ディエゴ・マラドーナ
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ディエゴ・マラドーナ | ||
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名前 | ||
本名 | ディエゴ・アルマンド・マラドーナ | |
愛称 | ペルーサ ピベ・デ・オロ(神の子) |
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ラテン文字 | Diego Armando MARADONA | |
基本情報 | ||
国籍 | アルゼンチン | |
生年月日 | 1960年10月30日(47歳) | |
出身地 | ラヌース | |
身長 | 166cm | |
体重 | 67kg | |
選手情報 | ||
ポジション | FW、MF | |
利き足 | 左足 | |
代表歴 | ||
1977-1994 | アルゼンチン | 91 (34)
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ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona、1960年10月30日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手。
不世出の天才レフティー。選手時代は神の子 (el pibe de oro, the golden boy) 、カーリーヘアの天才児と呼ばれた。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 華々しいデビュー
1960年10月30日にブエノスアイレス南部のラヌースに貧しい家庭の子として生まれる。幼少の頃から天才サッカー少年として脚光を浴びると11歳でロス・セボジータス(Los Cebollitas =小さな玉葱)と云う地元の少年サッカークラブに入団。12歳でアルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織に入団し、1976年10月20日、15歳11ヶ月の若さでタジェレス・デ・コルドバ戦でトップチームの公式戦に初出場する。そのわずか4ヶ月後の1977年2月27日にはアルゼンチン代表に選ばれ対ハンガリー戦に出場した。
しかし翌1978年の、母国アルゼンチンで開かれたワールドカップには年齢を理由に代表チームには選ばれなかった。その翌年に日本で開催された第2回ワールドユースでは、W杯不出場の鬱憤を晴らすような活躍でアルゼンチンを優勝に導いた。 1981年にマラドーナ自身も熱狂的なサポーターである名門ボカ・ジュニアーズに400万ドルで移籍、翌年にはスペインのFCバルセロナに600万ドルで移籍するなど絶頂期にあった。
[編集] スペインでの挫折
ここからは暫らく不運が続く。1982年W杯スペイン大会では対戦相手の執拗なマークに苦しみ、2次リーグのブラジル戦ではマークを受けていたバティスタの腹を蹴り退場処分を受けた。移籍したバルセロナでは入団早々に肝炎を患い、また1983年9月24日のアスレティック・ビルバオ戦では相手DFのアンドニ・ゴイコチェアによる悪質なタックルで左足首と靭帯に重症を負い6ヶ月の長期離脱を余儀なくされ、失意のうちに1984年にイタリアのSSCナポリに移籍する事になった。
[編集] ナポリとメキシコW杯の栄光
1984年6月30日にSSCナポリ入団、7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見には多数のサポーターが駆けつけた。そしてこのクラブと都市で失われた本来の輝きを取り戻す。マラドーナのプレーは人々を魅了し、ナポリではサポーターから「ナポリの王」と呼ばれ愛された。彼が入団を決めた直後から、ナポリのシーズンシートが瞬く間に売れ、莫大な移籍金および給料を払ってもなお、数年後にブラジル代表のエースストライカー・カレカを獲得出来るほどナポリの財政は潤った。
在籍期間中にクラブを2度のスクデットと1度のUEFAカップ制覇に導き、カレカ、アレモン、チロ・フェラーラらと共に黄金時代を築きあげた。イタリア北部の都市にサッカーだけでなく政治、経済、全ての分野を独占されていた南部の人々にとっては素晴らしい時を過ごした。
一番の大舞台は1986年のW杯メキシコ大会である。心身共に万全な状態で大会に挑み、5ゴール、5アシストの大活躍でチームを優勝に導いた事から同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれた。また、準々決勝、対イングランド戦の「神の手」ゴール(ゴールする際に手でボールを叩いていた(ハンドリングの反則)にもかかわらず審判がゴールを認めた)や「5人抜きドリブル」等、サッカー史上に残るプレーを残している(後述)。
[編集] 転落の日々
しかし、1990年W杯イタリア大会はマラドーナにとって不幸な大会となった。準決勝でイタリアと地元ナポリで対戦、PK戦でアルゼンチンが勝利した事で、イタリア国民のみならずマラドーナとナポリサポーターとの関係も悪化してしまい、コカイン使用発覚により15ヶ月間の出場停止処分を受けた事で、1992年、スペインのセビージャFCに移籍せざるえなくなってしまった。
その後、1994年W杯アメリカ大会でのドーピング違反による大会からの追放、監督業への挑戦を経て、1995年ボカ・ジュニアーズに復帰、1997年自身の37歳の誕生日に現役引退を発表した。
[編集] 現在
薬物問題が頻繁にニュースとして採り上げられ、死亡説まで飛び交う事もあるが、地元アルゼンチンのテレビ番組『10番の夜』の司会を務めるなど健在振りを披露している。 またアルゼンチンの期待の若手選手は「マラドーナ2世」と呼ばれることが多く、そのサッカー選手としての名声は今なお衰えを知らない。現在経済危機に陥っているアルゼンチンでは、マラドーナを復活と再生のシンボルとして崇めている。
[編集] プレースタイル
得意の左足を駆使したドリブルの技術に特に優れた。小柄ながら下半身のしっかりした地を這うようなフォームで、ボールを持っているときはどんなにつっかけられようとボールを持ち続けるなど、足に吸い付くという表現がふさわしい。なおマラドーナ自身は、体が小さいことから接触プレーでは不利なので、相手が届かない所にボールをコントロールしてドリブル突破していこうと考えて練習を積んできたことで、技術が身についたのだろうと語っている。
また、30メートルを3.9秒で走るスピードを生かした、強引ともいえるドリブルは相手チームにとって脅威となったため、相手DFがあからさまなファウルでボールを奪おうとする事も多かった。1990年イタリアW杯では、マラドーナを止めるためにボールでなく体めがけてのチャージを繰り返してきたカメルーンのようなチームもでるほどで、これがのちのバックチャージの厳罰化等の一要因になった。
キックの精度も非常に高く、左足から繰り出すシュートはスピード、タイミング、コースともに絶妙なものだった。それでいて、1990年W杯イタリア大会、ブラジル戦でDFを4人引き連れてクラウディオ・カニーヒアに出したラストパスのように絶妙のアシストを出せる選手でもあった。
傑出したボールキープ力とパスセンス、得点能力を持っており、彼のプレーの出来が当時のアルゼンチン代表やクラブの成績にも反映された。
[編集] 「神の手」ゴールと5人抜き
数々の名プレーを残しているマラドーナであるが、中でも「伝説の5人抜き」と「『神の手』ゴール」は最も有名である。1986年6月22日、W杯メキシコ大会準々決勝・対イングランド戦の後半4分、イングランドDFがGKピーター・シルトンへバックパスを送った瞬間、マラドーナがペナルティーエリア内に走り込んだ。焦ったシルトンとマラドーナとの競り合いになったが、マラドーナはボールを素早く左手で叩き、ボールはそのままゴールインした。シルトンはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判はマラドーナのゴールを認め、後にマラドーナがこのプレーを「あれは神の手と、マラドーナの頭から生まれたゴールだ」と発言した事から、「神の手ゴール」という呼称で巷間に知られるようになった。
さらに、それから僅か4分後、センターライン付近でボールを奪ったマラドーナは、そこから右サイド寄りに猛然とドリブルを始めた。次々とイングランド選手がかわされていき、そのまま驚異的なスピードでペナルティエリアに進入。そして5人目、GKのシルトンをもかわして、マラドーナはそのまま無人のゴールにボールを蹴り込んだ。このゴールは「伝説の5人抜き」(単に「5人抜き」とも)と呼ばれ、マラドーナのプレースタイルを象徴する物として知られている。
現在でも○人抜きのゴールなどと取り上げられるゴールがあるが、「マラドーナの5人抜き」で一番重要なのは、炎天下かつ、アステカスタジアムという相当な高地、そして、左足のみを使ったことが言える。なお、このゴールについて本人は「イングランド代表がフェアだった」との主旨のコメントも出している。
以上の2つのゴールは、「マラドーナの大会」と言われた1986年大会の象徴的なシーンとして、サッカーファンのみならず、サッカーを知らない人々にもマラドーナの名を知らしめる物となった。
なお1986年W杯を評してイングランド記者が第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの有名な「人民の人民による人民のための」という言葉にかけて「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」と評した。この言い回しは日本で広まり「マラドーナの大会」、「マラドーナのための大会」という言葉とともに日本でよく使われるようになったが海外ではそれほどよく使われる言い回しではない。
以後マラドーナはイングランドでは嫌われ続けていたとされるが、非常にクオリティの高いものに対して「それ、マラドーナみたいだな」という言い回しが流行っていた。
[編集] 薬物と健康問題
マラドーナがコカインに手を染め始めたのはFCバルセロナに在籍した時期だと言われている。
1994年W杯アメリカ大会では大会途中に禁止薬物エフェドリン使用で大会を追放された。この年はそれ以前に犯した麻薬の使用を理由にキリンカップ・サッカーアルゼンチン代表としての入国を拒否されており(結果、アルゼンチン代表そのものが来日をキャンセルし、オーストラリア代表が急遽代わりに招待された)、薬物使用のイメージが日本でも強く意識された。なお、2002年のW杯日韓大会では「アルゼンチン政府代表」という肩書きで日本に入国している。
引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返しており、必ずしも健康体とは言えない状態である。2003年、極度の肥満と薬物の影響から一時危篤状態となったが、一命を取り留めた。また胃の切除手術を行い、ダイエットにも成功している。
2007年4月25日、マラドーナが死亡したとの噂が流れ、アルゼンチン政府が事実調査に乗り出すほどであったが、マラドーナが腹痛で入院していただけであり、マラドーナの担当医が記者会見で死亡説を一蹴した。
[編集] 私生活
- 1989年11月7日に幼馴染のクラウディアと結婚、ダルマとジャニーナの二人の娘を授かった。クラウディアとは擦違いから2004年に離婚をし、同年に20歳のキューバ人女性との再婚をしたが、長女のダルマとは、試合を一緒に観戦する姿が頻繁に目撃される。
- ナポリ時代に愛人との間にもうけた隠し子ディエゴ・マラドーナ・ジュニアも、イタリアU-16代表に参加するなど活躍している。
- マラドーナはイタリアのナポリにいた頃、ジュリアーノ・ファミリーというカモッラ(イタリアの犯罪組織)の構成員と交際があった。決定的な証拠として捜査当局が構成員の家からマラドーナと構成員が一緒に写っている写真を見つけたことだった。マラドーナは「カモッラとは知らなかった」と弁解したが、何年も付き合いがあった事は公然の秘密で、その言い訳を信じる者は少ない。
- 選手生活の晩年に、素行の悪さ、薬物使用などのスキャンダルがマスコミのターゲットとなり、サッカー以外の場面で世間を騒がせるようになった。
- 2006年、W杯ドイツ大会では、アルゼンチン代表のサポーターとして、ユニフォームを頭上で振り回しながら娘と一緒に応援する姿が放送されている。
[編集] エピソード
- 実弟のウーゴ・エルナン・マラドーナは、PJMフューチャーズ(現サガン鳥栖)・Jリーグのアビスパ福岡・コンサドーレ札幌でもプレーしていた。
- SSCナポリではマラドーナの功績を称え、彼が背負った背番号10を永久欠番としている。
- W杯ドイツ大会終了後はアルゼンチン代表の次期代表監督候補として名前が挙がったこともあった。
- スパイク契約はずっとプーマであった。日本においても、彼の影響でプーマのスパイクを使用する選手が多かった。
しかし、契約の関係で公にはなっていないが、ラインを黒く塗りつぶして、ミズノやアディダスのスパイクを履いていた事もあった。
- 同時期のアルゼンチン代表選手、ラモン・ディアスとは犬猿の仲といわれている。
- ピーター・シルトンの引退試合に自分を呼んでくれなかったことを恨んでいるらしい。
- 2005年に放送された『10番の夜』というテレビ番組のMCとして活躍。同番組は最高視聴率34.9%を記録し常時視聴率が30%を超えるなど人気番組となり、日本(GyaOなど、日本語版サイト)を含む各国でも放送される。また同番組上にて神の手はハンドだったと自らコメントしている。自分に駆け寄ってこないチームメイトに自分から抱きつき、祝福するふりをしろと言った所、チームメイトは『これって万引きだよね』と発言し動揺していたらしい。
- マラドーナの生き様を歌った「神の手」 (La mano de Dios) という歌もあり、アルゼンチンではこの曲も非常に人気が高い。前述の『10番の夜』の第1回放送ではマラドーナ自身がこれを歌って登場した(出典。なお、本人が歌っているので、歌詞の一部が変更されている。たとえば、En una villa nació(スラム街で彼は生まれた)→En una villa nací(スラム街でオレは生まれた))。また、アルゼンチンのバンドやソロシンガーの多くが彼に捧げる歌を製作した。
- 政治的発言も多いことで知られる。2005年にアルゼンチンのマル・デル・プラタで米州機構の会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反ブッシュ集会に参加し、ベネズエラ大統領であるウーゴ・チャベスの演説のあとに「ブッシュを倒そう!」と発言出典。また、キューバ国家評議会議長であるフィデル・カストロとも親密な関係にある。
- また、プラティニがボールでできることはマラドーナはオレンジでできるなどと言われるほど。相手サポーターの投げたオレンジでリフティングを始めたこともある。
- マラドーナは一時ボランチやリベロも経験し、守備能力はフォワードにしては高いといわれている
- アルゼンチンでは話題を盛り上げる為、マラドーナを喜ばしく思わない人などが、しばしば嘘の死亡事故を報道し、誤解を招く。
- 昨年、ブラジルの清涼飲料水メーカーのGuaraná AntarcticaのCMに出演。ブラジル代表として国歌を歌っている所を夢から覚め「悪夢だ・・・」と嫌悪感に悩まされる内容の物だった(出典)。
- 上記の通り現役を通して悪童として名を馳せた。薬物、ドーピング、マフィアとの関係だけでなく自分を批判した評論家が出ているテレビ番組に突然乱入して新聞紙を口に突っ込んだり、代表から外された腹いせに相手のチームを公然と応援したり、ペレや大統領をも巻き込んだ移籍劇を演じるなど枚挙にいとまがない。
- 『10番の夜』ではMCという肩書きだが、アニメ、美人女優を招いてのプチメロドラマ、ダンス、エルナン・クレスポらを招いて行ったゲームでは強引に判定を覆すなど、やりたい放題である。
- 地元にはマラドーナ教という宗教まである。
[編集] 語録
- 「俺がしたドーピングは努力だけだ」(1994年W杯ドーピング疑惑の渦中で)
- 「俺は多くの過ちを犯したが、サッカーボールは汚れない(サッカーのせいではないという意)」(引退会見にて)
- 「歩く時は使うよ」(「君は左足ばかり使うけど、右足は使わないのかい?」と聞かれ)
- 「ペレは天才だが、マラドーナは神だ」
- 「もし天国にもサッカーがあって、そこでプレイできるなら嬉しいね。ただ、ペレにはいて欲しくないね」
- 「ペレの母ちゃんに訊いたらペレの方が上だというだろうし、俺の母ちゃんは俺だと答えるよ」(ペレとアルゼンチンのTV番組に共演したとき、司会者に「あなたとペレ、どちらが巧いと思うか?」と訊かれ)
- 「私はサッカーボールのように太っている」(引退後に体重が激増して)
- 「飛んだ瞬間、目の前が真っ白になって神が僕に手を差し伸べた。あれは神の手によるゴールだ」
- 「あの5人抜きはイングランドの選手がフェアだったからこそやれた」
- 「とにかくボールを預けてくれるだけでいい、あとは俺がなんとかするから」
- 「母国の監督をやりたい。給料なんかいらないし、今すぐでも構わない」
- 「本当のプレッシャーはゴール前やピッチにはない。いつ貧困に陥るのかという不安、そしてアルゼンチン代表としてのプレッシャー、それだけだ」
[編集] 所属クラブ
選手
- 1974年-1980年 アルヘンティノス・ジュニアーズ(アルゼンチン) 166試合 116得点
- 1981年-1982年 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン) 40試合 28得点
- 1982年-1984年 FCバルセロナ(スペイン) 58試合 38得点
- 1984年-1991年 SSCナポリ(イタリア) 259試合 115得点
- 1992年-1993年 セビージャFC(スペイン) 29試合 7得点
- 1993年 ニューウェルズ・オールドボーイズ(アルゼンチン) 7試合 0得点
- 1995年-1996年 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン) 31試合 7得点
監督
- 1994年 マンディーユ・デ・コリエンテス(アルゼンチン)
- 1995年 ラシン・クラブ(アルゼンチン)
[編集] 獲得タイトル
[編集] 代表
- FIFA ワールドカップ 1回(1986)
- FIFA ワールドユース 1回(1979)
[編集] クラブ
ボカ・ジュニアーズ
- アルゼンチンリーグ 1回(1982)
FCバルセロナ
- スペイン国王杯 1回(1983)
SSCナポリ
[編集] 個人
- 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌) 1回 (1986)
- 南米年間最優秀選手(エル・ムンド紙) 6回 (1979, 1980, 1986, 1989, 1990, 1992)
- FIFA ワールドカップ ゴールデンボール賞 1回(1986)
- FIFA ワールドユース ゴールデンボール賞 1回(1979)
- アルゼンチンリーグ得点王 3回(1979,80,81)
- セリエA 得点王 1回(1987-88)
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1976 | アルヘンティノス | 16 | プリメーラ | 11 | 2 | - | - | 11 | 2 | ||
1977 | アルヘンティノス | プリメーラ | 49 | 19 | - | - | 49 | 19 | |||
1978 | アルヘンティノス | プリメーラ | 35 | 25 | - | - | 35 | 25 | |||
1979 | アルヘンティノス | プリメーラ | 27 | 26 | - | - | 27 | 26 | |||
1980 | アルヘンティノス | プリメーラ | 45 | 43 | - | - | 45 | 43 | |||
1981 | ボカ | 10 | プリメーラ | 40 | 28 | - | - | 40 | 28 | ||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1982-83 | バルセロナ | 10 | プリメーラ | 20 | 11 | 5 | 3 | 4 | 5 | 29 | 19 |
1983-84 | バルセロナ | 10 | プリメーラ | 16 | 11 | 4 | 1 | 3 | 3 | 23 | 15 |
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1984-85 | ナポリ | 10 | セリエA | 30 | 14 | 6 | 3 | - | 36 | 17 | |
1985-86 | ナポリ | 10 | セリエA | 29 | 11 | 2 | 2 | - | 31 | 13 | |
1986-87 | ナポリ | 10 | セリエA | 29 | 10 | 10 | 7 | 2 | 0 | 41 | 17 |
1987-88 | ナポリ | 10 | セリエA | 28 | 15 | 9 | 6 | 2 | 0 | 39 | 21 |
1988-89 | ナポリ | 10 | セリエA | 26 | 9 | 21 | 7 | 12 | 3 | 50 | 19 |
1989-90 | ナポリ | 10 | セリエA | 28 | 16 | 3 | 2 | 5 | 0 | 36 | 18 |
1990-91 | ナポリ | 10 | セリエA | 18 | 6 | 3 | 2 | 4 | 2 | 25 | 10 |
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1992-93 | セビージャ | 10 | プリメーラ | 26 | 5 | 3 | 3 | - | 29 | 7 | |
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1993-94 | ニューウェルズ | 10 | プリメーラ | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||
1995-96 | ボカ | 10 | プリメーラ | 11 | 3 | - | - | 11 | 3 | ||
1996-97 | ボカ | 10 | プリメーラ | 13 | 2 | - | - | 13 | 2 | ||
1997-98 | ボカ | 10 | プリメーラ | 6 | 2 | - | - | 6 | 2 | ||
通算 | アルゼンチン | プリメーラ | 240 | 150 | - | - | 240 | 150 | |||
スペイン | プリメーラ | 62 | 27 | 12 | 7 | 7 | 8 | 81 | 42 | ||
イタリア | セリエA | 188 | 81 | 54 | 29 | 25 | 5 | 267 | 115 | ||
総通算 | 490 | 258 | 66 | 36 | 32 | 13 | 588 | 307 |
[編集] 外部リンク
先代: マリオ・ケンペス |
南米年間最優秀選手 1979, 1980 |
次代: ジーコ |
アルゼンチン代表 - 1982 FIFAワールドカップ | |
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1 アルディレス | 2 バレイ | 3 バルバス | 4 ベルトーニ | 5 カルデロン | 6 ディアス | 7 フィジョール | 8 L,ガルバン | 9 ガジェゴ | 10 マラドーナ | 11 ケンペス | 12 エルナンデス | 13 オラルティコエチェア | 14 オルギン | 15 パサレラ | 16 プンピード | 17 サンタマリア | 18 タランティーニ | 19 トロセーロ | 20 バルダーノ | 21 バレンシア | 22 ビジャ | 監督 メノッティ |
アルゼンチン代表 - 1986 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (2度目) | |
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1 アルミロン | 2 バティスタ | 3 ボチーニ | 4 ボルギ | 5 ブラウン | 6 パサレラ | 7 ブルチャガ | 8 クラウセン | 9 クチューフォ | 10 マラドーナ | 11 バルダーノ | 12 エンリケ | 13 ガッレ | 14 ジュスティ | 15 イスラス | 16 オラルティコエチェア | 17 パスクリ | 18 プンピード | 19 ルジェリ | 20 タピア | 21 トロッビアーニ | 22 セラダ | 監督 ビラルド |
アルゼンチン代表 - 1990 FIFAワールドカップ(準優勝) | |
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1 プンピード (コミッソ) | 2 バティスタ | 3 バルボ | 4 バスアルド | 5 バウサ | 6 カルデロン | 7 ブルチャガ | 8 カニーヒア | 9 デゾッティ | 10 マラドーナ | 11 ファブリ | 12 ゴイコチェア | 13 ロレンソ | 14 ジュスティ | 15 モンソン | 16 オラルティコエチェア | 17 センシーニ | 18 セリスエラ | 19 ルジェリ | 20 シモン | 21 トログリオ | 22 カンセラリッチ | 監督 ビラルド |
アルゼンチン代表 - 1994 FIFAワールドカップ | |
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1 ゴイコチェア | 2 バスケス | 3 チャモ | 4 センシーニ | 5 レドンド | 6 ルジェリ | 7 カニーヒア | 8 バスアルド | 9 バティストゥータ | 10 マラドーナ | 11 メディナベージョ | 12 イスラス | 13 カセレス | 14 シメオネ | 15 ボレリ | 16 ディアス | 17 オルテガ | 18 ペレス | 19 バルボ | 20 L.ロドリゲス | 21 マンクーソ | 22 スコポーニ | 監督 バシーレ |