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フィリップ・トルシエ - Wikipedia

フィリップ・トルシエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フィリップ・トルシエ
名前
本名 オマル・トルシエ
愛称 白い呪術師
ラテン文字 Omar Troussier
俗名 Philippe Troussier
基本情報
国籍 フランス
コートジボワールの旗 コートジボワール
生年月日 1955年3月21日(53歳)
出身地 パリ
身長 不明
体重 不明
選手情報
ポジション DF



■Templateノート 解説)サッカー選手pj

フィリップ・トルシエPhilippe Troussier1955年3月21日 - )はフランス出身のサッカー監督。1998年2002年まで日本サッカー協会の要請を受け、サッカー日本代表監督を務めた事で知られる。アフリカで実績を上げ、ブルキナファソにて白い呪術師(White Witchdoctor)の異名をとった。

2006年3月に在住地のモロッコで、ドミニク夫人とともにイスラム教徒となり、イスラム教における名をオマルとする(夫人は「アマナ」)、3人のモロッコ人の少女を養子にもらった(現在でも仕事上では"フィリップ・トルシエ"を使用)。

目次

[編集] 経歴

[編集] 来日まで

  • 1955年 フランス・パリで6人兄弟の長男として生まれる。実家は精肉店だった。
  • 1976年 フランスリーグでプロサッカー選手となる。
  • この年、アメリカW杯アジア最終予選を控えた日本代表は、アジア代表としてコートジボワール代表とアジア・アフリカ選手権を戦っているが、この時既にトルシエは監督の座になかったため、未対面。その後南アフリカのカイザー・チーフスやモロッコのFUSラバトといった名門クラブの監督をつとめて好成績を上げる。
  • 1997年2月 ナイジェリア代表監督に就任してフランスW杯予選突破を達成するも、サッカー協会と決裂して同年9月に解任。理由は契約更改の際、トルシエが年俸の先払いを要求したためだったが、後任のボラ・ミルティノビッチはトルシエと同様の要求を認めさせている。サッカー協会幹部による資金の横領が日常茶飯事でスタッフへの給与の未払いが珍しくないアフリカにおいて、指導者の間では常識的な事とされる。
  • 1998年春 既に決まっていた南ア代表監督就任までの間という条件で、同年のアフリカネイションズカップのホスト国・ブルキナファソ代表の監督に迎えられる。短期間でよくチームを作り、弱小と見られていた同国をベスト4に進出させた。
  • 1998年3月 W杯南アフリカ代表監督に就任。1998年フランスワールドカップは2分1敗で1次リーグ敗退、契約期間満了に伴い退任した。

[編集] 日本代表監督時代

  • 当時のサッカー日本代表・岡田前監督の退任を受け、日本サッカー協会アーセン・ベンゲルに監督就任を依頼するも断られる。当時のサッカー協会の技術部門の長であった大仁邦彌によれば、その後協会は直接フランスサッカー協会と交渉し、ちょうどスケジュールの空いていたトルシエを紹介された、という。日本サッカー協会はベンゲルに彼の能力や人物像などについて相談しつつ、トルシエと契約を結ぶことに決定した。巷間伝えられる「ベンゲルの推薦によりトルシエに決定」というのは、この経緯を簡略化したものであろう。
  • 1998年12月 バンコクアジア大会ではU-21代表を率いて臨み、二次リーグ敗退。当時のアジア大会は年齢制限のないレギュレーションであり、日本と同じく若手主体の韓国には敗れたが、ほぼA代表のクウェートに勝つ。
  • 1999年 清雲栄純の後任としてU-20代表監督を兼職。FIFAワールドユース・ナイジェリア大会では準優勝を果たした。FIFA主催の国際大会で日本が決勝に進出するのは、史上初の快挙であった。秋には中田英寿も合流したU-22代表を率いて、二大会連続の五輪出場を決める。一方A代表では招待されたコパ・アメリカで二敗一分けに終わりほとんど実績を残せず、批判の声も現れ始めた。
  • 2000年 五輪代表をA代表に合流させるも、2月のカールスバーグカップでメキシコに敗れ香港リーグ選抜に引き分け、3月中国に引き分け、4月韓国に負けと成績は上向かなかった。このため批判が高まり、サッカー協会が契約を更新しないとの噂がマスコミを通じて喧しくなる。しかし、5月にモロッコで開催されたハッサン二世国王杯でフランスと2-2で引き分け、98年W杯で辛酸を舐めさせられたジャマイカに4-0で大勝し、続くキリンカップ2000でも同点優勝し、自らの契約延長を勝ち取る。
  • 2000年9月 シドニーオリンピックではメキシコシティオリンピック以来32年ぶりとなる決勝トーナメント進出。準々決勝でアメリカ合衆国とPK戦の末、準決勝進出を逃す。
  • 2000年10月 レバノンで開催されたアジアカップ2000では、グループリーグ第1戦・第2戦で圧勝して決勝トーナメントへ。決勝トーナメントでイラク中国サウジアラビアを撃破し1992年大会以来の優勝、アウェイ色の強い中東開催のアジア杯において東アジア勢としては初めての快挙。
  • 2001年3月24日 母国フランス・スタッド・ド・フランス(サン=ドニ)で行われたフランス代表との親善試合に臨むも0-5の惨敗を喫してしまう。4月のスペイン戦でもフランス戦同様に1トップ3ボランチとも言われる守備的布陣で臨み、結局0-1で敗れた。その一方でタイトル戦では着実に結果を出している点から、「親善試合を守備的布陣の習熟にあてただけ」という見方がある。
  • 2001年6月 日韓共催FIFAコンフェデレーションズカップ準優勝。この大会は5試合で6得点1失点という戦いぶりであり、守備的路線への転換があったのかどうかのひとつの指標になりうるであろう。またフル代表でのFIFA主催の国際大会での決勝進出も史上初であった。
  • 2002年6月 日韓ワールドカップでは、有力視されていた中村俊輔を代表から外したことで話題を呼んだ。本大会では「ノルマ」と言われたグループリーグを2勝1分、グループ1位の成績で突破し、日本代表を初の決勝トーナメント進出に導く。しかし決勝トーナメント1回戦トルコ戦、日本代表は0-1で敗れる。W杯終了後、監督を退任した。

[編集] 2002年以降

  • 2002年7月 フランス代表監督の最終候補に残るが、面接の結果ジャック・サンティニが選ばれ選に漏れる。
  • 2002年8月以降 1年間のサバティカルを利用し、長年の懸案事項であった古傷の膝の手術を行いリハビリに専念。
  • 2003年8月 カタール代表監督に就任。
  • 2004年7月 成績不振のためカタール代表監督を解任される。
  • 2004年11月 Jリーグヴィッセル神戸から監督就任のオファーが届く。就任確実とも言われたが、フランスの名門オリンピック・マルセイユから届いたオファーで翻意し、契約せず。
  • 2004年11月 フランス・マルセイユの監督に就任。就任後、歴史ある名門マルセイユにおいても”フラット3”を活用。しかし、チームの中心選手であったビセンテ・リザラズ等と起用法・戦術で対立、UEFAカップ出場権を逃したことなどもあり、2005年5月 マルセイユの監督を解任される。しかし、当時17歳でプロデビューもしていなかったサミル・ナスリをレギュラーに大抜擢したことは功績として挙げられる。ナスリはその2年後、19歳でA代表デビューを果たし、”ジネディーヌ・ジダンの後継者”と呼ばれるまでに成長した。
  • 2005年7月 ナイジェリア代表監督に再び就任とナイジェリアサッカー協会より発表があったが、膝の手術のためこれを辞退する。
  • 2005年10月 モロッコ代表監督に就任。2010年ワールドカップ(W杯)までの5年契約を結ぶ。
  • 2005年12月 モロッコサッカー連盟と決裂し代表監督を解任される。
  • 2006年3月 モロッコ人の養子を迎えたことで、子供達のためにと妻と共にイスラム教に改宗。名はオマルをもらう。
  • 2006年6月 テレビ東京ドイツW杯コメンテーター契約を結び、同局の中継放送・及び各種関連番組に出演。
  • 2007年12月 JFLFC琉球の総監督に就任。日本サッカー界への復帰を果たした。


[編集] 所属クラブ

[編集] 指導歴

  • 1999年 U-20日本代表
  • 1999年-2000年 日本オリンピック(U-23)代表

[編集] 人物

  • Jリーグの専務理事だった木之本興三は、「彼は本当に四六時中サッカーのことしか考えていない。人間性は正直どうかと思う面もあるが、指導者としての態度は理想的な人物」と述べている。古くからの友人であるベンゲルも「仕事に対しては常に真剣。中途半端なことはせず、勤勉で真面目、そして厳しい」と評している。
  • サッカーに対しての真面目さと激しい性格から、些細なことでムキになったり怒鳴るなど、子供のような一面もある。また、「日本にキャプテンはいらない」などの発言を繰り返し、こういった性向から各国のサッカー協会、クラブチームの首脳陣や選手たち(釜本邦茂川淵三郎エディ・トムソンフレデリック・アントネッティ、ビセンテ・リザラズなど)と確執が絶えなかった。
  • 練習中も選手を怒鳴ったり突き飛ばすなど話題に事欠かなかった。真意として「日本代表は中田英寿を除くと幼く、大人しすぎる」と分析し、選手達が国際試合で戦えるためにあえてこのような指導法を貫いたと本人は主張しているが、マルセイユの監督時代も同様の指導を行い前述の通りリザラズが確執から移籍するなど、顰蹙を買った面もあった。
  • 2002年ワールドカップのチュニジア戦、スクリーンに大きく映された小野伸二と中田英寿(ちょうどこの2人はFKの前に時間をかけていた)を見て、「お前たちは映画スターのつもりか!」と激怒する等の数々のエピソードにより、彼のことをよく思っていないサッカーファンがいる一方で、日本代表監督時の実績や、マスコミやサッカー協会に対して躊躇なく批判を向けたことを評価するファンもおり、未だ評価の分かれる所である。
  • ジンクスを大切にし、勝った試合で着ていたスーツや靴下を次の試合でも着用し試合に臨んでいた。しかし2002年ワールドカップのトルコ戦では「黒スーツだと勝てる」というジンクスに反するグレーのスーツで現れ、0 - 1で敗れた。
  • 2002年ワールドカップ開催中にめざまし調査隊で「トルシエ監督が噛んでいるガムはなんというガムか?」というテーマがあった。この時の答えはガムは適当に。試合で1つの半分のガムを噛み、勝てれば同種のガムを噛む、負ければガムを変える等、ジンクスを大切にするトルシエらしい答えであった。
  • プライベートでは通訳を担当したフローラン・ダバディーと行動を共にし、日本の文化を学んだりした。好きな日本食蕎麦だったそうである。相撲部屋を見学した際に貴乃花光司に感銘を受けて親しくなり、後に貴乃花が膝を負傷したとき、トルシエの紹介によってフランスで手術を受けている。またダバディーの知り合いだった滝川クリステルを「フランス語で直接会話できる才色兼備な女性」として大変気に入っていたらしい。
  • 2006年ドイツW杯コメンテーターとして、テレビ東京の番組に数多く出演した。
  • 2007年自宅のはしごから落ち足首を骨折。
  • 2007年12月21日放送回「えみり・ジェンヌ」(GyaO)の生出演を出演前にキャンセルした。番組側は彼がいつの間にか帰ってしまったとだけ説明し、詳しい理由は大人の事情とし伏せながら、番組側に落ち度は無かったとしている。[1]

[編集] 戦術

[編集] フラットスリー

彼が指導者として教育を受けた時代には3バックが全盛だったこともあり、どのチームに赴いてもフラットスリーと言われる3-5-2システムを軸にしてきた(マルセイユではコーチ陣の助言により、一部の試合で4バックも用いている)。

  • ディフェンダー3人をフラットに並べて高く押し上げ、コンパクトさを維持する(プッシュアップ)
  • オフサイドトラップを多用し、相手を牽制する(オフサイドトラップ)[要出典]
  • 守備的な選手を配置した厚い中盤でプレッシャーをかける(プレッシング)[要出典]
  • 中央型のMFを両サイドに配置する(トルシエの場合、もっぱら左サイドに攻撃的選手、右サイドに守備的選手が配される)[要出典]

これらを特徴とする。前三者は欧州を席巻したアリーゴ・サッキ率いるACミランが、最後の点は1986年のメキシコワールドカップでのデンマーク代表チームの布陣がヒントになっているといわれる。[要出典]

[編集] オートマティズム

トルシエはオートマティズムを重要視し(自身のサッカー観として、オートマティズムなど組織的な面が60%で占め、30%が個の力、10%が不確定要素と発言したことがある)、ボールの位置や状況に応じて選手が自動的に動けることを理想とした。シャドートレーニングに主眼が置かれたため練習では紅白戦が極端に少なかったが、これは練習中の怪我といったアクシデントが起きやすいといったトルシエの配慮もある。メリットとしてはメンバーが入れ替わってもチームの質が大きく変化しないこと、デメリットとしてはその機構に縛られ、試合のリズムに変化をつけるのに交代選手の個性に頼ざるを得ないことが挙げられる。

[編集] エピソード

2006年3月 イタリアの22日付けのガゼッタ紙でイスラム教への改宗が取り上げられた記事の中で「中村俊輔」を23人のリストに入れなかった為に仏教系の団体から脅迫を受けた」と報じられた。[2]

[編集] 著書

  • トルシエ革命 新潮社 2001年6月(田村修一との共著) ISBN 978-4105408015
  • 情熱 日本放送出版協会 2001年12月(ルイ・シュナイユとの共著)ISBN 978-4140806531
  • オシムジャパンよ! 日本サッカーへの提言 アスキー新書 2007年5月 ISBN 4756148883

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ MIDTOWN TV OFFICILA BLOG
  2. ^ Il francese Troussier si converte all'Islam
先代:
岡田武史
日本代表監督
1998-2002
次代:
ジーコ
先代:
西野朗
五輪日本代表監督
1999-2000
次代:
山本昌邦


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