パラグアイ
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- パラグアイ共和国
- República del Paraguay(スペイン語)
Tetã Paraguái(グアラニー語) -
(国旗) (国章) - 国の標語 : Paz y justicia
(スペイン語: 平和と正義) - 国歌 : パラグアイ人達よ、共和国か死か
-
公用語 スペイン語、グアラニー語 首都 アスンシオン 最大の都市 アスンシオン 独立 スペインから
1811年5月15日通貨 グアラニー(PYG) 時間帯 UTC -4(DST: なし) ccTLD PY 国際電話番号 595
パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。
パラグアイは国旗のデザインが表と裏とで異なる世界唯一の国である(パラグアイの国旗を参照)。
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[編集] 国名
正式名称はスペイン語でRepública del Paraguay(レプーブリカ・デル・パラグアイ)である。通称はParaguay。グアラニー語表記はTetã Paraguái(テタ・パラグアイ)である。通称は、Paraguái。
公式の英語表記は、Republic of Paraguay(リパブリック・オブ・パラグアイ)。
日本語の表記は、パラグアイ共和国。同国の在日大使館の正式呼称はパラグァイ。日本では通常パラグアイ、パラグワイなどと表記され、漢字では巴拉圭、または巴羅貝となる。
パラグアイ(Paraguay)とは元々グアラニー語で「大きな川から」を意味したとの説が強い。大きな川とはパラナ川のことである。その他にも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。
[編集] 歴史
詳細はパラグアイの歴史を参照
[編集] 前コロンビア期
元々この地にはグアラニー族をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸部族が住んでいたが、タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多く人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、16世紀初頭以降、この地にもセバスティアン・カボットをはじめとするヨーロッパ人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。
[編集] スペインとの混血と布教
1537年にブエン・アイレからの探検隊により、アスンシオンが建設されるとスペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。 チャルーア族のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー族は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していた他のインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたので両者の間に交流が生まれ、混血者(メスティーソ)も発生していった。
1617年、アスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残るイエズス会布教所跡はこの時に建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチと呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後も他の地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。
1750年代以降は、グアラニー戦争により、 バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー族が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人達はスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。
1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイは余り大きな発展もしないまま月日が流れていった。
[編集] 独立とカウディージョの専制統治
1810年5月25日、ブエノスアイレスにてポルテーニョが五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどと共にブエノスアイレス主導の独立を認めず、1811年に共和国として、ラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、1814年にホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアが執政官に就任し、1816年には終身執政官の職に就いた。
農民の支持を基盤にしたフランシアの長期独裁体制下で政治的、経済的鎖国と土地の公有地化が進み、またクリオージョの反乱を恐れたフランシアはグアラニー族とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー族との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命して行ったが、この時期にパラグアイを除いては、チリ以外のラテンアメリカ諸国が内戦を続けるのとは対照的に政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残す程だった。対外政策も成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の解放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取り掛かった。
前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、保護貿易によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、1861年にはアスンシオンに鉄道が開通した。イギリスからの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイはラテンアメリカで唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からはアルゼンチン、ブラジルからの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、ウルグアイの大戦争中に、ラ・プラタ川の封鎖を巡ってリトラル三州の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米で最も強大な軍隊を組織した。
[編集] 三国同盟戦争
1862年にカルロス・ロペスが死に、長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが後を継いで大統領になると、1864年にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となった三国同盟戦争が始まるのである。 しかし、ここでロペスは大きな失敗を犯してしまった。連邦党のフスト・ホセ・デ・ウルキーサらの協力を得ることが出来ず、アルゼンチンとウルグアイを味方につけることに失敗してしまったのだ。
そしてさらに、かねてからパラグアイの発展を好ましく思っていなかった イギリス資本の支援を受け、 ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが三国同盟を結ぶと、同盟軍はパラグアイに侵攻した。三方から攻められたパラグアイ軍は女・子供に至るまで勇敢に戦い、アメリカ合衆国の公使がその勇気と愛国心を褒め称えたほどであった。途中でアルゼンチン北西部でロペスに共感したカウディージョ、フェリペ・バレーラが反乱を起こすと、その鎮圧のためにアルゼンチン軍が離脱し、同国でバルトロメ・ミトレが大統領を辞任したことによって、付き合いで参戦していたウルグアイ軍が離脱するという事態も起きたが、それでも歴史はパラグアイに味方しなかった。ブラジル軍は追撃を重ね、1870年3月、パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北を持ってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万km² を割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減ってしまった。成人男子に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。そしてさらに敗戦と共にイギリスから借款が押し付けられ、パラグアイが誇った公有地を中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でも他のラテンアメリカ諸国と同じように大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立の内の全てを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。
[編集] 停滞とチャコ戦争
アルゼンチンとブラジル、特に経済的には前者の、政治的には後者の衛星国として再スタートしたパラグアイだったが、戦争の代償はあまりにも大きかった。1879年にはアルゼンチン軍が撤退し、1880年代には自由党とコロラド党が設立されたが、不正選挙が横行し民主主義からは程遠い段階にあった。軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタリアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べると遥かに少なかった。その後20世紀に入ると、自由党政権の下で多少なりとも改革が行われたが、政情は未だに不安定なまま、次第にグラン・チャコを巡るボリビアとの対立は大きくなっていった。
1932年、グラン・チャコ地方を巡ってボリビアがパラグアイに宣戦布告し、チャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらもなんとかこの戦いに勝利し、1938年のブエノスイアレス講和条約では植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得したが、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後社会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。また、こうして生まれた政権はナショナリズムを称揚し、1936年にパラグアイ共産党などと結んで大統領になっていたチャコ戦争の英雄ラファエル・フランコ大佐によってフランシスコ・ソラーノ・ロペスの完全な名誉回復がなされた。しかし、フランコの急進的過ぎる改革は寡頭支配層に嫌われ、1937年には一年足らずで追放されてしまった。
[編集] 1947年の内戦
フランコの後はチャコ戦争の英雄エスティガリビア将軍が後を継ぎ、1940年にエスティガリビアが事故死するとイヒニオ・モリニゴ将軍は第二次世界大戦を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、遂には1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの(パラグアイ内戦)、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。その後大統領になったフェデリコ・チャベスが政権を握り混乱を収めたが、フアン・ペロンの影響を受けた経済政策への批判に対応を誤り、軍部からのクーデターでチャベスは追放された。
[編集] ストロエスネル時代
1954年にブラジル軍の後押しを受けたクーデターによりチャベスは追放され、アルフレド・ストロエスネル政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。軍とコロラド党を掌握して長期政権を可能にしたストロエスネルは、治安を回復し、経済も成長したもの、一方で少数民族となっていたインディヘナの虐殺、反政府運動の弾圧などを重ね、一時はアメリカ合衆国からも経済制裁を受けた。ストロエスネルの時代に独裁体制は完成したが、1989年2月、突如としてストロエスネルの腹心だったロドリゲス将軍が決起し、チリ以外の周辺国の民政移管が完了した後も権力を握っていたストロエスネルが市街戦を終えた後失脚し、ブラジルに追放された。こうして35年に及んだラテンアメリカでも稀に見る長期独裁は終わった。
[編集] 民政移管以降
ロドリゲス将軍が臨時大統領になると、ロドリゲス将軍はそれまでの路線を改めて民主化政策をとった。こうして1993年5月にはフアン・カルロス・ワスモシ (Juan Carlos Wasmosy) が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義の前途は多難だった。
1996年4月、軍の政治力を削ぐために、大統領は軍の実力者で軍部の政治介入を公言して憚らないリノ・オビエド (Lino Oviedo) を解任し、6月にはオビエドが逮捕されたが、1998年8月にはオビエド派であるラウル・クーバス (Raul Cubas) 大統領が就任し、同月大統領権限でオビエドを釈放した。 釈放されたオビエドは暗躍を重ね、1999年3月、ルイス・マリア・アルガーニャ (Luis Maria Argaña) 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生し、オビエド、クバス大統領が亡命した。この後を受けて同月、ルイス・ゴンサレス・マキ (Luis Gonzalez Macchi) 大統領が就任するも、2000年5月にはまたもクーデター未遂事件が発生した。その後2003年4月にニカノル・ドゥアルテ・フルートス (Nicanor Duarte Frutos) 大統領が就任した。
2008年4月に大統領選挙が行われ、野党連合「変革のための愛国同盟」(APC)の進歩派フェルナンド・ルゴが、与党コロラド党のブランカ・オラベル、元陸軍司令官リノ・オビエドを破り、当選した。開票率92%の段階で、ルゴ40.83%、オベラル30.71%、オビエド21.98%。ルゴの選挙母体APCは、中道右派の自民党と左派連合が同盟を結んでいる。1947年から軍政時代も含めて61年間続いたコロラド党の支配は終わった。
[編集] 政治
詳細はパラグアイの政治を参照
国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や罷免により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、大統領が閣議を主宰する。
議会は、両院制。上院は全45議席を全国区で選出、代議院(下院)は全80議席を県単位の18選挙区に分けて選出する。両院とも議員の任期は5年で、大統領選挙と同日選挙される。前回投票は、2003年4月27日に行われ、政党別の獲得議席数は、以下の通り。
- 上院
- 代議院(下院)
- 国民共和協会(通称、コロラド党) 37
- 真正急進自由党 (PLRA) 21
- Movimiento Union Nacional de Colorados Eticos (UNACE) 10
- Movimiento Patria Querida (MPQ) 10
- Partido Pais Solidario (PPS) 2
伝統的に、パラグアイの国政史上殆ど期間が、かつてシモン・ボリーバルが語ったように独裁か無政府状態のどちらかの状態であったが、ストロエスネルの失脚以降は多少風向きも変わってきているようである。しかし、それでも依然として軍の政治力は強く、問題になっている。
[編集] 国際関係
メルコスール加盟国の一カ国で、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどの近隣諸国と友好関係を維持している。
20世紀前半には背後にイギリス資本を抱えたアルゼンチンの、20世紀後半からは背後にアメリカ資本を抱えたブラジルの影響を強く受けてきた。なお、ストロエスネル時代の反共政策が今も続き、南米で唯一、中国共産党の一党独裁国である中華人民共和国と対立する議会制民主主義国である、中華民国と国交を有しているが、次期大統領は、経済面から中華人民共和国との国交樹立を検討している。
2005年5月から、グランチャコのマリスカル・エスティガリビアにアメリカ空軍が駐留しており、これはボリビアのサンタクルス県の自治運動にアメリカ合衆国が介入するためだとみなされているため、この駐留アメリカ軍の存在は近隣諸国との間での外交問題となっている、
[編集] 日本との関係
1937年に日系人が初めて入植して以来、日系人の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続き、日本は非常に高い評価を受けている。日本人・日系人約7000人が住んでおり2007年には移住70周年記念祭典を行い祝った。
[編集] 地方行政区分
詳細はパラグアイの県を参照
パラグアイの地方行政は、首都と17の県(departomentos)とに区分される。括弧内は県庁所在地。
- アルト・パラグアイ県 Alto Paraguay (フエルテ・オリンポ)
- アルト・パラナ県 Alto Paraná (シウダー・デル・エステ)この他プレシデンテ・フランコ市
- アマンバイ県 Amambay(ペドロ・フアン・カバジェーロ)この他カピタン・バド市
- アスンシオン首都圏 Departamento de Asunción (アスンシオン)
- ボケロン県 Boquerón (フィラデルフィア)
- カアグアス県 Caaguazú (コロネル・オビエド)
- カアサパ県 Caazapá (カアサパ)
- カニンデジュ県 Canindeyú(サルト・デル・グアイラ)
- セントラル県 Central(アレグア)
- コンセプシオン県 Concepción (コンセプシオン)
- コルディリェラ県 Cordillera(カアクーペ)
- グァイラ県 Guairá(ビジャリカ)
- イタプア県 Itapúa (エンカルナシオン)
- ミシオネス県 Misiones(サン・フアン・バウティスタ)
- ニェエンブク県 Ñeembucú (ピラル)
- パラグアリ県 Paraguarí(パラグアリ)
- プレシデンテ・アジェス県 Presidente Hayes(ポソ・コロラド)
- サン・ペドロ県 San Pedro(サン・ペドロ・デ・ウクァマンディジュ)
[編集] 地理
詳細はパラグアイの地理を参照
パラグアイはパラグアイ川によって、東西に東パラグアイ (Paraguay Oriental) と西パラグアイ (Occidental Paraguay) またはチャコと呼ばれる地域に分かれる。東部は森林と、芝生で覆われた肥沃な大地からなり、西部は乾燥した低地や沼地からなる。
南西はパラナ川が国境線となり、この川でブラジルとイタイプー・ダムを共有している。このダムは現在のところ水力発電をする世界最大のダムであり、パラグアイの電力需要のほぼ全てを賄っている。また、ジャスレタ・ダムがもう一つパラナ川にあり、こちらはアルゼンチンと共有している。パラグアイは現在のところ世界で最も多く電力を輸出している国である。
ケッペンの気候区分によると気候は亜熱帯から温帯となり、東部の降水量は多いが、極西部は殆ど雨が降らないこともある。
都市人口率:50.3%(2000年度)
[編集] 河川
[編集] 経済
詳細はパラグアイの経済を参照
パラグアイは内陸国でありながらもパラグアイ川を通して大西洋に出ることが出来るが、それでも貿易の大部分を隣国ブラジルとアルゼンチンとの交易に頼っている。
エネルギー : 水力発電99.9%(2002年時点) - イタイプー・ダム(ブラジルとの共同開発)、ジャスレタ・ダム(アルゼンチンとの共同開発)
[編集] 社会問題
パラグアイは経済的に不平等で貧しい国家であり、1/3から半分の国民が貧困に喘いでいると見積もられているのが現状である。農村部では41.2%が、都市部では27.6%が最低限の基本的なニーズを満たすための収入を得ることが出来ない。上位10%の人間が国富の43%を牛耳るが、下位10%の人間はわずかに0.5%にすぎない。景気の後退はこうした状況をさらに悪化させ、1995年に0.56だったジニ係数は1999年には0.66に上昇した。10%の人口が国土の66%を所有し、その一方地方の人口の30%は土地を持っていない。この不平等さはエリートと土地なし農民の間に強い緊張状態をもたらしている。隣国のブラジルやアルゼンチンへ出稼ぎに行く人も少なくない。
[編集] 農業
メルコスール加盟国の一カ国である。パラグアイの産業で最も重要な働きをしているのは農業であり、パラグアイは世界でも三番目の大豆輸出国である。輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。近年は甘味料や健康食品、化粧品の原料としてしられるステビア生産にも力を入れている。
[編集] 鉱業
パラグアイの鉱業はまったく未開発の状態にある。長年にわたり、ごく小規模な鉄鉱床を除けばパラグアイには鉱物資源がほとんど存在しないと考えられてきた。鉄鉱石の採掘は古くは三国同盟戦争以前から続いていたが、1990年に至っても鉱業セクターはパラグアイのGDPのわずか0.5%を占めるに過ぎない。状況が変わったのは1990年代に入ってからである。南西部のエンカルナシオンで埋蔵量3億トンに達する鉄鉱床が見つかったからだ。しかしながら品位が35%と低いため、パラグアイの鉱業を活性化するには至っていない。
近年、チャコ地方での油田の開発計画が浮かび上がっている。
[編集] 軍事
詳細はパラグアイの軍事を参照
パラグアイ大統領はパラグアイ軍の最高司令官を兼任する。兵員は約20,000人。徴兵制(15~49歳)が敷かれており、国民は兵役の義務を有している。
西部グランチャコのマリスカル・エスティガリビアにアメリカ空軍の基地が存在する。
国防予算(2000年):8300万ドル(一人頭15ドル)
[編集] 陸軍
兵員は15,000人。国内の治安維持や災害救助などの任務が多い。
[編集] 海軍
兵員は3,600人。海軍は国境の川の防備が任務である。つまりは水軍や河川警備隊といったところであるが、スペイン語のArmadaは艦隊や水軍という意味も持つので、そもそも海軍という訳が誤訳であるとする意見もある。
[編集] 空軍
兵員は1,700人。規模、稼動機共に多くない。
[編集] 国民
詳細はパラグアイの国民を参照
パラグアイ国民の90%以上が、日本人と同じモンゴロイド系であるグアラニー族などのインディヘナの血が強い、スペイン人との間の混血(メスティーソ)である。
これは、征服当初この地に住んでいたグアラニー族が、やってきたスペイン人と同盟して他のインディヘナを打ち破る過程で両者が積極的に混血を受け入れたこと、その後やってきたイエズス会の伝道師がグアラニー族を教化する過程でグアラニー文化が伝承、保存されたこと、イエズス会が追放された後もパラグアイでは都市が育たず、他のラテンアメリカ植民地と比較してクリオージョ支配層があまり強力な存在にならなかったこと、1811年にブエノスアイレス主導の独立を拒否し独自の国家として独立した後は、パラグアイの初代国家元首フランシア博士が政策的に異人種間の通婚を推奨・強制し、その際に抵抗勢力になりそうなクリオージョはほとんど追放してしまったためである。そのため現在のパラグアイ人は「グアラニー」の血を引くことを誇りに思っていて、小柄でアジア的な風貌の人も少なくない。移民としてはドイツ人、イタリア人、スペイン人、日本人、韓国人、中国人、アラブ人などがいるが、社会に及ぼす影響としてはブラジル人とアルゼンチン人の二集団の存在が最も大きい。
[編集] 人口
三国同盟戦争直前に約52万人と推定されているパラグアイの人口は、戦争終結後約21万人にまで減少した。その後1946年推計で約122万人、1962年センサスで1,851,890人、1972年センサスで2,357,955人、1983年年央推計で約347万人となった。
- 出生率:31.3‰(1995年度から2000年度)
- 死亡率:5.4‰
- 人口増加率:2.3% (projected 1999-2015, UNDP)
[編集] 言語
スペイン語、グアラニー語が公用語であり、94%の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も75%の国民によって話される。
[編集] 宗教
宗教はローマカトリック90%だが、メノニータ、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)なども存在する。宗教選択は自由である。
[編集] 文化
詳細はパラグアイの文化を参照
スペイン人の父とグアラニー人の母を祖先に持つものが現在のパラグアイ国民の大多数であり、それゆえパラグアイの文化はこの二つの文化と伝統を根に持つ。このことは現在のパラグアイ人の80%以上が両言語のバイリンガルであることを考えれば容易に理解できるであろう。
[編集] 食文化
パラグアイ人にも近隣諸国の国民と同様にマテ茶を飲む習慣があるが、パラグアイ人は好んでテレレを飲む。これは肉食のパラグアイ人は血圧を下げるためや、ビタミンの補給、発汗作用の為に飲んでいる。マテ茶はグアラニー族から受け継がれてきた飲み物であるが、テレレそのものはチャコ戦争のころに生まれたようである。 またマンジョーカと呼ばれるイモや、マンジョーカを原料にしたチパというパンを食べる習慣がある。
[編集] 音楽
グアラニアと呼ばれるアルパを使ったフォルクローレが盛んであり、他のラテン音楽に良くあるようなアフリカ的な要素は余り感じられない、哀愁を帯びた曲調が特徴的である。著名な音楽家としてはフェリックス・ペレス・カルドーソやアパリシオ・ゴンサレスが有名である。日本でもルシア塩満、上松美香などがプロのアルパ奏者として活躍している
[編集] 文学
アウグスト・ロア・バストスはセルバンテス賞を受賞した作家として有名である。ロア・バストスの『汝、人の子よ』は日本語訳も出ている。
[編集] スポーツ
アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイといった強国が周囲にあることから予想できるように、やはりパラグアイでもサッカーは国民的スポーツとなっており、パラグアイ代表はやはりグアラニー族にちなんでグアラニーと呼ばれている。
主なプロクラブとしてはオリンピア・アスンシオン、セロ・ポルテーニョ、クラブ・グアラニーなどが有名である。
[編集] 世界遺産
パラグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産として、1993年に登録されたラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群がある。2007年現在では国内唯一の世界遺産である。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
3月1日 | 英雄の日 | Día de los Héroes | |
[移動祝日] | 聖木曜日 | Jueves Santo | 2008年は 3月20日(木) |
[移動祝日] | 聖金曜日 | Viernes Santo | 2008年は 3月21日(金) |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajador | |
5月15日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | |
6月12日 | チャコ休戦の日 | Dia de la Paz del Chaco | |
8月15日 | アスンシオン建設の日 | Fundación de Asunción | |
9月29日 | ボケロン戦勝記念日 | Día de la batalla de Boquerón | |
12月8日 | カアクーペの聖母 | Virgen de Caacupe | |
12月25日 | クリスマス | Navidad |
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 文献目録
[編集] 参考文献
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社、1985年
- 増田義郎(編)『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史Ⅱ』山川出版社、2000年 ISBN 4-463-41560-7
- 下中彌三郎(編)『世界文化地理体系24 ラテンアメリカ』平凡社、1954年
- 福井英一郎(編)『世界地理15 ラテンアメリカⅡ』朝倉書店、1978年 ISBN 4-254-16545-5 C3325
- P.E.ジェームズ(著)、山本正三、菅野峰明(訳)『ラテンアメリカⅡ』二宮書店、1979年
- 野沢敬(編)『朝日百科 世界の地理12 ラテンアメリカ』朝日新聞社、1986年 ISBN 4-02-380006-6 C6325
- エドゥアルド・ガレアーノ(著)、大久保 光夫(訳)『ラテンアメリカ五百年 収奪された大地』新評論、1986年
- 田中裕一『南米のパラダイス・パラグアイに住む』アゴスト未来選書 1999年 ISBN 4901054201
- 佐々木直『新天地パラグアイに生かされて』金光教徒社 2007年 ISBN 978-4-9069088-20-1
- 船越 博『パラグアイのサバイバル・ゲーム』創土社 2007年 ISBN 4789300552
- 『世界の食文化 13 中南米』農山漁村文化協会2007年 ISBN 978-4-540-07001-3
[編集] 外部リンク
- 政府
- パラグアイ共和国大統領府 (スペイン語)
- 在日パラグアイ大使館 (日本語)
- 日系機関
- 邦字新聞
- 旅行
- パラグアイ - ウィキトラベル
- パラグアイ政府観光局 (スペイン語)(英語)
- その他
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地域 | アメリカ合衆国:米領ヴァージン諸島 - プエルトリコ | イギリス:アンギラ - 英領ヴァージン諸島 - ケイマン諸島 - タークス・カイコス諸島 - バミューダ諸島 - フォークランド諸島 - モントセラト | オランダ:アルバ - 蘭領アンティル | デンマーク:グリーンランド | フランス:グアドループ - サン・バルテルミー島 - サン・マルタン島 - サンピエール島・ミクロン島 - 仏領ギアナ - マルティニーク |
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