読売新聞大阪本社
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読売新聞大阪本社(よみうりしんぶんおおさかほんしゃ)は、京阪神など近畿地方と中国(山口県、島根県石見地区は除く)、四国、福井県並びに三重県伊賀地方向けに読売新聞を印刷・発行する読売新聞の地域本社である。読売新聞東京本社、読売新聞西部本社と共に読売新聞グループ本社の子会社の一つ。
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[編集] 歴史
1952年(昭和27年)11月25日、大阪府大阪市北区野崎町に於いて「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。東京の讀賣新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
[編集] 創刊までの経緯
1874年に東京で創刊され、東日本のブロック紙として急成長を遂げた読売新聞は、関西に於いては創刊から間もない明治初期、大阪に支店を、京都と神戸に売捌所(うりさばきしょ)を設置したことがあった。こうした経緯があったことから、戦前、当時の読売社長の正力松太郎は大阪にも読売新聞の発行本社を置くことを計画。しかし、第二次世界大戦で大阪進出は白紙となった。戦後間もない頃、大阪進出が本格化させる計画が始まった。"読売の大番頭"と呼ばれた務臺光雄が元読売新聞社会部記者で、「アサヒ芸能新聞社」(現・徳間書店)を経営していた竹井博友を呼び、大阪の拠点となる社屋の用地探しに回った。そのうち、阪神電気鉄道の仲介で大阪市北区野崎町に社屋に絶好の土地があると報告され、務臺がその土地を実地検分した際、野崎町に社屋を建てることを決めた。1951年7月28日、「新大阪印刷株式会社」という"覆面会社"が設立された。その頃、新聞の専売制度が義務付けられ、務台は大阪を地盤とする朝日新聞社、毎日新聞社の社長に読売の大阪進出を説明し、両社の了解を得た。そして、1952年10月5日、「新大阪印刷」は「大阪讀賣新聞社」と商号を変更。務臺は大阪読売の初代社長に、竹井は工務局長に就任し、近畿・中国・四国の有力新聞社から中堅の記者をスカウトし、新聞発行の基礎を固めた。そして、同年11月25日付朝刊から、大阪読売の発行が始まった。ちなみに、大阪読売が創刊されるまでの読売新聞本社の大阪支社は、読売と報道協力を結んでいた大阪新聞社(産経新聞)本社内にあった。
[編集] 販売店の名称
大阪管内の読売新聞販売店は「販売所」「専売所」と呼ばず、「直配所」と呼んでいた。なお、その後制定された新聞販売店の愛称は当初大阪本社独自ブランドの「読売IC」(大阪以外の各本社管轄地域は「YSC(読売サービスセンター)」)だったが、2000年の創刊125周年記念を契機に現在の全国統一ブランド・「YC」に変更され今日に至っている。
[編集] 大阪読売の"九州版"
創刊当初は、朝日新聞・毎日新聞が西部本社の管轄地域である九州地方全県と山口県・島根県石見地方でも夕方締め切りの大阪読売の朝刊早版(九州版・山口版)を発売していた。大阪で発行された九州版は、読者の元に届くのは昼過ぎの地域もあった(当時は高速道路が無かった時代で、遠隔地への新聞輸送は鉄道貨物が主流だった)。九州版は、名前の通り九州全県の地元ニュースを1つのページにまとめたものだった。九州版の部数は1万部弱だったものの、大分県では大阪読売の読者が5軒に1軒の割合で多かった。1964年9月、読売が西部本社版を北九州市で現地印刷を行うまで発行された。創刊当初は大阪版の紙面原稿を西部本社にファクシミリで送信したものを利用し、それを西部本社で製版していた(西部本社は2004年1月1日に福岡市に移転)。
[編集] 読売テレビを設立
大阪読売新聞社は、讀賣テレビ放送(読売テレビ(ytv))の設立にも関わった。当時の大阪読売社長・務臺光雄は「大阪にも読売系列のテレビ局を持つことが必要」と、務臺が発起人代表となって関西の財界から発起人集めを行い、1957年2月、「新大阪テレビ放送」の社名で郵政省に免許を申請し、1957年10月に予備免許が交付された。1958年2月12日に会社設立、8月1日に「讀賣テレビ放送」と社名を変更し、日本テレビ放送網(日テレ(NTV))をキー局とする日テレ系地方ネット局(ステーション・ネット)第1号として1958年8月28日に開局。そして、ytvの開局が大阪読売の部数増に繋がった。
[編集] 関西でも発行部数首位に
1970年代に入ってから、朝日・毎日・産経新聞といった大阪では老舗の全国紙と拡販競争を展開し、朝日・毎日・産経を抜いて大阪管内の全国紙で発行部数1位になった。
[編集] グループ再編
2002年7月1日、読売新聞グループの再編で、東京の株式会社読売新聞社は「株式会社読売新聞グループ本社」(持株会社)と「株式会社読売新聞東京本社」(東日本の読売新聞地域本社)の2つに分割され、大阪本社は株式交換により登記上の商号を「株式会社大阪讀賣新聞社」から「株式会社読売新聞大阪本社」に変更し、読売新聞グループ本社の完全子会社となった。
[編集] 備考
- 三重県の伊賀地域(伊賀市・名張市)では、中部読売新聞(現・読売新聞中部支社版)が1975年の創刊から発売されていたが、伊賀地域は京阪神の通勤圏域であり、関西のニュースを求める声が多いことや、他の全国紙が大阪本社の管轄でもあることから、中部読売が1988年6月1日に「讀賣新聞」に題号を変更した時に大阪本社の管轄に変更された(読売本体では東京の管轄であった)。なお、熊野市など東紀州地域では、朝日・毎日は大阪本社の管轄だが、読売だけ現在も中部支社の管轄である。
- 福井県では、大阪読売が創刊される前は東京本社の管轄だった。富山県・石川県を含む北陸地方3県では、戦前から東京の読売新聞が発売されていたが、福井県が関西に近いことから福井県のみ大阪の管轄に加えた。富山県・石川県は1961年に東京本社の出先機関として正力松太郎の出身地に近い富山県高岡市に北陸支社を設置し、高岡市での現地印刷を開始した。
- 大阪本社版は、東京本社版などと比べると、スポーツ面で地元球団である阪神タイガース(場合によってはオリックス・バファローズも)の記事の比重が大きめになっている(ただし自社製作能力が弱いスポーツ報知関西版はまだジャイアンツびいきの姿勢が強い)。余談だが近年の西部本社版でも福岡ソフトバンクホークスの扱いが大きくなりつつある。
- なお、スポーツ報知を発行する報知新聞社の大阪本社が2008年元日より読売大阪ビルに移転し、これでデイリースポーツ(神戸新聞系。ただし、日本経済新聞宅配所での販売もある)を除く全国発行のスポーツ紙の大阪本社は全て親会社の大阪本社に社屋を構えることになった。
[編集] 本社所在地
- 大阪府大阪市北区野崎町5-9 読売大阪ビル
[編集] 総局・支局
- 総局
- 支局
[編集] 印刷工場
- ※1=大阪オール印刷。
- ※2=北大阪オール印刷。
- ※3、※4=図書印刷の工場。
- ※5=サンケイ瀬戸内印刷に委託印刷。
- ※6=瀬戸内オール印刷。
[編集] 大阪読売出身のジャーナリスト
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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本社所在地 | 東京(読売新聞東京本社)1・大阪(読売新聞大阪本社)1・福岡(読売新聞西部本社)1 |
支社所在地 | 名古屋(読売新聞中部支社)・札幌(読売新聞北海道支社)・高岡(読売新聞北陸支社) |
主な刊行紙・刊行雑誌 | 読売新聞・ザ・デイリー読売・読売ウイークリー・大相撲・読売新聞縮刷版・読売新聞衛星版・中央公論・婦人公論 |
読売新聞社以外の新聞社 | 報知新聞社(スポーツ報知)・福島民友新聞2 |
出版社 | 中央公論新社1・旅行読売出版社 |
主要放送局3 | 日本テレビ・読売テレビ・CS日本・BS日テレ・RFラジオ日本 |
映像制作事業 | 読売映像 |
広告事業 | 読売メディアセンター・読売エージェンシー・読宣4・読売連合広告社4・大阪読売広告社4 |
折り込み広告事業 | 読売情報開発・読売インフォメーションサービス・ヨミックス5 |
人材派遣事業 | 東京読売サービス・大阪読売サービス・ヨミックス5 |
コンピュータソフトウェア開発事業 | よみうりコンピュータ・読売システック |
印刷事業 | 東京メディア制作 |
スポーツ・レジャー関係事業 | 読売ジャイアンツ1・日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ、日テレ・ベレーザ)6・よみうりランド・よみうりカントリークラブ |
小売・不動産事業関係 | プランタン銀座7・読売不動産 |
引越運送会社 | 読売引越センター |
文化事業関係 | 読売旅行・読売・日本テレビ文化センター・財団法人 読売日本交響楽団・ 学校法人 読売理工学院・専門学校 読売自動車大学校・社会福祉法人 読売光と愛の事業団・読売育英奨学会 |
海外現地法人 | 読売香港有限公司 |
人物 | 正力松太郎・正力亨・務臺光雄・竹井博友・小林與三次・渡邉恒雄・氏家齊一郎・長嶋茂雄 |
関連項目 | NNN・NNS・コボちゃん・yorimo・新s |
1中核子会社5社(読売新聞社も参照されたし) 2福島県の地方紙 3主要な放送局のみ掲載 4大阪本社が出資 5北海道を中心に折り込み広告事業、人材派遣事業を行う会社 6日本テレビ100%の子会社 7建物の所有のみ行う。小売の運営は事実上、三越が中心となって支援している |