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中西 永輔 |
名前 |
愛称 |
えーすけ |
カタカナ |
ナカニシ エイスケ |
ラテン文字 |
NAKANISHI Eisuke |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
生年月日 |
1973年6月23日(34歳) |
出身地 |
三重県鈴鹿市 |
身長 |
174cm |
体重 |
73kg |
血液型 |
O型 |
選手情報 |
ポジション |
DF |
利き足 |
右足 |
代表歴 |
1997-2002 |
日本 |
14 (0)
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
|
中西 永輔(なかにし えいすけ、1973年6月23日 - )は三重県鈴鹿市出身の元サッカー選手。ポジションはDF。元日本代表。
[編集] 来歴・人物
高校時代は、小倉隆史、中田一三とともに「四中工ゴールデントリオ」と呼ばれ活躍し、選手権を制覇。1992年にジェフユナイテッド市原(当時)に入団。
長く「クラブの顔」としてサポーターに愛されてきたが、2004年にクラブから戦力外通告を受け、横浜F・マリノスへ移る。新天地ではスタメンを外れることが多かったが、2005年シーズン、第15節の名古屋グランパスエイト戦で史上10人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。2006年11月28日、クラブから戦力外通告を受け退団。その後移籍先を模索していたが、2007年6月22日に現役引退が発表された。 2008年3月、元日本代表松原良香が主催する『フェリーチェFC』[1]のコーチに就任した。
[編集] プレースタイル
- DFではあるが、MF、FWもこなす万能性がある。「器用貧乏」と揶揄されることもあるが、どのポジションでも高いレベルでの仕事をこなせる「ユーティリティー・プレーヤー」として、周囲の評価は高い。
- 強靭なフィジカルと抜群の運動神経を持ち、足も実に速い。
- その反面、試合中に集中が途切れることがあり、反応の遅れから相手選手をバックチャージしてしまうなど、よく警告をもらう。なお、98年のW杯では2試合(アルゼンチン戦・クロアチア戦)でそれぞれ警告を受け、その累積のため第3戦(ジャマイカ戦)には出場できなかった(代わりに出場したのは小村徳男)。
- ゴールを決めた後に「バック宙」を披露していた。横浜移籍後もそのパフォーマンスを期待されたが、得点を挙げることは出来ず披露できなかった。
[編集] 所属クラブ
- 1980年 - 1985年 愛宕サッカー少年団
- 1986年 - 1988年 鈴鹿市立白子中学校
- 1989年 - 1991年 四日市中央工業高校
- 1990年全国高校サッカー選手権出場。高校総体出場。
- 1991年全国高校サッカー選手権優勝(帝京高校と両校同時優勝)。高校総体3位。
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 |
年度 |
クラブ |
背番号 |
リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
オープン杯 |
期間通算 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
1992 |
市原 |
- |
J |
- |
7 |
0 |
|
|
|
|
1993 |
市原 |
- |
J |
32 |
2 |
6 |
3 |
1 |
0 |
39 |
5 |
1994 |
市原 |
- |
J |
22 |
1 |
2 |
0 |
1 |
0 |
25 |
1 |
1995 |
市原 |
- |
J |
31 |
5 |
- |
1 |
0 |
32 |
5 |
1996 |
市原 |
- |
J |
20 |
5 |
10 |
1 |
0 |
0 |
30 |
6 |
1997 |
市原 |
2 |
J |
18 |
4 |
6 |
1 |
1 |
1 |
25 |
6 |
1998 |
市原 |
2 |
J |
22 |
2 |
2 |
0 |
1 |
0 |
25 |
2 |
1999 |
市原 |
2 |
J1 |
26 |
9 |
1 |
0 |
1 |
1 |
28 |
10 |
2000 |
市原 |
2 |
J1 |
27 |
3 |
1 |
0 |
3 |
0 |
31 |
3 |
2001 |
市原 |
2 |
J1 |
29 |
3 |
4 |
0 |
3 |
2 |
36 |
5 |
2002 |
市原 |
2 |
J1 |
24 |
0 |
4 |
0 |
2 |
0 |
30 |
0 |
2003 |
市原 |
2 |
J1 |
22 |
0 |
2 |
1 |
0 |
0 |
24 |
1 |
2004 |
横浜FM |
2 |
J1 |
20 |
0 |
6 |
0 |
0 |
0 |
26 |
0 |
2005 |
横浜FM |
2 |
J1 |
13 |
0 |
1 |
0 |
2 |
0 |
16 |
0 |
2006 |
横浜FM |
2 |
J1 |
3 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
6 |
0 |
通算 |
日本 |
J1 |
309 |
34 |
55 |
6 |
|
|
|
|
総通算 |
309 |
34 |
55 |
6 |
|
|
|
|
国際大会個人成績 |
年度 |
クラブ |
背番号 |
出場 |
得点 |
AFC |
ACL |
2004 |
横浜FM |
2 |
3 |
0 |
2005 |
横浜FM |
2 |
3 |
0 |
通算 |
AFC |
6 |
0 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 14試合 0得点(1997-2002)
日本代表 |
国際Aマッチ |
年 |
出場 |
得点 |
1997 |
5 |
0 |
1998 |
6 |
0 |
1999 |
1 |
0 |
2000 |
1 |
0 |
2001 |
0 |
0 |
2002 |
1 |
0 |
通算 |
14 |
0 |
[編集] 関連項目
[編集] 備考
- ジェフ市原(当時)が1998年から3年連続で残留争いをしていた時は、時折スーパーサブのFWとして出場し、J1残留に大きく貢献した。チーム事情でジェフを去らざるをえなかった中西だが、もっとも苦しい時期のジェフで共に戦った選手として、いまなお中西を愛するジェフ・サポーターは少なくない。
- そのジェフではタイトルを手にすることができなかったが、横浜加入1年目にしてJ1リーグ戦1stステージ優勝を経験。さらに同年2ndステージ覇者の浦和レッズと年間王者を争う、サントリーチャンピオンシップではボランチとして2試合に出場。第2戦では後半にファウルを犯して退場してしまったが、チームはPK戦で浦和を破り、見事2年連続チャンピオンの座についた。
- 釣りが趣味。
- 夫婦そろっての愛猫家である。
- 1995年4月15日のヴェルディ川崎戦で、相手MFラモス瑠偉と競り合いながらハンドでトラップし、後藤義一のVゴールをアシストしたプレーが物議を醸した。
[編集] 外部リンク