミール・クルス|GKコーチ 菊池新吉 |
J1 |
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コンサドーレ札幌|鹿島アントラーズ|浦和レッズ|大宮アルディージャ|ジェフユナイテッド千葉|柏レイソル|FC東京|東京ヴェルディ|川崎フロンターレ|横浜F・マリノス|アルビレックス新潟|清水エスパルス|ジュビロ磐田|名古屋グランパス|京都サンガF.C.|ガンバ大阪|ヴィッセル神戸|大分トリニータ |
J2 |
ベガルタ仙台|モンテディオ山形|水戸ホーリーホック|ザスパ草津|横浜FC|湘南ベルマーレ|ヴァンフォーレ甲府|FC岐阜|セレッソ大阪|サンフレッチェ広島|徳島ヴォルティス|愛媛FC|アビスパ福岡|サガン鳥栖|ロアッソ熊本 |
過去に存在したクラブ |
横浜フリューゲルス |
準加盟クラブ |
栃木SC|カターレ富山|ガイナーレ鳥取|ファジアーノ岡山|ニューウェーブ北九州 |
Jリーグの主な大会 |
ナビスコ杯|オールスターサッカー|チャンピオンシップ|入れ替え戦|アウォーズ |
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鹿島アントラーズ · 浦和レッドダイヤモンズ · ジェフユナイテッド市原 · ヴェルディ川崎 · 横浜マリノス 横浜フリューゲルス · 清水エスパルス · 名古屋グランパスエイト · ガンバ大阪 · サンフレッチェ広島 |
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本社所在地 | 東京(読売新聞東京本社)1・大阪(読売新聞大阪本社)1・福岡(読売新聞西部本社)1 |
支社所在地 | 名古屋(読売新聞中部支社)・札幌(読売新聞北海道支社)・高岡(読売新聞北陸支社) |
主な刊行紙・刊行雑誌 | 読売新聞・ザ・デイリー読売・読売ウイークリー・大相撲・読売新聞縮刷版・読売新聞衛星版・中央公論・婦人公論 |
読売新聞社以外の新聞社 | 報知新聞社(スポーツ報知)・福島民友新聞2 |
出版社 | 中央公論新社1・旅行読売出版社 |
主要放送局3 | 日本テレビ・読売テレビ・CS日本・BS日テレ・RFラジオ日本 |
映像制作事業 | 読売映像 |
広告事業 | 読売メディアセンター・読売エージェンシー・読宣4・読売連合広告社4・大阪読売広告社4 |
折り込み広告事業 | 読売情報開発・読売インフォメーションサービス・ヨミックス5 |
人材派遣事業 | 東京読売サービス・大阪読売サービス・ヨミックス5 |
コンピュータソフトウェア開発事業 | よみうりコンピュータ・読売システック |
印刷事業 | 東京メディア制作 |
スポーツ・レジャー関係事業 | 読売ジャイアンツ1・日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ、日テレ・ベレーザ)6・よみうりランド・よみうりカントリークラブ |
小売・不動産事業関係 | プランタン銀座7・読売不動産 |
引越運送会社 | 読売引越センター |
文化事業関係 | 読売旅行・読売・日本テレビ文化センター・財団法人 読売日本交響楽団・ 学校法人 読売理工学院・専門学校 読売自動車大学校・社会福祉法人 読売光と愛の事業団・読売育英奨学会 |
海外現地法人 | 読売香港有限公司 |
人物 | 正力松太郎・正力亨・務臺光雄・竹井博友・小林與三次・渡邉恒雄・氏家齊一郎・長嶋茂雄 |
関連項目 | NNN・NNS・コボちゃん・yorimo・新s |
1中核子会社5社(読売新聞社も参照されたし) 2福島県の地方紙 3主要な放送局のみ掲載 4大阪本社が出資 5北海道を中心に折り込み広告事業、人材派遣事業を行う会社 6日本テレビ100%の子会社 7建物の所有のみ行う。小売の運営は事実上、三越が中心となって支援している |