武田修宏
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武田 修宏 | ||
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名前 | ||
カタカナ | タケダ ノブヒロ | |
ラテン文字 | TAKEDA Nobuhiro | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1967年5月10日(41歳) | |
出身地 | 浜松市中区 | |
身長 | 177cm | |
体重 | 73kg | |
血液型 | O型 | |
選手情報 | ||
ポジション | FW | |
利き足 | 右 | |
代表歴 | ||
1987-1994 | 日本 | 18 (1)
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武田 修宏(たけだ のぶひろ、1967年5月10日 - )は静岡県浜松市中区出身、浜松市立佐藤小学校卒、浜松市立丸塚中学校卒、静岡県立清水東高校卒、の元サッカー選手。引退後、スポーツコメンテーター・タレントとして活動(ホリプロ所属)。
目次 |
[編集] 略歴
幼少期から静岡県内で天才サッカー少年の名を欲しいままにし、同じ歳の中山雅史をもってしても「(対等の)ライバルとしては見られなかった」と言わしめるほどの存在だった。静岡県高校サッカー界の名門・清水東高校から1986年高校卒業と同時に読売サッカークラブに入団し、チームの主軸として活躍、日本代表にも選出された。日本リーグ最後期からJリーグ初期にヴェルディ川崎黄金時代を支え、三浦知良との2トップで抜群の破壊力を誇った。なお、読売クラブ時代はアマチュアだったので、静岡第一テレビに勤務していた。
1996年に出身地の浜松市中区に隣接する磐田市のジュビロ磐田に移籍したのを皮切りに、一旦ヴェルディに復帰後、京都パープルサンガ、ジェフユナイテッド市原、パラグアイのスポルティボ・ルケーニョに移籍して活動の場を求め、さすらいのJリーガーと呼ばれる。最後まで日本代表復帰を目指したが、2001年のヴェルディ復帰を最後に現役を退く。Jリーグ通算94ゴール、また日本リーグ新人王、MVP、ベストイレブンにも日本リーグ時代3回とJリーグ1回の表彰歴を誇る。引退会見では号泣し、その場にいた記者から拍手を送られるほどだった。
近年は日本テレビでのサッカー解説やバラエティ番組(主にクイズ番組)への出演を中心にタレントとしても活動しており、NHK教育テレビスペイン語会話の生徒役(2004年度)としてもレギュラー出演している。2004年からは日本サッカー協会が認定するJFAアンバサダーとしてサッカーの普及に貢献している。2006年日本サッカー協会公認S級ライセンスを取得。今後はサッカーの指導者としても活動の幅を広げていく予定。
[編集] エピソード
清水東校時代では、武田が出場すると風が止むと言われた。理由として武田のプレー見たさに女子学生が集まり、グラウンドの周りを囲んだので風を遮ったためである。
パラグアイでは、日本のマラドーナが来たと騒がれた。その名付けは元パラグアイ代表GK・チラベルトであり、歓迎試合として所属チームのルケーニョ対パラグアイ代表のゲームが行われた。また後に、パラグアイ時代では孤独に耐えていた事を明かした。一人部屋に戻ると、病気になると誰にも気づかれずに死んでしまうのではないかと述べていた。
最近、よく語る理想の結婚相手は、普通の一般女性である。丸の内OLが好みだとか。現役時代では、梅宮アンナとの交際が噂され、梅宮辰夫は羽賀研二よりも肯定的で彼の肩を持っていた。
ファッションにおいては、イタリアに影響された面が大きく、頻繁に男性誌を切り抜いてはファイルにしているのである。トレードマークは、襟の大きい白シャツに鮮やかなVネックニットに細身のジーンズや綿パンをコーディネートしている。革靴にいたっては、100足程度自宅に保管している。中にはイタリア製のフルオーダーで20万近くする物もある。
[編集] プレースタイル
スピード・フィジカル・テクニックなどには特筆すべき点はなかったが、ポジショニングの上手さやゴールへの嗅覚は非常に優れており、仲間からのパスをはじめ、仲間のシュートミスしたボール、敵のミスボールまでもがゴール前にいる彼の足元に吸い込まれるようであった。余りにも簡単そうにゴールする姿から「ごっつあんゴーラー」などとも言われたが、全ては彼のポジショニングの上手さによるものである。味方の「単なる苦し紛れのクリアボール」でさえ「カウンターアタック」に化けさせるそのポジショニングの良さは守備の選手にとっては有り難い存在である。
クラブレベルではその得点能力を発揮することが出来たが、日本代表ではあまり活躍することができなかった。その理由として、当時の日本代表は、アジアレベルでも押し込まれる展開が多かったことや、いわゆるブラジル様式であったため、個人技を重視されたためである。しかし、最も大きな理由としては、古典的なタイプのストライカーだったため、モダンサッカー思考の監督からは重用されなかったことが大きい。あと数年生まれてくるのが遅ければ、現在の日本代表ではほとんど存在しないタイプの選手であっただけに惜しまれる。
ジュビロ磐田では、背番号2をつけ右サイドバックでプレーすることが多かった。[1]ただし、後半に得意のセンターフォワードの位置に上がったり、先発時からセンターフォワードで出場した試合もあった。
Jリーグ通算94得点。初期のヴェルディを除いて、チーム力で劣っていたこと、PKをはじめとするプレースキックにはからまないことも考えれば、驚異的な得点力であると言える。
[編集] クイズ番組への出演
近年の武田は、おとなの学力検定スペシャル小学校教科書クイズ!や一攫千金ヤマワケQ! "責任者はお前だ!"などのクイズ番組に解答者としての出演が著しくなっている。ただしその成績は、総じて順位を下から数えるほうが早いほどの低成績に甘んじたり(第1回ナイナイメモリーや前述の『小学校教科書クイズ』では最下位[2]になった)、チーム戦の番組では足を引っ張ることも多いためか、おバカタレントのような扱いを受けている。
また、クイズ番組ではないが、その低成績ぶりを大いに表した2008年4月5日に放送されためちゃ×2イケてるッ!の期末テストでも「金科玉条」を答える穴埋め問題で「金玉玉金」と解答するなどの珍解答を連発した挙句、12人の生徒の中で最下位になり三ツ星バカに選ばれてしまった。この記録は、過去9回のテストの中でも、総合得点500点中247点で歴代ワースト4位、1教科目の国語で小さい声で「(学生時代の成績が)国語1なんだよなー」と呟いた事を矢部浩之に言われ、岡村隆史から「我々日本人にとって国語1とは恥ずべき事ですよ!」と突っ込まれたことからも分かるように、国語に至っては案の定、100点中39点を獲得して歴代ワースト1位の記録を残してしまった。
[編集] 所属クラブ
- 浜松市立丸塚中学校(静岡)
- 清水東高校(静岡)
- 1986年 - 1995年 読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎(日本)
- 1996年 ジュビロ磐田(日本)
- 1997年 ヴェルディ川崎(日本)
- 1997年7月 - 同年末 京都パープルサンガ(日本)
- 1998年 - 1999年 ジェフユナイテッド市原(日本)
- 2000年 ヴェルディ川崎(日本)
- 2000年6月 - 同年末 スポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)
- 2001年 東京ヴェルディ(日本)
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1986-87 | 読売 | JSL1部 | 22 | 11 | |||||||
1987-88 | 読売 | JSL1部 | 21 | 5 | |||||||
1988-89 | 読売 | JSL1部 | 15 | 4 | |||||||
1989-90 | 読売 | JSL1部 | 22 | 13 | |||||||
1990-91 | 読売 | JSL1部 | 22 | 9 | |||||||
1991-92 | 読売 | JSL1部 | 20 | 6 | |||||||
1992 | V川崎 | - | J | - | |||||||
1993 | V川崎 | - | J | 36 | 17 | ||||||
1994 | V川崎 | - | J | 40 | 23 | ||||||
1995 | V川崎 | - | J | 41 | 20 | - | |||||
1996 | 磐田 | - | J | 24 | 4 | ||||||
1997 | V川崎 | 21 | J | 4 | 0 | - | |||||
1997 | 京都 | 32 | J | 16 | 9 | ||||||
1998 | 市原 | 9 | J | 33 | 13 | ||||||
1999 | 市原 | 9 | J1 | 24 | 6 | ||||||
2000 | V川崎 | 18 | J1 | 0 | 0 | - | |||||
パラグアイ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | S・ルケーニョ | パラグアイリーグ | |||||||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2001 | 東京V | 9 | J1 | 19 | 2 | ||||||
通算 | 日本 | J1 | 237 | 94 | |||||||
日本 | JSL1部 | 122 | 48 | ||||||||
パラグアイ | パラグアイリーグ | ||||||||||
総通算 |
[編集] 個人タイトル
- 1983年 - 全国高校サッカー選手権得点王
- 1986年 - 日本サッカーリーグベスト11、新人王
- 1986年 - 日本年間最優秀選手賞
- 1994年 - ベストイレブン
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 18試合 1得点(1987-1994)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1987 | 4 | 1 |
1988 | 0 | 0 |
1989 | 0 | 0 |
1990 | 4 | 0 |
1991 | 2 | 0 |
1992 | 2 | 0 |
1993 | 4 | 0 |
1994 | 2 | 0 |
通算 | 18 | 1 |
[編集] 指導歴
- 東京ヴェルディ特別コーチ(トレーニングキャンプ(2/8~17)の期間中)
[編集] 出演
[編集] テレビ番組
- 愛するために愛されたい(2003年、TBS系) - 星野真二役
- NHK スペイン語会話(2004年-2005年、NHK教育)
- スポーツうるぐす(日本テレビ系)
- おとなの学力検定スペシャル小学校教科書クイズ!(2007年10月9日、12月30日、日本テレビ系)
- めちゃ×2イケメンパラダイス学園(2008年4月5日/5月10日、フジテレビ系)
- 只今参上 色とり忍者(2008年5月24日、フジテレビ系)
[編集] CM
[編集] 脚注
- ^ チケットぴあ/トークバトル
- ^ ただし、この成績は第2回放送の時に、仕事の都合で途中で抜けたため、その時点での成績である。
[編集] 外部リンク
日本代表 - AFCアジアカップ1992 優勝メンバー (初) | |
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1 松永成立 | 2 大嶽直人 | 3 勝矢寿延 | 4 堀池巧 | 5 柱谷哲二 | 6 都並敏史 | 7 井原正巳 | 8 福田正博 | 9 武田修宏 | 10 ラモス瑠偉 | 11 三浦知良 | 12 山田隆裕 | 13 阪倉裕二 | 14 北澤豪 | 15 吉田光範 | 16 中山雅史 | 17 森保一 | 18 神野卓哉 | 19 前川和也 | 20 高木琢也 | 監督 オフト |