カルロス・ビラルド
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カルロス・ビラルド | ||
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名前 | ||
本名 | カルロス・サルバドール・ビラルド | |
カタカナ | カルロス・ビラルド | |
ラテン文字 | Carlos Salvador Bilardo | |
基本情報 | ||
国籍 | アルゼンチン | |
生年月日 | 1939年3月16日(69歳) | |
出身地 | ブエノスアイレス | |
身長 | 174cm | |
体重 | 71kg | |
選手情報 | ||
ポジション | MF
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カルロス・ビラルド(Carlos Salvador Bilardo、1939年3月16日 - )はアルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー監督、全盛期のディエゴ・マラドーナを擁したアルゼンチン代表を率いて1986年のメキシコW杯で優勝に導いた人物である。
目次 |
[編集] 人物
守備的サッカーの信奉者、結果を重視しあくまでも徹底的に勝利に拘る。これは選手時代、エストゥディアンテス在籍時の監督オズワルド・スベルディアの影響を受けているという。 アルゼンチン監督就任時は守備的なサッカーを選択した事で批判を浴び、前任のセサル・ルイス・メノッティを待望する意見も出たがメキシコW杯で優勝した事でこれを退けている。監督退任後の現在もアルゼンチン代表監督への復帰話が度々聞かれるが実現には至っていない。 また医師の資格を持つことでも知られる。
[編集] 略歴
[編集] 選手時代
1939年3月16日イタリア・シシリア島出身のイタリア系移民の子供として生まれた。医学生であったが同時サッカー選手としての才能にも恵まれ、その道も同時に歩む事になった。主に守備的MFとしてプレーをしていたがエストゥディアンテス在籍時に監督のオズワルド・スベルディアの教えを受け相手のエースを徹底的にマークするエース殺しの役目を任せられた。 これが功を奏し1968年から1970年のリベルタドーレス杯三連覇、1968年のインターコンチネンタルカップ制覇の結果を生み出すが、特にインターコンチネンタルカップのマンチェスター・ユナイテッド戦は荒れた試合となり後に欧州代表が同大会への参加を拒否し、大会の存続が危ぶまれる事態へと発展した。 並行して進めていた医学部生を無事卒業した事で選手生活に区切りを付け1970年に現役を引退した。
[編集] 監督時代
1971年からエストゥディアンテスの監督に就任、複数のクラブを渡り歩いた後、1983年にアルゼンチン代表の監督に就任した。1985年のメキシコW杯南米予選では苦戦を強いられ、翌年3月の敵地でのフランスとの親善試合では主力選手を欠く相手に0-2で完敗、ディエゴ・マラドーナも古傷の爆弾を抱えるなど不安視されたが、本大会に入るとそれまでの不調が嘘の様に上手く事が運んだ。従来の4バックによるラインディフェンスを棄て、2人のストッパーの後ろにスイーパーを配した3バックを採用した事が守備的だとは言われながらも、絶好調のマラドーナをサポートする様にホルヘ・バルダーノやホルヘ・ブルチャガ、或いは両ウイングバックの選手が攻守に絡み合い見事に優勝に導いた。サポーターは「Perdon Bilardo Gracias」と謝罪の意を込めた横断幕を掲げたという。
1990年のイタリアW杯は世代交代の失敗やマラドーナの怪我による不調(それでもパサーとしては相手に充分過ぎる程の脅威を与えた)で開幕戦カメルーンとの試合を0-1で落とすなど危機に直面したが、そこからビラルドの守備的サッカーが威力を発揮した。3バック、2人のボランチ、両ウイングバックが自陣をしっかりと固め、巧妙な守備と退場覚悟のラフプレーで相手を消耗戦に引きずり込み疲弊させ、その隙をマラドーナとクラウディオ・カニージャのコンビに賭ける。特に決勝トーナメント一回戦のブラジル戦や準決勝のイタリア戦はこの戦法がものの見事に嵌り優勝候補と目された相手を下す大番狂わせを演じたが、肝心の決勝の西ドイツ戦は主力選手をカードの累積で欠くという附けが回って飛車角を欠いた状態となり、マラドーナの孤軍奮闘も虚しく0-1で敗れ去った。
ビラルドは2大会連続決勝進出の快挙を成し遂げたものの彼の守備的なサッカーは非難を浴び、現在に於いてもイタリアW杯は守備的で退屈な大会という悪いイメージを与え続ける一つの要因となってしまっている。
[編集] 現在
その後はセビージャFCなどのクラブの監督を務めるなど現役の指導者として活躍している。なお彼のアルゼンチン代表監督時代の選手は指導者の道へ進んだ者も多く、ネリ・プンピード、セルヒオ・バティスタ、ホルヘ・ブルチャガ達は彼の影響を受けているといわれる。また2006年のドイツW杯ではアルゼンチンの放送局Canal 13の解説者を務めている。
[編集] 所属
[編集] 選手歴
- 1958年-1960年 サンロレンソ(アルゼンチン)
- 1961年-1965年 デポルティボ・エスパニョール(アルゼンチン)
- 1965年-1970年 エストゥディアンテス(アルゼンチン)
[編集] 指導歴
- 1971年-1975年 エストゥディアンテス(アルゼンチン)
- 1976年-1978年 デポルティボ・カリ(コロンビア)
- 1978年-1979年 サンロレンソ(アルゼンチン)
- 1979年-1981年 コロンビア代表
- 1982年-1983年 エストゥディアンテス(アルゼンチン)
- 1983年-1990年 アルゼンチン代表
- 1992年-1993年 セビージャFC(スペイン)
- 1996年 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)
- 1999年-2000年 リビア代表
- 2003年-2004年 エストゥディアンテス(アルゼンチン)
[編集] タイトル
[編集] 選手
- インターコンチネンタルカップ 1回(1968)
- コパ・リベルタドーレス 3回(1968,1969,1970)
- コパ・インテルアメリカーナ 1回(1969)
- アルゼンチン・リーグ 1回(1959)
- メトロポリタン・リーグ 1回(1967)
[編集] 指導者
- FIFAワールドカップ 1回(1986)
- メトロポリタン・リーグ 1回(1982)
[編集] 個人
- 南米年間最優秀監督賞 2回(1986,1987)
アルゼンチン代表 - 1986 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (2度目) | |
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1 アルミロン | 2 バティスタ | 3 ボチーニ | 4 ボルギ | 5 ブラウン | 6 パサレラ | 7 ブルチャガ | 8 クラウセン | 9 クチューフォ | 10 マラドーナ | 11 バルダーノ | 12 エンリケ | 13 ガッレ | 14 ジュスティ | 15 イスラス | 16 オラルティコエチェア | 17 パスクリ | 18 プンピード | 19 ルジェリ | 20 タピア | 21 トロッビアーニ | 22 セラダ | 監督 ビラルド |
アルゼンチン代表 - 1990 FIFAワールドカップ(準優勝) | |
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1 プンピード (コミッソ) | 2 バティスタ | 3 バルボ | 4 バスアルド | 5 バウサ | 6 カルデロン | 7 ブルチャガ | 8 カニーヒア | 9 デゾッティ | 10 マラドーナ | 11 ファブリ | 12 ゴイコチェア | 13 ロレンソ | 14 ジュスティ | 15 モンソン | 16 オラルティコエチェア | 17 センシーニ | 18 セリスエラ | 19 ルジェリ | 20 シモン | 21 トログリオ | 22 カンセラリッチ | 監督 ビラルド |