中田浩二 (サッカー選手)
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中田 浩二 | ||
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名前 | ||
愛称 | コウジ | |
カタカナ | ナカタ コウジ | |
ラテン文字 | NAKATA Koji | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1979年7月9日(28歳) | |
出身地 | 滋賀県大津市 | |
身長 | 182cm | |
体重 | 74kg | |
血液型 | B型 | |
選手情報 | ||
在籍チーム | FCバーゼル | |
ポジション | MF/DF | |
背番号 | 6 | |
利き足 | 左足 | |
代表歴 | ||
2000- | 日本 | 57 (2)
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中田浩二(なかた こうじ、1979年7月9日 - )は、日本のサッカー選手。スイス・スーパーリーグ、FCバーゼル所属。ポジションはミッドフィルダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、左サイドバック)。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
滋賀県志賀町(現大津市)出身。小学校低学年のころは父親の転勤の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは神奈川県横浜市の横浜市立南戸塚小学校2年の時である。小学校3年の時、鳥取県米子市の米子市立義方小学校に転校し、そこで本格的にサッカーを始めるようになる。小学校5年の時、全日本少年大会に出場する。米子市の後藤ヶ丘中学校に進学し、中学3年の時に全国中学校大会に出場する。2年の時に中国選抜として選抜中国大会に出場する。中学校までのポジションはFWで、左足の怪物として地元紙にも取り上げられるほどの存在となる。
帝京高校進学後はBチームに入れられるなど決して順調ではなかったものの、ボランチに転向し、頭角を現す。3年生のときにキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し、決勝では後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる本山雅志擁する東福岡高校に敗れるものの、準優勝を収める。この試合は雪深い国立競技場で行われ、試合中に転倒する選手が続出した。また試合球として、白い雪の中でも目立つオレンジ色のボールが採用されるなど、後々まで語り継がれる試合となった。
[編集] クラブ
[編集] 鹿島アントラーズ(1998-2004年)
1998年に入団したJリーグの鹿島アントラーズでは、同い年の小笠原満男、本山雅志とともに中盤を担い、MFとしてチームに多くの栄冠をもたらした。GKの曽ヶ端準も、同期入団である。鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝1回、ナビスコカップ優勝1回を経験している。2003年8月の大分トリニータ戦で左ひざ靭帯断裂の大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされた。2004年5月、柏レイソル戦で259日ぶりの試合復帰を果たした。
[編集] オリンピック・マルセイユ(2005年)
2005年1月、元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユの練習に参加する。マルセイユ側は中田の獲得を打診するが、提示された移籍金が低額だったため、鹿島側は中田の移籍を認めなかった。同時期、中田との契約切れが迫っていた鹿島は来季以降の契約更新を申し出るが、中田本人が海外移籍を希望していたため断り続ける。その後、契約切れとなりフリーの立場で同年1月26日にマルセイユに移籍した。所属クラブの意向を無視した移籍ゆえに円満移籍とはならなかった。
移籍当初はそこそこ出場機会はあったが、不慣れな左サイドバック、ライバルチームであるPSG戦でのオウンゴール、トルシエ監督の解任により出場機会が激減。守備的MFだけでなくDFもこなせるため出場が期待されたが、イスラエルのクラブからの数億単位の移籍話を蹴ったことでフロントとの関係が悪化、その結果、事実上戦力外にされてしまう。
[編集] FCバーゼル(2006-2008年)
2006年、出場機会を求めてクラブに移籍を申し出る。古巣の鹿島にも打診したが、「移籍金0円なら獲得する」という回答だった。イスラエル、ウクライナのクラブからオファーが届くもいずれも断り、スイスリーグの名門FCバーゼルの練習に参加し、その後正式契約を結んだ。
2006-07シーズンは、海外のクラブに所属している日本人選手としては珍しく、センターバックとしてレギュラーに定着した。10月のザンクト・ガレン戦で鼻を骨折して途中交代するまでは、19試合連続でフル出場していた。中田の加入以降、バーゼルは2005-06、2006-07シーズンと2シーズン連続で勝ち点1差で優勝を逃すが、2007年5月にはスイスカップに優勝。バーゼルでの初タイトルを獲得した。
2007年6月に代表戦に出るために帰国した際に、人気女優加藤あいと超遠距離恋愛をしていた事が発覚する。
その前後、古巣・鹿島が優勝を目指す為に中田にオファー。中田自身は鹿島が必要としているならば帰る意思があるとしたが、鹿島の用意した移籍金1億円と「中田は必要な選手」とするスイス・バーゼルの提示金3億円(ともに推定)では大きな開きがあり、このときは獲得断念となった。
翌2007-08シーズン、バーゼルは悲願のリーグ優勝を果たし、スイスカップも連覇して二冠を獲得。中田も負傷離脱した時期を除き不動のレギュラーとして活躍したが、この頃にはバーゼルの慰留にもかかわらず、中田の鹿島復帰の意思は公然とマスコミに取り上げられるようになった。2008年4月、スイスリーグの終了を待たずして、バーゼルとの契約終了後に鹿島へ移籍することを正式発表。2年半ぶりにJリーグでプレーすることになった。
[編集] 日本代表
[編集] トルシエ監督時代
1999年のワールドユースの大会直前に、レギュラーDFと目されていた鹿島のチームメイト金古聖司が負傷し、当時の監督フィリップ・トルシエによってDFにコンバートされた。中田はこの大会で全試合に左センターバックとして出場し、日本は準優勝した。
オリンピック代表でもレギュラーに定着し、2000年にシドニーオリンピックに出場。グループリーグ3戦目のブラジル戦でルーカスによって負傷させられ、その後の試合には出場できなかった。
A代表でのデビュー戦は2000年2月5日のメキシコ戦。2002年FIFA日韓ワールドカップで4試合すべてにフル出場、日本のベスト16に貢献したが、ベスト16のトルコ戦ではクリアミスでCKを献上、そのCKで失点し敗退の要因を作るという不運さもあった。
バランス感覚と正確なロングフィードで、トルシエの提唱するフラット3の左のDFというポジションをつかみ、トルシエ監督下、最もコンスタントに試合に出場した選手の一人である。
[編集] ジーコ監督時代
ジーコが日本代表監督に就任すると、本来のボランチとして出場するようになった。トルシエ時代より出場機会は減ったが、主要大会のメンバーには毎回選出された。
2004年7月アジアカップ準々決勝ヨルダン戦では、外すと負けというピンチからPK戦3人目としてシュートを成功させる。準決勝、決勝と2試合連続でゴールを挙げて、日本は大会を2連覇した。2006年ワールドカップ・ドイツ大会では、3戦目のブラジル戦に途中出場した。
[編集] オシム監督時代
2006年ワールドカップ後に就任したイビチャ・オシム監督のもとでは、欧州のクラブに属している選手がコンディションを崩さないようにという配慮の為、しばらく日本代表への招集は見送られているものの、代表収集の条件となる“所属クラブでのレギュラー定着゛を果たしている事や、オシム監督が選手に求める“ポリバレント”な能力を持ち合わせている為、日本代表への復帰の可能性も高いと見られていた。2007年6月のキリンカップでオシムジャパン発足後初選出された。
[編集] プレイスタイル
鹿島アントラーズ時代は主にボランチとしてプレーしていたが欧州移籍後はセンターバック、時に左サイドバックでプレーするようになった。やべっちFCで「ヒデさんの言っていたこと(1対1で勝てという旨)がわかった」と語ったようにドイツワールドカップ後は1対1の場面の守備でも強さを見せるようになった。 また自陣深いエリアからも正確なロングボールを蹴ることが出来、ミドルシュートも強烈かつ正確である。
[編集] エピソード
- 2000年のチャンピオンシップVS横浜F・マリノスにて、3点目のゴールを決めている。サイドからゴール方向へ蹴り、やや前に出ていたGK川口能活の頭上を超え、ゴールへ吸い込まれる。試合後、インタビュアーからの『あれは狙っていたんですか?』という問いかけに対し、『いえ、センタリングです』と答え、センタリングミスであった事を素直に告白。国立競技場が笑いに包まれた。見た目、性格の面で派手さは無いものの、このようなユーモラスな一面を持っている。
- 2002年FIFA日韓ワールドカップの合宿中の宴会の席で、フィリップ・トルシエと中田英寿をプールに落っことし、ムードメイクに一役買った。
- そのルックスから、2003年に水泳のイアン・ソープ、サッカーのアレッサンドロ・デルピエロ(ユヴェントス)、デビッド・ベッカム(当時マンチェスター・ユナイテッド)、女子テニスのアンナ・クルニコワ(ロシア)とともに、adidas社によって“世界イケメン5傑”に選出されている。
- マルセイユ時代に試合前にユニフォームを無くし、急きょ33番のユニフォームを着る事になったことがある。
- 持ち前の明るさや人柄から交友関係は広く、芸能界においてもファンや友人は多い。
- 2006年ドイツW杯終了後、髪型をスキンヘッド(本人曰くチームメイトにノリで刈られたらしい)にしている。
[編集] 所属クラブ
- 1995年 - 1998年 帝京高等学校
- 1998年 - 2004年 鹿島アントラーズ( 日本)
- 2005年 - 2006年オリンピック・マルセイユ( フランス)
- 2006年 - 2008年 FCバーゼル( スイス)
- 2008年 - 鹿島アントラーズ( 日本)
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | 鹿島 | 26 | J | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 |
1999 | 鹿島 | 26 | J1 | 17 | 4 | 1 | 0 | 2 | 0 | 20 | 4 |
2000 | 鹿島 | 5 | J1 | 29 | 4 | 2 | 2 | 5 | 2 | 36 | 8 |
2001 | 鹿島 | 5 | J1 | 25 | 8 | 6 | 0 | 3 | 1 | 34 | 9 |
2002 | 鹿島 | 5 | J1 | 29 | 6 | 3 | 0 | 5 | 0 | 37 | 6 |
2003 | 鹿島 | 5 | J1 | 18 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 20 | 5 |
2004 | 鹿島 | 5 | J1 | 21 | 1 | 2 | 0 | 3 | 2 | 26 | 3 |
フランス | リーグ戦 | リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
2004-05 | マルセイユ | 27 | リーグ・アン | 5 | 0 | - | - | 5 | 0 | ||
2005-06 | マルセイユ | 27 | リーグ・アン | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 5 | 0 | |
スイス | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2005-06 | バーゼル | 6 | スイスリーグ | 10 | 1 | - | - | 10 | 1 | ||
2006-07 | バーゼル | 6 | スイスリーグ | 34 | 1 | 5 | 0 | - | 39 | 1 | |
2007-08 | バーゼル | 6 | スイスリーグ | 18 | 1 | 2 | 1 | - | 20 | 2 | |
2008 | 鹿島 | J1 | |||||||||
通算 | 日本 | J1 | 144 | 27 | 16 | 4 | 18 | 5 | 178 | 36 | |
フランス | リーグ・アン | 9 | 0 | 1 | 0 | - | 10 | 0 | |||
スイス | スイスリーグ | 62 | 3 | 7 | 1 | - | 69 | 4 | |||
総通算 | 215 | 30 | 24 | 5 | 18 | 5 | 257 | 40 |
国際大会個人成績 | ||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2002-03 | 鹿島 | 5 | 3 | 0 |
UEFA | UEFA杯 | |||
2005-06 | マルセイユ | 27 | 3 | 0 |
2006-07 | バーゼル | 6 | 9 | 0 |
2007-08 | バーゼル | 6 | 5 | 0 |
通算 | AFC | 3 | 0 | |
UEFA | 17 | 0 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- U-19、U-20日本代表
- 1998年AFCユース選手権 タイ大会
- 1999年FIFAワールドユース ナイジェリア大会(7試合0得点、準優勝)
- U-22、U-23日本代表
- 2000年シドニーオリンピック(3試合0得点、ベスト8)
- 日本代表
- 2001年FIFAコンフェデレーションズカップ 韓国・日本大会(5試合0得点、準優勝)
- 2002年FIFAワールドカップ 韓国・日本大会(4試合0得点、ベスト16)
- 2003年FIFAコンフェデレーションズカップ フランス大会(2試合0得点、グループリーグ敗退)
- 2004年AFCアジアカップ 中国大会(4試合2得点、優勝)
- 2005年FIFAコンフェデレーションズカップ ドイツ大会(2試合0得点、グループリーグ敗退)
- 2006年FIFAワールドカップ ドイツ大会(1試合0得点、グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 57試合 2得点(2000-)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
2000 | 7 | 0 |
2001 | 13 | 0 |
2002 | 13 | 0 |
2003 | 7 | 0 |
2004 | 6 | 2 |
2005 | 8 | 0 |
2006 | 2 | 0 |
2007 | 1 | 0 |
通算 | 57 | 2 |
[編集] 関連項目
[編集] 個人タイトル
- 2000年 - ナビスコカップMVP
- 2001年 - ベストイレブン
[編集] 外部リンク
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1 楢崎正剛 | 2 茂庭照幸 | 3 駒野友一 | 4 遠藤保仁 | 5 宮本恒靖 | 6 中田浩二 | 7 中田英寿 | 8 小笠原満男 | 9 高原直泰 | 10 中村俊輔 | 11 巻誠一郎 | 12 土肥洋一 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 大黒将志 | 17 稲本潤一 | 18 小野伸二 | 19 坪井慶介 | 20 玉田圭司 | 21 加地亮 | 22 中澤佑二 | 23 川口能活 | 監督 ジーコ |
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1 川口能活 | 2 秋田豊 | 3 松田直樹 | 4 森岡隆三 | 5 稲本潤一 | 6 服部年宏 | 7 中田英寿 | 8 森島寛晃 | 9 西澤明訓 | 10 中山雅史 | 11 鈴木隆行 | 12 楢崎正剛 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 中田浩二 | 17 宮本恒靖 | 18 小野伸二 | 19 小笠原満男 | 20 明神智和 | 21 戸田和幸 | 22 市川大祐 | 23 曽ヶ端準 | 監督 トルシエ |
日本代表 - 2000 シドニーオリンピック サッカー競技 | |
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1 楢崎正剛 | 2 中澤佑二 | 3 松田直樹 | 4 森岡隆三 | 5 宮本恒靖 | 6 稲本潤一 | 7 中田英寿 | 8 明神智和 | 9 平瀬智行 | 10 中村俊輔 | 11 三浦淳宏 | 12 酒井友之 | 13 柳沢敦 | 14 本山雅志 | 15 西紀寛 | 16 中田浩二 | 17 高原直泰 | 18 都築龍太 | 監督 トルシエ |