コロンビア・ペルー戦争
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コロンビア・ペルー戦争 | |
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ペルー軍の攻撃に対して反撃の機会を探るコロンビア軍 |
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戦争:コロンビア・ペルー戦争 | |
年月日:1932年9月1日から1933年5月24日 | |
場所:コロンビア・ペルー国境付近のレティシア地方 | |
結果:コロンビアの勝利 | |
交戦勢力 | |
ペルー共和国 |
コロンビア共和国 |
指揮官 | |
サンチェス・セロ |
エンリケ・オラヤ・エレーラ |
戦力 | |
ペルー軍 | コロンビア軍 |
コロンビア・ペルー戦争(コロンビア・ペルーせんそう)とは、アマゾンの国境地方を巡って引き起こされたコロンビアとペルーの戦争である。
目次 |
[編集] 開戦
戦争は1922年のロサーノ・ソロモン協定の破綻と、砂糖への重い輸入税などの結果だった。戦争はペルー内部での暴動から開始され、イキトスのペルー人はレティシアに商業進出し、私的に街を我が物としていたのである。 1932年9月1日、ペルー大統領サンチェス・セロは、ペルー軍の二個連隊を派遣してレティシアとタラパカを占領させた。
[編集] コロンビアの愛国心
そしてペルーのこのような態度はコロンビア人の愛国心に火をつけた。コロンビアの有力紙エル・ティエンポは10,000通以上の手紙を受け取り、レティシアを奪還すべく声は大きくなった。1,000人のコロンビアの大学生が「サンチェス・セロは死ぬだろう。コロンビアは屈服しない!」と気勢を上げてボゴタを行進した。
[編集] 戦争
サンチェス・セロはコロンビアが防衛に至らないと思って軍を進めたが、すぐにこの考えが誤りであることが判明した。確かにアマゾンにはコロンビア軍のプレゼンスがなく、道路も適正な海軍も存在しなかったが、90日以内にコロンビアは立派な軍を整備してペルー軍の侵攻に対応した。
コロンビア海軍の最初の攻撃はタラパカになされた。レティシアはブラジルとの国境であり、コロンビア軍はブラジルにペルー軍が逃亡することによって、さらにブラジルとの国際問題を作りたくなかったのである。
タラパカ奪回は血に染まった出来事となった。既に先日の1933年2月13日にはペルー空軍がコロンビア艦隊に爆撃しようとしていたが、爆撃は外れた。 残っていたペルー軍兵士は翌日アマゾン海軍が船を下りたように、逃亡した。
[編集] リオ・デ・ジャネイロ議定書
同日コロンビア大統領のエンリケ・オラヤ・エレーラは、ペルー軍の航空攻撃を理由に同国との外交関係を破棄した。ブラジルとの関係を考慮して大統領はレティシアへの攻撃は要求しなかった。
1933年4月30日リマで戦争のために集められた兵士を閲兵していたサンチェス・セロがアプラ党の凶弾に倒れ、後を継いだオスカル・ベナビデスは15日後、コロンビア自由党の党首アルフォンソ・ロペス・プマレホと会談し、レティシアの返還については国際連盟のコミッションによる協定に任せることを保障した。
コロンビアとペルーの代表はブラジルのリオ・デ・ジャネイロに和平交渉のために出席し、ペルー代表は1932年の出来事を嘆き、平和協定によってロサーノ・ソロモン協定は再び確認された。