森保一
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森保 一 | ||
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名前 | ||
愛称 | ポイチ[1] | |
カタカナ | モリヤス ハジメ | |
ラテン文字 | MORIYASU Hajime | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1968年8月23日(39歳) | |
出身地 | 静岡県掛川市 | |
身長 | 174cm | |
体重 | 68kg | |
血液型 | A型 | |
選手情報 | ||
ポジション | MF(ボランチ) | |
背番号 | 主に7番 | |
利き足 | 右足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1987-1992 1992-1997 1998 1999-2001 2002-2003 |
マツダ サンフレッチェ広島 京都パープルサンガ サンフレッチェ広島 ベガルタ仙台 |
151 (13) 32 (1) 65 (1) 45 (0) |
55 (20)
代表歴2 | ||
1992-1996 | 日本 | 35 (1) |
監督歴 | ||
2004-2007 2005-2007 2007-現在 |
広島強化部育成コーチ U-18~20日本代表コーチ 広島トップチームコーチ |
|
1国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在 22007年10月15日現在 |
森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、静岡県掛川市出身の元サッカー日本代表選手(MF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。実弟は森保洋。
現サンフレッチェ広島トップチームコーチ。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 少年期
父親が造船関係者だったため幼少期から各地を転居、静岡県掛川市で生まれ、佐賀県や長崎県など九州で育つ。長崎日本大学学園高等学校時代には県選抜に選ばれる。
[編集] 現役時代
[編集] クラブ
高校の監督とマツダSC・今西和男監督が、たまたま知り合いだったため、1987年同クラブ入団。マツダ本社の高卒採用枠の関係で、当初子会社・マツダ運輸(現・マロックス)に勤務した。当初はサテライトチームであるマツダSC東洋でプレーしていたが、この年から監督として招聘されたハンス・オフトに見出され、中盤の底で守備を最優先し相手の攻撃の芽を摘んだり、また地味ながらも攻撃をディレイさせる、所謂ディフェンシブハーフ(守備的ミッドフィルダー)を確立した。その後1993年にJリーグが開幕するとサンフレッチェ広島の選手としてプレー。風間八宏とともに中盤を支え、1994年ファーストステージでは広島のリーグ優勝に貢献した。
1996年ごろ広島の経営が悪化し、主力放出を余儀なくされた。そこへ、1998年にオフトに誘われ、大型補強を行っていた京都パープルサンガにレンタル移籍。しかし、チームは低迷し監督は清水秀彦に代わったが、森保は主力としてチームを支えた。
翌1999年広島に復帰したものの、元々エディ・トムソン監督からの評価は低く、また森崎和幸の台頭で先発メンバー入りできなくなった。2002年広島からコーチ就任のオファーを受けるも、現役にこだわり、清水に誘われベガルタ仙台に移籍し、主力として活躍した。2004年1月5日引退を表明。
[編集] 代表
マツダSC時代の恩師であるオフトが代表監督に就任すると、1992年にサッカー日本代表に初招集[2]。アルゼンチン戦で初出場を果たし、以降その実力が認められた。細身ながらガッツ溢れるタックルで相手ボールを奪いラモス瑠偉に送る事に重点を置いた。W杯アメリカ大会アジア予選に出場し、ポストプレーヤーの高木琢也と共にオフトジャパンの申し子として活躍した。ファルカンジャパン以降は、より攻撃の起点としてのボランチが求められる世界の流れから代表への招集は減少した。
[編集] 指導者時代
2004年、サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任。2005年2月吉田靖監督の下、U-19サッカー日本代表コーチと兼務。2006年11月にAFCユース選手権2006にU-19日本代表コーチとして準優勝、FIFA U-20ワールドカップ2007にもコーチとして参加。同年9月から広島トップチームコーチに。
[編集] エピソード
- 広島アスリートマガジンでの対談から広島東洋カープ野手・野村謙二郎と意気投合し、現役時代にはお互いの試合を見に行ったり、合同自主トレを行っていた[3]。双方ともに現役引退した後も、吉田安孝が作ったフットサルチームに参加し大会に出る[4]など、交流を続けている。[5]
- 代表・クラブチーム共に守備的ミッドフィルダーのイメージが強いが、1995年ビム・ヤンセン監督時代は3-4-3システムのトップ下としてプレーしている。
- 京都へレンタル移籍時
- 2007年現在、息子3人ともサンフレッチェの下部組織に所属している。
- 現役を退きコーチになった数年後も、現役選手と変らないほど質の高いプレーができていたようである[11]。2008年広島コーチ時代、怪我人が続出したためコーチながら練習試合に出場している[12]。
[編集] 所属クラブ
- 1984年- 1986年 : 長崎日大高
- 1987年 - 1997年 : マツダ/サンフレッチェ広島
- 1998年 : 京都パープルサンガ
- 1999年 - 2001年 : サンフレッチェ広島
- 2002年 - 2003年 : ベガルタ仙台
[編集] 指導歴
- 2004年 - 2007年8月 : サンフレッチェ広島強化部育成コーチ
- 日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチ 中国地区担当
- 2004年 : JFA 公認S級コーチライセンス取得
- 2005年2月 - 2007年7月 : U-18~20日本代表コーチ
- 2006年 : AFCユース選手権2006U-19日本代表コーチ
- 2007年 : FIFA U-20ワールドカップ2007U-20日本代表コーチ
- 2007年9月 - 現在 : サンフレッチェ広島トップチームコーチ
[編集] 経歴・タイトル
[編集] クラブ
- 日本リーグ初出場 1989年9月27日JFL2部第9節対大阪ガス戦(靱蹴球場)
- 日本リーグ初得点 1989年9月27日JFL2部第9節対大阪ガス戦(靱蹴球場)
- Jリーグ初出場 1993年5月16日J・1stステージ第1節対ジェフユナイテッド市原戦(広島スタジアム)
- Jリーグ初得点 1993年6月2日J・1stステージ第6節対名古屋グランパスエイト戦(瑞穂陸上競技場)
[編集] 代表
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1987-88 | マツダ | JSL1部 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1988-89 | マツダ | JSL2部 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1989-90 | マツダ | JSL2部 | 18 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18 | 8 | |
1990-91 | マツダ | JSL2部 | 19 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 8 | |
1991-92 | マツダ | JSL1部 | 18 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18 | 4 | |
1992 | 広島 | - | J | - | 8 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | |
1993 | 広島 | - | J | 35 | 2 | 0 | 0 | 4 | 1 | 39 | 3 |
1994 | 広島 | - | J | 40 | 3 | 1 | 0 | 3 | 0 | 44 | 3 |
1995 | 広島 | - | J | 25 | 4 | - | 5 | 0 | 30 | 4 | |
1996 | 広島 | - | J | 26 | 3 | 14 | 2 | 5 | 0 | 45 | 5 |
1997 | 広島 | 7 | J | 25 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 32 | 1 |
1998 | 京都 | 7 | J | 32 | 1 | 4 | 0 | 2 | 0 | 38 | 1 |
1999 | 広島 | 7 | J1 | 27 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 30 | 2 |
2000 | 広島 | 7 | J1 | 22 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 24 | 0 |
2001 | 広島 | 7 | J1 | 16 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 20 | 0 |
2002 | 仙台 | 27 | J1 | 27 | 0 | 6 | 1 | 2 | 0 | 35 | 1 |
2003 | 仙台 | 27 | J1 | 18 | 0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 22 | 1 |
通算 | 日本 | J1 | 293 | 15 | 49 | 6 | 25 | 1 | 367 | 22 | |
日本 | JSL1部 | 18 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
日本 | JSL2部 | 37 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
総通算 | 348 | 35 | 49 | 6 | 25 | 1 | 402 | 42 |
※他に1994年Jリーグチャンピオンシップに2試合(0得点)出場
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 35試合 1得点(1992-1996)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1992 | 7 | 0 |
1993 | 15 | 0 |
1994 | 4 | 0 |
1995 | 6 | 0 |
1996 | 3 | 1 |
通算 | 35 | 1 |
[編集] 書籍
- 『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』(西岡明彦との共著、フロムワン) 2004年2月刊 ISBN 4757210159
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 高校生で試合に出ていたころ、公式記録などで「森 保一」とたびたび勘違いされ、それを見た同級生がポイチと呼び出したことから。
- ^ 本人さえ驚く大抜擢で、他の代表メンバーは広島でのチームメイト以外、誰一人「モリヤス」と読めなかったという逸話を残す。
- ^ http://www.sel.cs.hiroshima-cu.ac.jp/~sato/carp/diary/cd9601.html 1/17日参照
- ^ http://blog.yoshida-yasutaka.com/20060616.shtml
- ^ 双方共に現役時代の背番号は「7番」であった。
- ^ 森保自伝等参照。
- ^ 移籍反対署名を集めたサポーターに対して、必ず戻すという意思表示だった。当時はレンタル移籍とはいえ、一度退団した選手は戻って来ないというフロントに対する不信感があった。
- ^ 98年2月初旬の中国新聞ホームページより。
- ^ 98年5月までイアン・クルーク、その後はアウレリオ・ヴィドマーが7番をつけた。翌99年、ヴィドマーは11番に変更。森保の前は高橋真一郎、後は森崎浩司が7番を付けている。
- ^ 一度戦力外で退団した選手が再入団した初のケースは上野優作(01年戦力外退団・06年再入団)、完全移籍で退団した選手が再入団した初のケースは久保竜彦(03年完全移籍・08年再入団)。
- ^ Jリーグ選手協会 U-20カナダ特集参照
- ^ http://www.sanfrecce.co.jp/news/release/?n=1835&m=2&y=2008
[編集] 外部リンク
日本代表 - AFCアジアカップ1992 優勝メンバー (初) | |
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1 松永成立 | 2 大嶽直人 | 3 勝矢寿延 | 4 堀池巧 | 5 柱谷哲二 | 6 都並敏史 | 7 井原正巳 | 8 福田正博 | 9 武田修宏 | 10 ラモス瑠偉 | 11 三浦知良 | 12 山田隆裕 | 13 阪倉裕二 | 14 北澤豪 | 15 吉田光範 | 16 中山雅史 | 17 森保一 | 18 神野卓哉 | 19 前川和也 | 20 高木琢也 | 監督 オフト |