萩原淳 (野球)
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萩原 淳 東京ヤクルトスワローズ No.48 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都西東京市 |
生年月日 | 1973年8月20日(34歳) |
身長 体重 |
182cm 95kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1991年 2位 |
初出場 | 1996年8月1日 |
年俸 | 1,000万円(推定) |
経歴 | |
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■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
萩原 淳(はぎわら じゅん、1973年8月20日 - )は、東京都西東京市出身のプロ野球選手(投手)である。東京ヤクルトスワローズに所属する。
プロ入り9年目にして内野手から投手に転向した、異色の選手として知られている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
東海大甲府高校で、1990年と1991年に選抜大会に出場。高校通算25本塁打の強打を誇り、強肩強打が売りの内野手として注目を集めた。1991年秋にドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ)に指名された。同期入団の田口壮(現・フィラデルフィア・フィリーズ)やイチロー(現・シアトル・マリナーズ)と同じく期待されたが、なかなか野手としての才能が開花せず、プロ入り9年間で6打数1安打に終わる。2000年シーズン途中に、当時のオリックスの監督・仰木彬の指示を受けて投手に転向した。
転向後2年目の2001年に一軍初登板。1イニングを無失点に抑えた。2002年には直球を武器に活躍し、夏場にはヘルニアで離脱した大久保勝信の後を受けて一時抑えも務め、48試合で防御率2.64、チーム最多の10セーブを記録した。当初は変化球を投げられず、以降2年間は防御率は悪化したが、新たにカーブを習得し、中継ぎ投手として活躍した。
2005年は中継ぎだけでなく、中1日で先発したり(3イニング限定)、8回から延長12回まで一人で投げぬいたりとフル稼働し、49試合に登板して81イニングを投げ、3勝2敗1セーブ、防御率3.89という好成績を挙げた。2006年シーズンは不本意な成績だったが、5年連続30試合以上の登板とタフな所を見せている。
2007年は制球難に苦しみ、開幕から出番を得られなかった。6月28日、清水章夫・木元邦之との交換トレードで歌藤達夫とともに北海道日本ハムファイターズへ移籍した。シーズンが終盤に差し掛かるにつれて徐々に安定感を発揮し始め、9月28日に移籍後初勝利。11月2日には日本シリーズにも中継ぎとして登板するも、閉幕すると日本ハムから戦力外通告を受けた。
11月7日の12球団合同トライアウト参加直後、その年まで日本ハムのゼネラルマネージャーを務めていた高田繁が監督に就任した東京ヤクルトスワローズから契約の誘いを受け、12月4日に入団した。
2008年はロングリリーフや敗戦処理ながらも完全に再生を果たし、度々150km/hを超える速球を連発するなど安定した投球をみせ、磐石のリリーフ陣の一角を担っている。
[編集] エピソード
- 仰木彬が1994年から8年間オリックス監督を務めていた時に野手から投手に転向したのは、萩原以外に嘉勢敏弘と今村文昭がいる。しかし嘉勢と今村が高校時代はエースだったのに対して、萩原は投手経験がまったくなかった。
- 2試合連続で先発投手を務めたことがある。2005年6月5日の広島東洋カープ戦では3回を2安打無失点、移動日を挟んだ6月7日の阪神タイガース戦では3回1失点と言う成績であった。
- 2006年のオリックスの宮古島キャンプに同級生のイチローが訪れ、旧交を温めた。その際イチローは紅白戦に出場し、そこで萩原と対戦した。高校時代に「投手・鈴木」と「打者・萩原」として対戦したことがある2人は(結果はイチローが完璧に萩原を抑え込む)、その頃と立場が全く逆になって対戦することに対し感慨深いものがあったという。結果はイチローが「あいつに抑えられるわけにはいきませんから」の宣言どおりヒットを放ち、高校時代からイチローの2連勝となった。
- かつてオリックスで打撃コーチを務めた新井宏昌(現・福岡ソフトバンクホークス打撃コーチ)は、身体能力が抜群だった萩原が野手として大成しなかった理由として「動体視力(瞬時にボールの変化や遠近感を捉える能力)が他の選手に比べて少し弱かったのでは」と語っている。
- オリックス時代は、オフシーズンになると神戸市をサブホームとするアジアリーグアイスホッケーの日光神戸アイスバックスの応援にも駆けつけていた。観戦成績は非常によく、アイスバックス側からもオリックス時代と同じ42番のジャージを進呈されている。ちなみに萩原本人は西東京市出身ということもあり東伏見アイスアリーナにも子供の頃にアイスホッケー観戦に来ていた。
[編集] プロフィール
[編集] 背番号
- 55(1992年~2001年)
- 42(2002年~2007年途中)
- 19(2007年途中)
- 48(2008年~)
[編集] 年度別成績(一軍)
年度 | チーム | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 完投 | 完封 | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 失点 | 防御率 |
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2001 | オリックス | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0.00 |
2002 | オリックス | 48 | 3 | 4 | 10 | 0 | 0 | 64 2/3 | 27 | 55 | 19 | 2.64 |
2003 | オリックス | 42 | 1 | 3 | 4 | 0 | 0 | 61 1/3 | 47 | 57 | 49 | 6.90 |
2004 | オリックス | 33 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 36 | 29 | 26 | 28 | 7.00 |
2005 | オリックス | 49 | 3 | 2 | 1 | 0 | 0 | 81 | 37 | 73 | 41 | 3.89 |
2006 | オリックス | 33 | 3 | 4 | 0 | 0 | 0 | 49 | 30 | 31 | 29 | 5.14 |
2007 | 北海道日本ハム | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 5 | 5 | 5 | 5.63 |
通算(7年) | 211 | 11 | 14 | 15 | 0 | 0 | 301 | 176 | 248 | 171 | 4.84 |
[編集] 初記録
打撃記録
- 初出場:1996年8月1日、対西武ライオンズ18回戦(グリーンスタジアム神戸) - 九番・三塁手として先発
- 初安打:同上
投手記録
- 初登板:2001年6月18日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(グリーンスタジアム神戸) - 9回表当初から救援(打者:渡辺正人)
- 初奪三振:同上(打者:橋本将)
- 初勝利:2002年7月21日、対福岡ダイエーホークス14回戦(福岡ドーム)
- 初セーブ:2002年8月6日、対日本ハムファイターズ17回戦(東京ドーム)
- 初先発:2003年7月30日、対日本ハム18回戦(Yahoo!BBスタジアム)
[編集] 関連項目
監督 |
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88高田繁 |
コーチ |
80小川淳司(ヘッド)|77八重樫幸雄(打撃)|73大田卓司(打撃)|72荒木大輔(投手)|84伊藤智仁(投手)|83馬場敏史(内野守備走塁)|85飯田哲也(外野守備走塁)|71中西親志(バッテリー)|81長田孝幸(コンディショニング) |
二軍監督・コーチ |
89猿渡寛茂(監督)|99山部太(投手兼トレーニング)|74八木沢荘六(投手)|75土橋勝征(打撃)|79淡口憲治(打撃)|76角富士夫(内野守備走塁)|82佐藤真一(外野守備走塁)|97高橋寛(育成)|92中村達昭(コンディショニング) |
投手 |
11由規|12林昌勇|13佐藤賢|14高市俊|15村中恭兵|16加藤幹典|17川島亮|19石川雅規|20鎌田祐哉|21松岡健一|22増渕竜義|24花田真人|25館山昌平|26岡本秀寛|30西崎聡|34リオス|35橋本義隆|41高井雄平|42木田優夫|44松井光介|47遠藤政隆|48萩原淳|52伊藤秀範|53五十嵐亮太|57丸山貴史|58高木啓充|61石井弘寿|62吉川昌宏|63山本斉|65押本健彦|66山田弘喜|68上原厚治郎|70河端龍|78ゴンザレス |
捕手 |
28川本良平|32小野公誠|37福川将和|38衣川篤史|51米野智人|59水野祐希|112小山田貴雄(育成選手) |
内野手 |
00川島慶三|2リグス|4度会博文|6宮本慎也|7田中浩康|10城石憲之|33畠山和洋|36川端慎吾|39梶本勇介|40大原秉秀|45ウィルソン|46鬼崎裕司|55野口祥順|60三輪正義|67大塚淳 |
外野手 |
0志田宗大|5ガイエル|8武内晋一|9飯原誉士|23青木宣親|29福地寿樹|31真中満|43宮出隆自|49松元ユウイチ|50上田剛史|54斉藤宜之|56中尾敏浩|64牧谷宇佐美 |
オリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ) 1991年ドラフト指名選手 |
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1位:田口壮 / 2位:萩原淳 / 3位:本東洋 / 4位:鈴木一朗 / 5位:北川晋 / 6位:西芳弘 / 7位:山本大貴 |