久保竜彦
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久保 竜彦 | ||
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名前 | ||
愛称 | タツ、ドラゴン | |
カタカナ | クボ タツヒコ | |
ラテン文字 | KUBO Tatsuhiko | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1976年6月18日(32歳) | |
出身地 | 福岡県朝倉郡 | |
身長 | 181cm | |
体重 | 73kg | |
血液型 | A型 | |
選手情報 | ||
在籍チーム | サンフレッチェ広島 | |
ポジション | FW | |
背番号 | 39[1] | |
利き足 | 左足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1995-2002 2003-2006 2007 2008- |
サンフレッチェ広島 横浜F・マリノス 横浜FC サンフレッチェ広島 |
183 (67) 83 (26) 8 (1) ? (?) |
代表歴2 | ||
1998-2006 | 日本 | |
1国内リーグ戦に限る。2007年1月24日現在 22007年10月5日現在 |
久保 竜彦(くぼ たつひこ、1976年6月18日 - )は、福岡県朝倉郡筑前町出身のサッカー選手。サンフレッチェ広島所属。ポジションはFW(センターフォワード)。
目次 |
[編集] プレースタイル
「日本人離れした」という枕詞のつく、抜群の決定力を誇るセンターフォワード。 フィジカルの強さ・高いシュートスピードと射程距離の長さといった身体能力に加え、相手の動きを見てコース狙い確実に決める繊細な技術と冷静な判断も持ち合わせているかと思えば、誰も予想出来ないような豪快でアクロバティックなゴールも決める。
またヘディング自体は平凡なものの、驚異的なジャンプ力で相手DFよりも頭二つ三つ抜け出すことも多い。
また、試合中以外は基本的に寡黙で謙虚で、どんな質問でも「よかったです」「嬉しかったです」と答えることが多い[2]。
[編集] 来歴
[編集] 幼少期
幼い頃は野球少年で読売ジャイアンツのファン。小学生の時ショート、サードを守っていた右打者。しかし、手を怪我したため、小学校4年生の時に野球からサッカーに転向[3]。 その後筑陽学園高等学校へ入学[4][5]。
[編集] クラブチーム
高校卒業後は定職につく予定だったが、サッカーを続けた方がいいという恩師の強い薦めによりから1995年にサンフレッチェ広島へ入団[6]。当時は全国的にも無名でどこからもオファーがなく、その恩師と広島のコーチが知り合いだったことから入団することとなった。 入団当初MF(トップ下)だったがビム・ヤンセン監督がFWとしても使いだし、エディ・トムソンに監督が替わるとFWに固定。グラハム・アーノルドに影響を受け、高木琢也からポジションと背番号10を受け継いだ。
1998年シーズン末、飲食店駐車場に止めていた妻の車を方向転換させようと飲酒しているにもかかわらず運転してしまい駐車場内ブロックに激突、安全運転義務違反および酒気帯び運転の疑いで書類送検された。当時は今ほど飲酒運転に厳しくなかったこともあり、クラブ側から契約上最高金額の制裁金・1ヶ月謹慎・99年シーズン前合同練習参加禁止・3ヶ月運転禁止と比較的軽い処分を受けた。
2001年ヴァレリー・ニポムニシ監督が目指した攻撃サッカーでは中心選手として藤本主税・スティーブ・コリカらと活躍、2ndステージ3位になる原動力となる。特に同期の大木勉[7]と抜群のコンビを見せ、今でも広島サポーターの語り草となっている。
2002年末、広島のJ2降格を期に横浜F・マリノスへ移籍。名パサーの日本代表MF奥大介、ブラジル人FWマルキーニョス、韓国代表FWアン・ジョンファン、ブラジル人DFドゥトラら抜群のパートナーを得て一気にブレイク、Jリーグにおいて群を抜く攻撃力を示し年間優勝に貢献し、日本年間最優秀選手賞受賞。2年目の2004年からはタイトなスケジュールのせいもあって怪我に泣かされ、コンディションを崩すも、要所で活躍し、存在感を示した。2005年後半には徐々に体調も良くなり、リーグ公式戦や天皇杯に出場、クラブではリーグ戦10試合出場で2005年シーズンを終えた。
2007年、奥大介が横浜FMから戦力外通告を受け、横浜FCへ移籍。久保も共にする形で横浜FCへ移籍した。しかし怪我が多く、リーグ戦は序盤の8試合に出場したのみで、その後はほとんど試合に出られなかった[8]。シーズン終了後、戦力外通告[9]。
2008年より、古巣・広島へ6年ぶりに復帰[10]。
[編集] 日本代表
- 代表デビュー戦となった1998年のエジプト戦から2002年の日韓W杯直前まで幾度も招集され、控えのFWとして途中出場の機会を与えられた。しかし、14試合無得点と結果を残せず、日韓W杯本大会の代表メンバーには選ばれなかった。
- ジーコ時代
- 2004年、欧州遠征での3試合4得点をはじめ、12試合8得点という結果を残し、特に同年2月18日のドイツW杯アジア1次予選オマーン戦で、引き分け濃厚な後半ロスタイムに勝ち越しゴールを奪うなど勝利に貢献し、ジーコ監督の信頼を得る。同年2月の代表合宿中に久保を含め数人で無断外出してキャバクラで騒ぐなど問題を起こし、ジーコの信頼を裏切ったとして、しばらく代表を外されることとなった。しかし、勝利への貢献度が高かったため、のちに復帰を許された。その後は腰痛が悪化し、プレーに支障をきたすためリハビリを行うことになり、長期離脱を余儀なくされた。
- 2006年になると代表に再び招集されるものの、慢性的な腰痛・足首痛で体調は万全とは言えなかった。代表では通算18試合出場でチーム最多の11ゴールという結果を残したものの、結局2大会連続でW杯本大会の代表メンバーには選ばれなかった[11]。
[編集] 所属クラブ
- 筑前町立三輪小学校
- 筑前町立三輪中学校
- 筑陽学園高等学校
- 1995年 - 2002年 : サンフレッチェ広島
- 2003年 - 2006年 : 横浜F・マリノス
- 2007年 : 横浜FC
- 2008年 - 現在 : サンフレッチェ広島
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 広島 | - | J | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1996 | 広島 | - | J | 22 | 2 | 10 | 4 | 3 | 0 | 35 | 6 |
1997 | 広島 | 10 | J | 22 | 7 | 5 | 1 | 2 | 0 | 29 | 8 |
1998 | 広島 | 10 | J | 32 | 12 | 3 | 0 | 3 | 2 | 38 | 14 |
1999 | 広島 | 10 | J1 | 25 | 13 | 4 | 1 | 0 | 0 | 29 | 14 |
2000 | 広島 | 10 | J1 | 24 | 11 | 3 | 0 | 2 | 1 | 29 | 12 |
2001 | 広島 | 10 | J1 | 30 | 15 | 6 | 4 | 2 | 0 | 38 | 19 |
2002 | 広島 | 10 | J1 | 28 | 7 | 0 | 0 | 4 | 2 | 32 | 9 |
2003 | 横浜FM | 9 | J1 | 25 | 16 | 4 | 0 | 2 | 1 | 31 | 17 |
2004 | 横浜FM | 9 | J1 | 19 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 4 |
2005 | 横浜FM | 9 | J1 | 10 | 1 | 1 | 0 | 2 | 4 | 13 | 5 |
2006 | 横浜FM | 9 | J1 | 29 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | 35 | 9 |
2007 | 横浜FC | 9 | J1 | 8 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 |
2008 | 広島 | 39 | J2 | - | |||||||
通算 | 日本 | J1 | 274 | 94 | 41 | 13 | 22 | 11 | 337 | 118 | |
日本 | J2 | - | |||||||||
総通算 | 274 | 94 | 41 | 13 | 22 | 11 | 337 | 118 |
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2004 | 横浜FM | 9 | 4 | 2 |
2005 | 横浜FM | 9 | 2 | 0 |
通算 | AFC | 6 | 2 |
[編集] 経歴・個人タイトル
- Jリーグ初出場 - 1996年4月3日 J 第5節 対清水エスパルス戦(日本平スタジアム)
- Jリーグ初得点 - 1996年10月2日 J 第22節 対セレッソ大阪戦(広島ビッグアーチ)
- 2003年 : ベストイレブン
- 2003年 : 日本年間最優秀選手賞
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 2000年 AFCアジアカップ レバノン大会
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ 韓国・日本大会
- 2003年 EAFF東アジア選手権 日本大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 11得点(1998-2006)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1998 | 1 | 0 |
1999 | 1 | 0 |
2000 | 5 | 0 |
2001 | 2 | 0 |
2002 | 5 | 0 |
2003 | 3 | 2 |
2004 | 9 | 6 |
2005 | 0 | 0 |
2006 | 6 | 3 |
通算 | 32 | 11 |
[編集] 脚注
- ^ 背番号を選んだ理由について、移籍会見では「・・・・・ありがとう?」と答えている。
- ^ 2000年5月3日広島対横浜F・マリノス戦において、後半6分左サイドハーフウェイライン付近から藤本主税があげた30m近いロングクロスを、そのままダイレクトボレーで叩きこんだゴールは、その後のヒーローインタビューでのサポーターのちびっ子に向けた「勉強頑張ってください」のコメントとともに広島サポーターにとって伝説のゴールの一つとなっている。
- ^ 当時の好きなサッカー選手はラモス瑠偉[1]。
- ^ 大場啓とは小学校から高校まで同級生。
- ^ 高校時代のポジションは左MF
- ^ 同期は大木勉、山根巌、吉村光示、西田吉洋、萩野英明、三浦和俊、水田月満、玉田真人。
- ^ クラブ公式プロフィールでは憧れの選手として、久保は大木を、大木は久保の名前を常に挙げている。(久保が横浜FC在籍時は三浦知良を挙げていた。)
- ^ 開幕戦の浦和レッドダイヤモンズ戦で振向き様のキックで約40メートルのミドルシュートを決めたことが、唯一の見せ場であった。
- ^ ちなみに、奥大介は久保解雇によりモチベーションが低下したとして現役引退。(スポーツニッポンより)
- ^ 完全移籍で広島を退団してもう一度再入団した初の選手。ちなみに、レンタル移籍で退団した選手が再入団した初のケースは森保一(98年レンタル移籍・99年復帰)、一度戦力外で退団した選手が再入団した初のケースは上野優作(01年戦力外退団・06年再入団)。
- ^ 2006年、ブラジル国内のインタビューにてジーコが「ワールドカップを楽しみにしていて欲しい。みんな我々(日本)が負けると思っているだろうが、久保と言うストライカーを見て欲しい」と語った。それだけに、久保落選には日本国内だけでなくブラジル国内でも物議を醸した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
J1記念ゴール | ||
前回: 6500ゴール 長谷川祥之 |
7000ゴール 久保竜彦 2001.5.12 |
次回: 7500ゴール 久保山由清 |