クロアチア
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- クロアチア共和国
- Republika Hrvatska
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(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 私達の美しい故国
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公用語 クロアチア語 首都 ザグレブ 最大の都市 ザグレブ 独立
- 日付ユーゴスラヴィアよりから
1991年6月25日通貨 クーナ (kn)(HRK) 時間帯 UTC +1(DST: +2) ccTLD HR 国際電話番号 385
クロアチア共和国(Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。
1991年にそれまで連邦を構成していた旧ユーゴスラヴィアから独立した。
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[編集] 国名
正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska。通称 Hrvatska(フルヴァツカ)。
公式の英語表記は、Republic of Croatia(リパブリック・オブ・クロウエイシァ)。通称、Croatia(クロウエイシァ)。
日本語の表記は、クロアチア共和国。通称、クロアチア。クロアチア語による正式名称はフルヴァツカだが、フルヴァツカと表記されることは余りない。ネクタイはもともとクロアチア人の風習であったことから、クロアチアに由来する名称でネクタイを指す言語もある(フランス語:cravateやスペイン語:corbataなど)。
[編集] 歴史
[編集] クロアチア統一
9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方からビザンツ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチアはカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴ1世のもとで発展をとげるが、彼の死後しばらくして後継者争いから内乱へ突入した。
[編集] 同君連合
このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーン1世が、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。
[編集] オーストリア・ハンガリー帝国
この後15世紀にはオスマン帝国に征服されその領域に組み込まれるが、18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている。1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチアに対して認めていた自治権も併せて実態的には「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。
一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になるまでヴェネツィアの支配が続く。なおオーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。
[編集] ユーゴスラヴィア
1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したクロアチアは、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラヴィアに改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定したが不完全な対応であった。
クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パベリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラヴィアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。以降、セルビア人勢力のチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。以降1945年に戦闘が終結するまでの4年の間セルビア人が強制収容所などで70万人が虐殺されたとセルビアは主張している。一方でクロアチアはその数はおおげさだとしており、ほぼ同数のクロアチア人がセルビア人によって虐殺されたと主張している。この論争は後のクロアチア紛争の火種となり、クロアチア紛争でも同じような論争が繰り返されることになった。
ユーゴスラヴィアの混乱状態は、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラヴィアが自力開放されることにによって収束された。戦後、以前のユーゴスラヴィアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラヴィアは維持されたが、1980年にチトーが死去するとそれまで押さえ込まれていた各民族の不満が噴出しはじめた。クロアチアでは歴史的な経緯も含めてセルビアに対する反発が強く、特に1980年代半ばからセルビア民族主義を掲げるソロボダン・ミロシェビッチが登場するとその不満はピークに達した。
[編集] 独立
東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラヴィアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された。クロアチアではユーゴスラヴィアからの分離独立を掲げるスティエパン・メシッチが政権を掌握。以降ユーゴスラヴィア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。
1991年3月2日には、西スラヴォニアの帰属をめぐってユーゴスラヴィア連邦軍とクロアチア警察の間で睨み合う事態となり、3月31日にはプリトビツァで両者が衝突。死者を出す事態となった。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%の賛成。これを受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。
一方で、ユーゴスラヴィア連邦軍は、クロアチア領内でもセルビア人が多く、クロアチアの独立に反対していたクライナ・セルビア人自治区のセルビア人保護を目的にクロアチアに侵入。クロアチア軍は9月半ばにはユーゴスラヴィア軍との全面衝突となりクロアチア紛争の激化に繋がった。1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者と難民を生み出した。
[編集] 政治
[編集] クロアチアのEU加盟問題
クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉の開始は、既にEUからの承認を得ており、2005年中に加盟交渉が開始されるスケジュールが組み立てられていた。EUへの加盟時期は未定であるが、2008年1月に新内閣を発足させたサナデル首相は2010年の加入を目指すとしている。クロアチアのEU加盟がなれば旧ユーゴスラヴィア構成国家での中ではスロヴェニアに続く2例目となる。
ただしクロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダのハーグに設置されている旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされない事を理由に見送られる事になった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議においてトルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。
当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトビナは同年12月初頭にスペインのカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷に移送された。
[編集] 地方行政区分
詳細はクロアチアの地域区分、クロアチアの都市をそれぞれ参照
クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。
[編集] 地理
クロアチアの国土は大まかに
の4地方に分かれる。
ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのネウムによって分離され、飛び地となっている。他国を通過せずに移動できるようにするため、ドゥブロヴニク側から伸びるペルジェサク半島とクロアチア本土との間に、長大橋「ペルジェサク橋」の建設が進められている。
[編集] 経済
[編集] 鉱業
クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。
[編集] 国民
住民は、クロアチア人が89.6%である。その他、セルビア人が4.5%、ボシュニャク人が0.5%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡したものと見られている。なお2008年1月に発足した内閣には国内少数派の代表として、セルビア人のスロボダン・ウゼラクが副首相として入閣した。
[編集] 言語
言語は、クロアチア語が公用語であり、広く使われている(96%)。一部セルビア語を使うものもいる(1%)が、この二つは文字が違う(セルビア語はキリル文字を使用)くらいでほとんど同じ言葉である。
[編集] 宗教
宗教は、大部分がローマ・カトリックである(87.8%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。
[編集] 文化
[編集] 音楽
クロアチアの民俗音楽は、地域によって大きく異なる。北部では旋律やリズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン・ツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。
[編集] ディスコグラフィー
- "Songs & Dances from Croatia"(Zagreb Folk Dance Ensemble / Dr.Ivan Ivančan - Mentor / EUCD 1500, dinaton & ®©1900, ARC Music Productions Int.Ltd.)
- "Folk Music from Croatia"(Tamburaski Sastav "Veritas"(Tambura Ensemble "Veritas") / EUCD 1078, ARC M.P.Int.Ltd.)
[編集] 食文化
[編集] 世界遺産
クロアチア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が1件ある。詳細はクロアチアの世界遺産を参照されたい。
[編集] 祝祭日
日付 | 日本語表記 | クロアチア語表記 | 備考 |
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1月1日 | 元日 | Nova Godina(ノヴァ・ゴディナ) | |
... | 復活祭および復活祭後の月曜日 | Uskrs i Uskršnji ponedjeljak(ウスクルス・イ・ウスクルシニ・ポネディイェルイェヤク) | 変動あり |
5月1日 | メーデー | Međunarodni praznik rada(メジュナロドニー・プラズニク・ラダ) | |
イースターより60日後 | 聖体の祝日 | Tjelovo (ティイェロヴォー) | 移動祝日 |
6月22日 | 反ファシスト闘争記念日 | Dan antifašističke borbe(ダン・アンティファシスティチュケ・ボルベ) | |
6月25日 | 国家の日 | Dan državnosti(ダン・ドルジャヴノスティ) | |
8月5日 | 解放の日 | Dan pobjede i Dan domovinske zahvalnosti(ダン・ポブイェデ・イ・ダン・ドモヴィンスケ・ザファルノスティ) | |
8月15日 | 聖母被昇天の祭日 | Velika Gospa(ヴェリカ・ゴースパ) | |
10月8日 | 独立記念日 | Dan nezavisnosti(ダン・ネザヴィスノスティ) | |
11月1日 | 諸聖人の日 | Dan svih svetih(ダン・スヴィ・スヴェーティー) | |
12月25日 | クリスマス | Božić(ボージチュ) | |
12月26日 | 聖ステファノ殉教者の祝日 | Sveti Stjepan(スヴェーティー・スティエパン) |
[編集] スポーツ
[編集] 出身者
[編集] 関連項目
- クロアチア関連記事の一覧
- クロアチア関係記事の一覧
- クロアチアの通信網
- クロアチアの交通網
[編集] 外部リンク
- 政府
- クロアチア共和国政府 (クロアチア語)(英語)
- クロアチア大統領府 (クロアチア語)(英語)
- 日系機関
- 旅行
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北欧諸国 | アイスランド | スウェーデン | デンマーク | ノルウェー | フィンランド |
バルト三国 | エストニア | ラトビア | リトアニア |
その他 | 沿ドニエストル | コソボ |
地域 | イギリス:ガーンジー島 - ジブラルタル - ジャージー島 - マン島 - アクロティリ・デケリア¹ | デンマーク:フェロー諸島 | ノルウェー:スヴァールバル諸島 | フィンランド:オーランド諸島 |
バチカンは国際連合非加盟。「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国、あるいは独立主張をしている国。国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。
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