コロンビア
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- コロンビア共和国
- República de Colombia
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(国旗) (国章) - 国の標語 : Libertad y Orden
(スペイン語: 自由と秩序) - 国歌 : コロンビアの国歌(ああ、不滅の栄光よ!)
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公用語 スペイン語 首都 ボゴタ 最大の都市 ボゴタ 独立
- 宣言
- 認可スペインから
1810年7月20日
1819年8月7日通貨 コロンビアペソ (COL$)(COP) 時間帯 UTC -5(DST: なし) ccTLD CO 国際電話番号 57
コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。首都はボゴタ。
ブラジル、メキシコに続き、コロンビアはラテンアメリカ第3位の人口を誇る。コーヒー、エメラルド、バラそしてコカインの産地としても有名である。コロンビア内戦以前は国民の知的レベルの高さと治安の悪さの二律背反した様子を表して、「ソクラテスと切り裂きジャックの国」と呼ばれた。現在は左翼ゲリラ、極右民兵、麻薬組織による低烈度紛争に苦しめられている。内戦は1964年から1966年にかけてゲリラの蜂起から始まり、現在も特に抵抗が大きいのはコロンビア革命軍である。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、República de Colombia. 通称Colombia。
公式の英語表記は、Republic of Colombia. 通称Colombia。英語のColumbiaとは綴りが違うので注意されたい。
日本語の表記は、コロンビア共和国。通称コロンビア。漢字では哥倫比亜、もしくは古倫比亜などと表記される。
国名はアメリカ大陸の「発見」者クリストバル・コロンに由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペインのグラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)という名前であり、独立後もこの名前を使っていた時期があったが、後に解放者シモン・ボリーバルがかつて掲げた統一の名前を受け継ぎ、現在の国名となった。
[編集] 歴史
詳細はコロンビアの歴史を参照
[編集] 前コロンビア期
紀元前10450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラの遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年、インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケと呼ばれる首長による一種の首長制国家群("cacicazgos")を発展させた。その好例をチブチャ系のムイスカ、タイロナ、カリマ、キンバヤ、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、以降彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカや木綿と交換することにより生計を立てていた。
[編集] 植民地化
西暦1500年に、ロドリゴとバスティダスに率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストファー・コロンブスはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1525年にアメリカ大陸最初のヨーロッパ人の町サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン (Santa María la Antigua del Darién) を今のチョコ県に建設する。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibchan) とカリブ系(Karib, 今のカリブ族)が多数を占めていたが、最大の王国だったムイスカ族のバカタ王国が征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダにより征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降スペイン人の拠点となる。
スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一端廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を置いた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。
1781年ソコーロで増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、結局は増税の実施が見送られてこの反乱は終結した。
[編集] 解放戦争
19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。
1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネスエラ総督領から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してサンタフェ・デ・ボゴタを中心にクンディナマルカ共和国の独立を宣言した。同時にカルタヘナがカルタヘナ共和国の独立を宣言して、すぐにカルタヘナを中心としたカリブ海側の五州がヌエバ・グラナダ連合州として合流した。
翌1811年のボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは1812年に崩壊したベネスエラ共和国を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリーバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリーバルも1813年にはベネスエラを再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増した。連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリーバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。
ボリーバルは1818年にジャネーロの頭目だったホセ・アントニオ・パエスの力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国が再建され、コロンビア共和国も創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリーバルはコロンビア共和国の建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。1821年にカラボボの戦いでの勝利によりカラカスが解放されると、ベネスエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。
1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリーバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となり、不在の大統領に代わってヌエバ・グラナダを治めていたが、1827年のボリーバルの帰還後、コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する アントニオ・パエスの不満が高まった。サンタンデルは1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた。その後ベネスエラが独立を要求した。
1830年にエクアドル(キトとグアヤキルが連合して赤道共和国を名乗った)と、故郷ベネスエラはパエスの指導下で完全独立を果たし、ボリーバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として再編成を図った。
[編集] コロンビア合衆国まで
1832年、亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領になると、保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。
大コロンビア時代からから続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これによりコロンビアは現在まで続く二大政党制となったが、寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。
1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペスはイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採った。以降1880年までコロンビアでは自由主義者の政権が続いた。そして1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。
1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラが蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国となった。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。
1880年に保守派のラファエル・ヌニェスが自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。
1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛りこんで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。
[編集] ボゴタ暴動まで
1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。1899年にはラファエル・ウリベ・ウリベ将軍の指導する自由党急進派による蜂起が起こり、1902年まで続く「千日戦争」勃発し、およそ10万人の犠牲者を出した。かねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案を、コロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。
保守党のラファエル・レイェスが大統領に就任して独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によって継承された。1921年にパナマ問題が解決すると米国からの膨大な投資が流れ込み、対米従属が進んでいった。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。
1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラが労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。
1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社のバナナ労働者虐殺事件を批判したことから、カリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。
[編集] ボゴタ暴動、コロンビア内戦
1946年以降の十数年間はラ・ビオレンシア(暴力)の時代と謂われ、争いが頂点に達した。
1946年に保守党政権が誕生すると、徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺されると、自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。
1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、朝鮮戦争にラテンアメリカで唯一軍隊を派遣した。
地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争の英雄グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。
ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年ロハスが人民弾圧をおこなった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起し(ビジャリカ戦争)、1956年ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪」事件の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンのフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。
1958年支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線」体制が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。
キューバ革命の影響を受けて、1961年に進歩のための同盟が発足すると、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らずゲリラ活動は活発化し、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、朝鮮戦争の英雄ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (M-19) が生まれた。
1974年「国民戦線」体制終了。通常選挙が執り行われる。1978年に就任した自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領は、戒厳令を布告し、多くの活動家が秘密警察による拉致や拷問を受け、その多くが失踪した。1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟 (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラM-19によるコロンビア最高裁占拠事件、ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ大統領により、1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争」が勃発し、麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。
1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョは野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、施行された。1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件」に発展した。議会はサンペールを弾劾する構えを見せ、アメリカ政府もサンペールの入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏自由党系の新政党「まずコロンビアを」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、2006年5月、ウリベは大統領に再選した。
[編集] 政治
現行の1991年憲法により、大統領制、二院制議会を骨子とした国家制度となっている。大統領の任期は4年で、連続一度まで再選可。議員定数は上院102人、下院166人。
コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ以降の内戦においても、ロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持された。コロンビアでこうした体制が成立しているのは自由党、保守党両党による歴史的な妥協が続き、軍やポプリスモ政治家が出る幕がなかったこと、仮にそういった政治家が現れそうになっても、寡頭支配層によってガイタンのように暗殺されるか、ロハス将軍のように追放されるか、選挙不正で勝利できないなどにより、結果的にそうした人物が政権を握ることを避けてきたからである。しかし、その代償は大きく、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因である。
コロンビアを支える文民政権は腐敗も多く、清廉な議員、判事でも麻薬組織による買収工作や、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラ、右翼民兵よる誘拐、暗殺が絶えない。麻薬組織は政権を握る気がないため、表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きい。
政党としては1849年に結成された自由党と保守党が主要な政党であり、そこから別れ出た政党や、社会主義政党も幾つか存在する。保守党は独立時のボリーバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。19世紀のイスパノ・アメリカ独立時はほぼ全ての国で自由党と保守党の対立・内戦が繰り返されたが、その後多くの国でこの自由党、保守党という枠組みがなし崩し的に崩れていったのに対し、この枠組みが独立戦争中から継続しているコロンビアの形態は珍しい。
- 1991年、新憲法公布される。新憲法下で初の総選挙が行われ、政教分離や連邦主義を主張する都市工業者に基盤を持つ自由党が勝利した。しかし、左翼ゲリラの攻撃は激化し、石油施設などへの攻撃が相次いでいる。
- 2006年8月7日、二期目となるアルバロ・ウリベ大統領が就任演説で反政府武装集団との和平への決意を示した。コロンビアでは40年以上内戦が続いている。任期は四年。
[編集] 外交
伝統的に隣国のベネスエラ、エクアドルからは再び両国を侵攻して再び大コロンビアを結成するのではないかとの警戒心を持たれている。両国との国境はゲリラと政府軍との戦場になり、近年ではベネスエラのウーゴ・チャベス大統領は、FARCにベネスエラ国内を聖域として提供するなどの行動で両国間の問題となり、一時はコロンビアによるベネスエラへの侵攻が現実性を持った政策として浮かんだ一方で、エクアドルとの間ではコロンビア軍によるエクアドルへ逃げたゲリラへの越境攻撃や、枯葉剤の散布が問題となっている。2008年3月、ゲリラへの越境攻撃作戦でエクアドルとの国交が断交。エクアドルに同調し、ニカラグアも断交を発表した。
1903年にアメリカ合衆国の援助を受けてパナマ地峡がパナマ共和国として独立したが、1921年にアメリカとの合意が達成され、コロンビア政府によって承認された。
パナマの独立承認後1920年代から対米従属が進んでいた。その後も親米路線は徹底し、近年ウリベ政権が米国からの援助で内戦を収めようとする傾向を強くし、イラク戦争に賛成するなどますます一層の対米従属が進んだ。現在は米国との自由貿易協定締結を目指している。
[編集] 日本との関係
1908年に両国間の国交が開かれ、1929年に初めて日系人が入植し、農業で成功した。現在もカリを中心に1800人ほどの日系コロンビア人が存在し、コロンビア産のコーヒーが多く日本に輸出されている。
[編集] 地方行政区分
詳細はコロンビアの地方行政区分を参照
コロンビアには33の県(departamento)が設けられている。また、ボゴタは特別区域である。「コロンビアは地域主導の国である」といわれる通り、各地域ごとの対立が激しい。
- アマソナス県(レティシア)
- アンティオキア県(メデジン)
- アラウカ県(アラウカ)
- アトランティコ県(バランキリャ)
- ボリーバル県(カルタヘナ)
- ボヤカ県(トゥンハ)
- カルダス県(マニサレス)
- カケタ県(フロレンシア)
- カサナレ県(ヨパル)
- カウカ県(ポパヤン)
- セサル県(バジェドゥパル)
- チョコ県(キブド)
- コルドバ県(モンテリア)
- クンディナマルカ県(ボゴタ)
- グアイニア県(プエルト・イニリダ)
- グアビアーレ県(サン・ホセ・デル・グアビアーレ)
- ウイラ県(ネイバ)
- ラ・グアヒーラ県(リオアチャ)
- マグダレーナ県(サンタ・マルタ)
- メタ県(ビジャビセンシオ)
- ナリーニョ県(パスト)
- ノルテ・デ・サンタンデル県(ククタ)
- プトゥマヨ県(モコア)
- キンディオ県(アルメニア)
- リサラルダ県(ペレイラ)
- サン・アンドレス・イ・プロビデンシア県(サンアンドレス)
- サンタンデル県(ブカラマンガ)
- スクレ県(シンセレホ)
- トリマ県(イバゲ)
- バジェ・デル・カウカ県(カリ)
- バウペス県(ミトゥ)
- ビチャダ県(プエルト・カレーニョ)
- ボゴタ(Distrito Capital 首都地域)
[編集] 地理
北部にはマグダレーナ川やカウカ川が南から北のカリブ海に流れ、東部にはブラジルのネグロ川に連なるグアビアーレ川が流れる。また北部には国名と同様、カリブ海側のシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地には、コロンにちなんで名付けられた国内最高峰のクリストバル・コロン山がある。国土が広い割には人間がまとまって住んでいる地域は西部のアンデス地方や沿岸部に限られる。
世界のどのような類似の地域よりも多様性に富んでいて、ラテン・アメリカの中でも極めて地域主義が強い国である。例を挙げるとアンティオキア人はコロンビア人であることよりもまずアンティオキア人(アンティオケーノ)であることを優先するといわれ、他のコロンビア人にない貯蓄や開拓の気風はこうした傾向を一層強めた。そのため19世紀中にコロンビア全地域の商業がドイツ人とシリア人のものになってしまったのにも関わらず、アンティオキア地方だけはアンティオケーノだけが商業を担った。こうした事情があいまって、1920年代にコーヒー景気によって発達したアンティオキア経済は、1960年代にカウカ地方のカリに抜かれるまでメデジンを国内経済の中心地とするほどだった。
国内は自然区分によると、セントラル山脈地域、オリエンタル山脈地域、カリブ海岸低地地方、太平洋低地、東部地域、及び島嶼に別れる。東部はそのままベネスエラの地形に続きオリノコ川流域平原にはリャノが、グアジャナ高地にはアマゾンの熱帯雨林が広がり、これらの地域は国土の2/3を占める。
東部を除いた残りの西部は国土の1/3を占め、人口の大部分はこの西部に居住しているが、この中でも人口密集地は六地域に分けることができ、この六地域の反目がお互いを刺激しあって、競争による発展と時として暴力を用いた激しい対立を招いている。
エクアドル国境付近の海岸地帯ではマングローブの林が広がる。
[編集] 山
国内最高峰はカリブ海側のシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地にあるクリストバル・コロン山である。
太平洋側では、パナマからプエナベントゥラまで続くバウド山脈は中央アメリカの延長である。
エクアドルから続くアンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈と、中央のセントラル山脈、東部のオリエンタル山脈に別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈は3000m級の山が存在し、セントラル山脈は5000m級の山が存在し、アンティオキア地方や、カウカ河谷もこの山脈内にある。オリエンタル山脈は首都ボゴタを含むクンディナマルカを擁し、カリブ海に向かうペリハ山脈と、ベネスエラのメリダ山脈に続く。
[編集] 気候
コロンビアはその国土の全てが北回帰線と南回帰線の狭間にあり、基本的には熱帯性の気候だが、気候はアンデス山脈の高度によって変わる。
- 標高900mまでが熱帯のティエラ・カリエンテ(Tierra caliente)となり、年間降水量は1500mm-2000mmに達し、年間平均気温は24℃以上で、バナナ、砂糖黍、米、大豆などが栽培されている。
- 標高900m-2000mまでがティエラ・テンプラーダ(Tierra templada) となり、年間降水量は1500mm-3000mmに達し、年間平均気温は17℃-24℃で、コーヒーは主にこの地域で栽培される。
- 標高2000m-3000mまでがティエラ・フリア(Tierra fria) となり、雲霧林(クラウド・フォレスト)が存在し、年間平均気温は12℃-16℃で、国土の15%はこの気候である。
- 標高3000m-4500mまでがパラモ(paramos)となり、木の生えない草原地帯が広がる。
- 標高4500mが雪線となり、ティアラ・エラーダという万年雪に覆われた世界となる。
[編集] 軍事
詳細はコロンビアの軍事を参照
コロンビア軍は三軍からなり、2004年の時点で国防予算2,760,000,000米ドル。徴兵制が敷かれており、総兵力232,700人を数える。それぞれの兵力は
- コロンビア陸軍: 兵員207,000人
- コロンビア海軍: 兵員28,800人
- コロンビア空軍: 兵員8,200人
となっており、40年以上続くゲリラとの内戦のために特に陸軍の規模が大きく、また、アメリカ合衆国からの潤沢な軍事援助を受けている。
軍は主にコロンビア内のゲリラ組織との戦いに当たる。
[編集] 国家安全保障
ボゴタソ以降、1960年代から内戦が本格化し、現在までコロンビア内戦が継続している。
1980年代の和平によりM-19が離脱し、現在敵対する左翼ゲリラ組織はコロンビア革命軍 (FARC) と民族解放軍 (FLN) だけになっており、近年ではウリベ政権はコロンビア自警軍連合などの極右民兵の武装解除をアピールしている。ベネスエラのウーゴ・チャベス大統領がFARCに聖域を提供するなどの行為もあり、未だに予断を許さない状態である。ウリベ政権はアメリカ合衆国のコロンビア計画を履行し、同国の支援を受けて軍拡を行い、治安維持に全力をあげている。
[編集] 経済
アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、南米共同体の加盟国でもある。
コロンビアの経済は、繰り返される内戦という政治の不安定さとは裏腹に、20世紀に入ってからはラテンアメリカ諸国の中でも最も安定した成長を続け、「ラテンアメリカの失われた10年」である1980年代にも他の南米諸国が苦境に喘ぐのとは対照的に、ハイパー・インフレやマイナス成長を記録したことはなかった。例を挙げると、国連ラテンアメリカ経済委員会の報告では1981年から1990年までのGNP総成長率は10年間で42.2%となり、一人当たり成長率でも16.2%となった。1999年には1932年以来はじめてのマイナス成長を記録したが、その後は再び順調な成長を続けている。しかし、このような安定成長と引き換えに、他の南米諸国のようなダイナミックな高成長を記録することもあまりないのが特徴である。
現在は首都ボゴタが最大の都市だが、元々はボゴタは内陸にあったのが災いしたため経済の中心地ではなく、20世紀後半にさしかかるまではアンティオキア地方の中心地メデジンや、1960年代に入ってから急速に成長を遂げたカウカ地方のカリなどがコロンビア経済を牽引していた。
最近では大規模な油田も発見されるなど産業は豊かであるが、貧富の差が激しく治安は悪い一方で厚い中間層も存在する。
[編集] 農業
19世紀の終わりから熱帯の換金作物のプランテーションが導入され、特にコーヒーは20世紀を通して外貨の稼ぎ頭であり、現在も貢献は続いており、現在でもコーヒーの産出量は世界で二番目である。なお、コロンビアの可耕地面積は国土の3.3%程(2005年)である。
切り花(特にバラ)の輸出国でもあり、米国、欧州の他日本へも輸出されている。
またコカインなどの麻薬産業が問題となっており、コロンビア政府は取り締まりを強化しているが、政府の腐敗などの様々な問題によりこの問題が解決する様子は見えない。
[編集] 鉱業
コロンビアは1991年憲法により、すべての地下資源を国家が所有している。2000年以前は地方の治安が悪かったために探鉱・油田開発が殆ど行われていなかったが、近年は治安の改善もあり、欧米の資源メジャーによる開発がされており、今後に期待が持てる。石炭、石油、天然ガスを産し、全輸出額に占める原油と石炭の割合は30%に達する。コロンビアの石炭産出量は西半球に限定すれば3位に達する。品位の高い瀝青炭の比率も高い。油田はベネズエラ国境に近いマグダレーナ川流域に分布する。最も重要な金属資源は世界シェア7位(5.1%)を占めるニッケル鉱(7.1万トン、2003年)である。そのほか、鉄、銅、鉛、金、白金、銀、マグネシウムを産する。金と白金の産出量は南米では2位、1位を占める。すべての金属鉱床はアンデス山脈に沿って点在する。このほか、リン鉱と塩も産出する。
エメラルドの産出量は世界市場の約80%を占める。1990年時点では300万カラットに達した。
[編集] 観光
コロンビアの観光業は1940年代から開発され、現在も発展し続けている。主な観光地としてはボゴタ、カルタヘナ、サンタ・マルタ(ボリーバルの没した町)、メデジン、カリ、バランキージャ、サン・アンドレス諸島などがあり、それぞれ異なる嗜好の観光客をひきつけている。
観光協会はコロンビア内戦による治安悪化を理由にコロンビアへの旅行をやめるように警告しているにも関わらず、近年多くの旅行者がコロンビアに惹きつけられている。コロンビアには2006年150万人の観光客が入国し、これは前年比の50%増である。
地理や植生に多様で豊かであるため、近年エコ・ツーリズム産業が盛んである。
カリブ海岸のカルタヘナはビーチ・リゾートとして有名である。
[編集] 国民
コロンビアの住民は、国の歴史の多様性と同じように様々な人々によって構成され、ヨーロッパ系移民、インディヘナ、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア系などが主な構成要素となっている。インディヘナの多くはメスティーソに統合されたが、現在もメスティーソとははっきり異なるインディヘナの集団は存在する。 ヨーロッパ系移民はやはりスペイン人が多かったが、それ以外にも第二次世界大戦から冷戦終結までの間にオランダ人、ドイツ人、フランス人、スイス人、ベルギー人、及び数は少なくなるが、ポーランド人、リトアニア人、及びイギリス人、クロアチア人などの移民もあった。例を挙げると、ボゴタ前市長のアンタナス・モクスは名前が示すようにリトアニア系の子孫である。 アフリカ系住人は16世紀から19世紀にかけて奴隷として移入された人々の子孫であり、大部分はカリブ海岸の熱帯低地に居住する。 アジア系移民はレバノン人、ヨルダン人、シリア人、中国人、日本人、韓国人などの入植があった。
人種構成はメスティーソが58%、ヨーロッパ系が20%、ムラートが14%、アフリカ系コロンビア人が4%、サンボ(アフリカ系とインディヘナの混血)が3%、インディヘナが1%である。
コロン来航以前のこの地は現在インディヘナと呼ばれている先住民が居住しており、インディヘナの数は約80万人と見積もられ、50以上の部族に別れている。彼らの多くはチブチャ系の言葉か、カリブ系の言葉を話す。アルウアコス族、ムイスカ族、クナ族などが現在も大きなコミュニティを築いている。
移民の多くはカリブ海沿岸のバランキージャに定着した。移民の出身国としては、レバノン、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、中国、フランス、ポルトガル、そしてロマなどが挙げられる。カリブ海沿岸においてドイツ系と中国系の占める役割は大きい。南西部のカリを中心にカウカ地方には少数ながら日系人もいる。
[編集] 人口
1950年代前半には推計で約1200万人だった人口は、1964年のセンサスでは約1748万2000人に、1974年の推計では約2395万人に、1983年の年央推計では約2752万人となり、現在で約4300万人の人口を抱え、ブラジル、メキシコに次いでラテンアメリカで三番目に人口の多い国である。20世紀半ばに地方から都市への大きな人口移動があったが、次第に沈静化してきた。人口の都市化率は1938年に31%、1951年に57%、1990年に70%となっており、現在は77%である。人口10万人以上の都市が30ある。 国土の54%を占める東部の低地は人口の3%が居住するにすぎず、人口密度は1人/1km²以下になる。コロンビアの総人口は2015年には5200万人以上になると予測されている。
[編集] 宗教
人口の95%以上がキリスト教徒であり、その内カトリック教会が90%である。約1%がインディヘナの伝統宗教であり、 ユダヤ教、イスラーム教、ヒンドゥー教、仏教はそれぞれ1%以下となる。
かつてのコロンビアは国家と教会の密着した、信心深いカトリックの国だったが、エル・ティエンポ紙の行った世論調査によると、信者の数は多いにも関わらず、人口の60%は熱心に信仰していないとのことであり、1960年代以降の都市化、工業化、世俗化の中で、カトリックに代わる新しい世俗的な倫理を生み出せていないことが近年の治安悪化の要因である。
[編集] 言語
コロンビアでは80以上の言語が話されており、50万人が先住民の言葉を今も話しているが、公用語はスペイン語であり、日常生活でも使われている。また、コロンビアのスペイン語は南米で最も正しくスペイン語のアンダルシア方言を残しているといわれている。
[編集] 教育
詳細はコロンビアの教育を参照
1572年にボゴタ大学が創設され、伝統的に植民地時代から北部南米の学問の中心地であったボゴタが「南米のアテネ」、と呼ばれて多くの知識人を生み出したのとは対照的に、民衆への教育はあまり積極的に行われなかった。 そのため、現在も識字率は94.6%(実際にはもっと低い可能性がある)と低い部類に属する。
五年間の初等教育、及び四年間の前期中等教育は義務教育であり、無償となっている。前期中等教育を終えると、二年間の後期中等教育が任意であり、卒業者は大学への進学を選べる。主な大学はボゴタ大学(1572年)や、コロンビア国立大学(1867年)など。80%以上の児童が小学校に入学し、60%以上の小学生は5年生の小学校を卒業すると6年制の中学校に入学する。小学校の多くは私立学校である。
[編集] 治安
コロンビアは誘拐と殺人の発生率で悪名高い国である。1990年代には10万人辺りの殺人事件発生率が世界最悪であり、2000年のコカの耕作面積は1,630 km²と見積もられていた。
1960年代初頭の殺人事件発生数は3,000件ほどだったが、1990年代初頭にはこれが十倍の30,000件に達し、10万人当たりの殺人事件発生数が62人となった。これは世界最悪の数字だったが、ウリベ政権以降急速に改善されており、現在は10万人当たり39人にまで減少し、世界最悪の座は南アフリカに代わった。殺害される人々の90%以上は男性であり、 国境付近のプトゥマヨ県、グアビアーレ県、アラウカ県のような地域では10万人当たりの殺人事件発生数は100人に達する。
誘拐事件は1992年から1999年の間に計5,181件発生し、これは世界の誘拐事件発生数の2/3がコロンビアで起きたことになる。 2005年は800件の誘拐事件が発生し、2002年に比べれば73%の減少となり、その内の35%がその年のうちに救助された。2005年は18,870件の自動車盗難事件があり(2002年に比べれば37%の減少)、18,111件の殺人事件があった(2002年に比べれば38%の減少) 農村部や地方の左翼ゲリラ、極右民兵、政府軍の戦闘、及び麻薬組織の暗躍などの事情もあり、改善されたとはいえ決して油断はできない。
こうして犯罪が1960年代以降急速に多発した原因としては、かつて国民の倫理的な規範に国家よりも遥かに強い影響を与えていたカトリックに代わる新しい世俗的な倫理を、カトリック的な倫理規範が解体された後も生み出せていないことが大きな原因であり、こうした倫理的な空白が多くの悲劇的な凶悪事件を生み出している。
[編集] コロンビアの人物
- カルロス・バルデラマ 前コロンビア代表サッカー選手
- ファン・パブロ・モントーヤ 元F1ドライバー
- フアネス ミュージシャン
- シャキーラ ミュージシャン。レバノン系
- ガブリエル・ガルシア=マルケス ノーベル文学賞受賞作家
[編集] 文化
詳細はコロンビアの文化を参照
コロンビアの文化はラテンアメリカの交差点に位置しており、インディヘナ、ヨーロッパ系、アフリカ系、中東系をはじめとするアジア系の伝統が複雑に織り交ざって構成された多文化的な社会によって特徴づけられ、アメリカ合衆国の文化と、メキシコの文化、アルゼンチンの文化、カリブ海の文化をはじめとするラテンアメリカの文化から強く影響を受けている。 コロンビアの複雑な地形と、数十年に渡る社会的、政治的な不安定さにより、コロンビアの文化は五つの文化的な領域(それは自然的な領域でもある)に強く断片化された。 地方から都市への国内移民、工業化、グローバル化、及び国際的な政治的、経済的、社会的な問題はコロンビア人の生活のあり方を変えた。
[編集] 食文化
詳細はコロンビア料理を参照
中央アメリカから続くトウモロコシ文化圏の国であり、コロンビアのエンパナーダはとうもろこしの皮で具を包む。
- エンパナーダ南米風ミートパイとも餃子とも
- アヒヤッコじゃがいものスープ
- モンドンゴもつ煮込み
[編集] 文学
19世紀以来文学者や知識人を輩出してきた伝統があり、この時期の作家としてはホルヘ・イサークスが有名である。20世紀にはペドロ・ガルシアなどの詩人を生んだ。 また、特筆されるべき人物として、レアリスモ・マヒコの担い手としてラテン・アメリカの声を代表する大作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがいる。ホルヘ・フランコはガルシア・マルケスの再来と呼ばれている。
[編集] 音楽
カリブ海沿岸地方の伝統音楽クンビアは、ガイタ(スペインのガリシア地方のバグパイプ)や、黒人の太鼓など様々な要素から構成され、サルサ以前に汎ラテンアメリカ的な成功を収めてアメリカ合衆国にも進出し、今もラテンアメリカ諸国のポップスに大きな影響を与えており、クンビア以外に人気があるバジェナートはクンビアを基に発展しており、こちらはクンビアよりも洗練された雰囲気がある。 また、ベネスエラで国民音楽とされているホローポも、ベネスエラとの国境付近のリャノで演奏されている。 ニューヨーク生まれのサルサも人気であり、コロンビア・サルサとしてカリを中心に発展している。
近年はコロンビアポップスの合衆国市場への進出も盛んであり、日本でもコロンビア人のミュージシャンとしてフアネス、シャキーラ、マルタ・ゴメスなどが良く知られている
また、余り知られてないが、コロンビアはかつてアルゼンチン、ウルグアイに次いでラテンアメリカで三番目にタンゴが好まれていた国である。
[編集] 世界遺産
コロンビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産産が2件ある。詳細は、コロンビアの世界遺産を参照。
カルタヘナの港、要塞と建造物群 - (1984年、文化遺産) |
Loskatios.jpg
ロス・カティオス国立公園 - (1994年、自然遺産) |
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サン・アグスティン遺跡公園 - (1995年、文化遺産) |
マルペロ動植物保護区 - (2006年、自然遺産) |
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
1月6日 | 東方の三博士の来訪 | Día de los Reyes Magos | 次週月曜移動 |
3月21日 | 聖ホセの祝日 | San José | 移動祝祭日 |
3月24日 | 聖木曜日 | Jueves Santo | 移動祝祭日 |
3月25日 | 聖金曜日 | Viernes Santo | 移動祝祭日 |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajo | |
5月9日 | 主の昇天 | Ascención del Señor | 移動祝祭日 |
5月30日 | 聖体の祝日 | Corpus Christi | 移動祝祭日 |
6月29日 | 聖ペドロ・聖パブロの祝日 | San Pedro y San Pablo | 移動祝祭日 |
7月20日 | 独立記念日 | Día de la Independencia | |
8月7日 | ボヤカ戦勝記念日 | Batalla de Boyacá | |
8月15日 | 聖母の被昇天の日 | Asunción de la Virgen | 次週月曜移動 |
10月12日 | 民族の日 | Día de la Raza | |
11月1日 | 諸聖人の日 | Todos los Santos | 次週月曜移動 |
11月11日 | カルタヘナ独立記念日 | Independencia de Cartagena | 次週月曜移動 |
12月8日 | 無原罪の聖母の日 | Inmaculada Concepción | |
12月25日 | クリスマス | Navidad |
[編集] スポーツ
テホと呼ばれる先住民由来のスポーツが国技であるが、やはり他のラテン・アメリカの国々と同じようにコロンビアでもサッカーが大変盛んである。主なサッカークラブとしては、オンセ・カルダス、ミジョナリオス、アトレチコ・ナシオナル、デポルティーボ・カリなど。
また、アンデス山脈中の高地において自転車競技も人気である。言語以外の面でもコロンビアはラテンアメリカ諸国の中で最もスペインから多くのものを引き継いでいる国であり、それゆえスペイン本国と同じく闘牛も盛んである。
サッカー界の麻薬組織からの汚染、具体的には賭博や敵対チームの選手や審判の買収、暗殺などが問題となっている。
- カルロス・バルデラマ 前コロンビア代表サッカー選手
- ファン・パブロ・モントーヤ 元F1ドライバー
- ルイス・エレラ 自転車競技ロードレース選手
- サンティアゴ・ボテーロ 自転車競技ロードレース選手
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年
- 増田義郎 編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史II』山川出版社、2000年 (ISBN 4-463-41560-7)
- 下中彌三郎 編『世界文化地理体系24 ラテン・アメリカ』平凡社、1954年
- 福井英一郎 編『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年 (ISBN 4-254-16545-5 C3325)
- P.E.ジェームズ 著 山本正三 菅野峰明 訳『ラテンアメリカII』二宮書店、1979年
- 野沢敬 編『朝日百科 世界の地理12 ラテンアメリカ』朝日新聞社、1986年(ISBN 4-02-380006-6 C6325)
- 国本伊代 乗浩子 編『ラテンアメリカ都市と社会』新評論、1991年(ISBN 4-7948-0105-X C0030)
- アロンソ・サラサール 著 田村さと子 訳『暴力の子供たち コロンビアの少年ギャング』朝日選書587、1997年(ISBN 4-02-259687-2)
- グスタボ・アンドラーデ 堀坂浩太郎 著『変動するラテンアメリカ社会 「失われた10年」を再考する』彩流社、1999年(ISBN 4-88202-479-9 C0030)
- 伊高浩昭『コロンビア内戦 ゲリラと麻薬と殺戮と』論創社、2003年(ISBN 4-8460-0376-0)
[編集] 外部リンク
- 政府
- コロンビア共和国大統領府 (スペイン語)
- 在日コロンビア共和国大使館 (日本語)
- 日系機関
- 旅行
- コロンビア - ウィキトラベル
- コロンビア通商産業観光省 (スペイン語)
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