呂比須ワグナー
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呂比須 ワグナー | ||
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名前 | ||
カタカナ | ロペス ワグナー | |
ラテン文字 | LOPES Wagner | |
帰化前 | Wagner Augusto LOPES | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1969年1月29日(39歳) | |
出身地 | ブラジル | |
身長 | 182cm | |
体重 | 75kg | |
血液型 | O型 | |
選手情報 | ||
ポジション | FW | |
利き足 | 右足 | |
代表歴 | ||
1997-1999 | 日本 | 20 (5)
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呂比須 ワグナー(ロペス ワグナー、LOPES Wagner、1969年1月29日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手。1997年に日本へ帰化した。現在は、ブラジルのパウリスタFCでアシスタントコーチを務めている。
目次 |
[編集] 来歴
サンパウロ州フランカ市で8人兄弟の末っ子として生まれる。 幼少時代は決して裕福とは言えず10歳の頃から学業の傍ら兄が経営する靴工場で働き、週末には地元のサッカークラブ、インテルナシオナルFCで練習する日々を送った。
1986年にサンパウロFCとプロ契約を結ぶも出場機会に恵まれずにいたロペスは、元ブラジル代表のオスカーの誘いを受けて1987年に日本に渡り、日産自動車サッカー部に加入する。3年間にわたって活躍、チームの黄金期を支えるが、フォワードのポジション争いだけでなく外国人枠の問題もあり、日立に移籍する。
移籍後は日立/柏レイソルのエースストライカーとして活躍、1992年にはJFLの得点王となり、ベストイレブンに選ばれる。翌1993年もベストイレブンと得点ランク2位の座を獲得する。
しかし、ここでも外国人枠の問題に悩まされることになる。1993年に世界的スーパースターのカレカが加入、元ブラジル代表のネルシーニョとともに外国人枠の2つを占めるため、残りの一枠を他の外国人選手と争うことになった。そこで、柏での生活にも慣れたロペスは、日本への帰化を考えるようになる。その矢先、1994年から元ブラジル代表のミューレルが加入することが決まり、クラブから解雇通告を受ける。
1994年、本田技研工業に移籍したロペスは、ここでも大活躍。1996年にはクラブは初のJFL優勝を果たし、自らも得点王となる。
1997年、本田での活躍が認められ、Jリーグのベルマーレ平塚へと移籍。そしてマスコミに、浜松に転居してから一から帰化申請をやり直してきたことが伝わると、ワールドカップ フランス大会の予選に苦戦していた日本代表に、突如としてロペス待望論が沸き起こる。すると、それまで苦労してきたことが嘘のように、トントン拍子に日本への帰化が認められる運びになった。9月に日本国籍を取得すると、名前をそれまでのワグネル・ロペスから呂比須ワグナー(当初はポルトガル語読みの呂比須ワグネルだったが、後日に英語読みのワグナーに訂正)へと改め、直後に日本代表にも選出された。以後テクニックの高さと空中戦の強さを兼ね備えたFWとして活躍。1998年にベルマーレの経営危機が起き、高額な給与をクラブが支えきれなくなり、1999年に名古屋グランパスエイトに移籍、その後FC東京、アビスパ福岡でもプレーし、2002年に現役引退。12月8日(日)に博多の森球技場で行われた天皇杯2回戦(栃木SC戦)が最後の公式戦出場となった。
「日本が大好きだから、日本サッカーの役に立てる仕事をしたい」と望んでいた呂比須だったが、日本では他国と比較して現役時代活躍した選手でも指導者ライセンス取得には厳しい条件があり、取得に時間が掛かることも要因となり望むようなオファーは掛からなかったため、現在は仕事の拠点をサンパウロに移し、ブラジルのクラブチーム、パウリスタFCのアシスタントコーチを務めている。
[編集] 日本代表
1997年9月12日に帰化すると、その16日後に行われたワールドカップフランス大会予選の対韓国戦で日本代表として国立競技場のピッチに立った。
代表初ゴールは同年10月11日のアウェーでのウズベキスタン戦であった。後半44分、井原正巳のパスを頭で合わせてゴールを決め1対1の同点にし、この試合を引き分けに持ち込んだ。この試合の直前に加茂周監督は更迭され、負ければ本大会出場は絶望といわれていただけに呂比須のゴールは日本代表を本大会出場へと導く重要な1点であった。続く10月26日の国立競技場でのUAE戦では前半開始早々にカズから受けたボールをリフティングで相手をかわし、ゴールまで長い距離があったものの、そのままボレー、ゴールに突き刺すという華麗なテクニックで2点目を奪っている。続く11月1日のアウェーでの日韓戦でも得点をし、3試合連続得点。ところが、イランとの第三代表決定戦の直前に母ルジアが病死する。それでも呂比須は最後まで戦い抜きたいという思いを貫き、イラン戦に途中出場し奮闘。日本のワールドカップ初出場への大きな原動力となった。当時の日本のエース・カズの不調を補った功績は非常に大きく、呂比須なしではフランスには行けなかったと考えられる。
1998年に行われた本大会では途中出場ながら3試合に出場。対ジャマイカ戦では中山雅史のワールドカップにおける日本人初ゴールのアシストを記録した。
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1998年 FIFAワールドカップフランス大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 20試合 5得点(1997-1999)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1997 | 6 | 3 |
1998 | 7 | 0 |
1999 | 7 | 2 |
通算 | 20 | 5 |
[編集] 関連項目
[編集] 主な成績
1992年、1995年、1996年と三度JFL得点王に輝く。
ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)在籍時の2年間とも、チーム得点王になるなど存在感は飛びぬけていた。
日本リーグ、JFL、Jリーグの合計得点で釜本邦茂の202ゴールを超えて203ゴールとなった。
2002年10月19日(土)、博多の森球技場でのヴァンフォーレ甲府戦のゴールが203ゴール目であった。なお後日、福岡のローカルTV番組の企画で203ゴール目を決めたボールは、呂比須本人にプレゼントされた。(番組では試合で使われた複数のボールのうちのどのボールがゴールしたボールかをカメラで追って判別した)
[編集] 所属クラブ
- 1985年 - 1987年 サンパウロFC(ブラジル)
- 1987年 - 1990年 日産自動車(日本)
- 1990年 - 1994年日立製作所/柏レイソル(日本)
- 1995年 - 1996年 本田技研(日本)
- 1997年 - 1998年 ベルマーレ平塚(日本)
- 1999年 - 2000年 名古屋グランパスエイト(日本)
- 2001年 FC東京(日本)
- 2001年 - 2002年 アビスパ福岡(日本)
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1985 | サンパウロ | 全国選手権 | |||||||||
1986 | サンパウロ | 全国選手権 | |||||||||
1987 | サンパウロ | 全国選手権 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1987-88 | 日産 | JSL1部 | 21 | 8 | |||||||
1988-89 | 日産 | JSL1部 | 15 | 3 | |||||||
1989-90 | 日産 | JSL1部 | 13 | 1 | |||||||
1990-91 | 日立 | JSL2部 | 23 | 33 | |||||||
1991-92 | 日立 | 7 | JSL1部 | 20 | 4 | ||||||
1992 | 日立 | 旧JFL1部 | 17 | 13 | - | ||||||
1993 | 柏 | 10 | 旧JFL1部 | 18 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18 | 18 |
1994 | 柏 | 16 | 旧JFL | 18 | 17 | 1 | 0 | 0 | 0 | 19 | 17 |
1995 | 本田 | 9 | 旧JFL | 30 | 31 | - | 1 | 0 | 31 | 31 | |
1996 | 本田 | 9 | 旧JFL | 30 | 36 | - | 2 | 1 | 32 | 37 | |
1997 | 平塚 | 10 | J | 27 | 18 | 6 | 8 | 3 | 4 | 36 | 30 |
1998 | 平塚 | 10 | J | 29 | 18 | 0 | 0 | 2 | 0 | 31 | 18 |
1999 | 名古屋 | 30 | J1 | 23 | 13 | 6 | 4 | 5 | 2 | 34 | 19 |
2000 | 名古屋 | 30 | J1 | 28 | 10 | 4 | 0 | 1 | 1 | 33 | 11 |
2001 | FC東京 | 9 | J1 | 10 | 3 | 2 | 4 | - | 12 | 7 | |
2001 | 福岡 | 39 | J1 | 8 | 7 | - | 0 | 0 | 8 | 7 | |
2002 | 福岡 | 9 | J2 | 19 | 6 | - | 2 | 0 | 21 | 6 | |
通算 | ブラジル | 全国選手権 | |||||||||
日本 | J1 | 125 | 69 | 18 | 16 | 11 | 7 | 154 | 92 | ||
日本 | J2 | 19 | 6 | - | 2 | 0 | 21 | 6 | |||
日本 | JSL1部 | 69 | 16 | ||||||||
日本 | JSL2部 | 23 | 33 | ||||||||
日本 | 旧JFL1部 | 113 | 115 | 1 | 0 | ||||||
総通算 |
[編集] 指導歴
- パウリスタFCアシスタントコーチ(ブラジル) 2005年 - 現在
[編集] 著書
- 呂比須(小学館、1998年)
[編集] 外部リンク
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1 小島伸幸 | 2 名良橋晃 | 3 相馬直樹 | 4 井原正巳 | 5 小村徳男 | 6 山口素弘 | 7 伊東輝悦 | 8 中田英寿 | 9 中山雅史 | 10 名波浩 | 11 小野伸二 | 12 呂比須ワグナー | 13 服部年宏 | 14 岡野雅行 | 15 森島寛晃 | 16 斉藤俊秀 | 17 秋田豊 | 18 城彰二 | 19 中西永輔 | 20 川口能活 | 21 楢崎正剛 | 22 平野孝 | 監督 岡田武史 |