淡口憲治
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淡口 憲治 東京ヤクルトスワローズ No.79 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県西宮市 |
生年月日 | 1952年4月5日(56歳) |
身長 体重 |
173cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1970年 3位 |
初出場 | 1971年5月25日 ヤクルト戦(神宮) |
最終出場 | 1989年10月15日 西武戦(藤井寺) |
経歴 | |
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淡口 憲治(あわぐち けんじ、1952年4月5日 - )は、読売ジャイアンツ(巨人)や近鉄バファローズに所属していた元プロ野球選手。兵庫県出身。右投げ左打ち。ポジションは外野手。2008年現在は東京ヤクルトスワローズの二軍打撃コーチを務めている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
三田学園高校在学中の1970年のドラフト会議で読売ジャイアンツに3位指名され入団。当時の川上哲治監督の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。1974年頃から頭角を現し、翌1975年には規定打席不足ながらも打率.293の成績を残し、将来を嘱望された。
だが1976年に日本ハムファイターズから張本勲がトレードで移籍してくると、張本、柳田俊郎、末次利光との外野手のレギュラー争いが激化。これに敗れた淡口は代打での起用が多くなる。1983年にはプロ入り初の規定打席到達を果たし、打率.302の成績をマークするが、駒田徳広や吉村禎章といった若手の台頭もあり年々出場機会が減少していった。
- 巨人に入団当時のニックネームは「ネンキン(年金)」だった。これは考え方がしっかりしていて、人生設計ができる高校生だったから。入団当時は「35歳までプレーできれば…」と考えていたが、引退したのはそれより2年遅い37歳の時である。
- 打席で腰を小さくプリっと振る打法で全国的に有名になり、全国の小学生が「バッター、淡口」と言いながら、尻を振るマネが当時流行った。これは体が早く開く癖があり、これを改善する為に独自で編み出した。
- ゴロ、ライナーの打球がコンコルドのように鋭く速いことから『コンコルド打法』と呼ばれた。全盛期に後楽園球場に備え付けられた超高速カメラで、バットスイングのスピードを計測したら王貞治より速かったことがある。[要出典]
- ある時、淡口を代打に送ろうとした長嶋茂雄監督が、バントの構えをして「代打、淡口」と球審に告げた。
- 1983年10月2日の広島東洋カープ戦、三塁から本塁に滑り込んだ際達川光男に蹴られた事に激怒し殴りかかって退場。藤田元司監督、王貞治助監督と共にベンチから抗議した。
1985年オフに、有田修三とのトレードで山岡勝とともに近鉄バファローズに移籍した。もともとは有田と定岡正二とを交換することが近鉄・巨人両球団間で合意に達していたが、巨人が定岡に通告したところ定岡は「トレードならユニフォームを脱ぐ」と拒否、現役を引退した。代わりに移籍したのが淡口(と山岡)である。淡口も最初は戸惑ったが、大阪府を本拠地とする近鉄に移籍すれば当時兵庫県西宮市に住んでいた母親にいつでも顔を見せることができる、とトレードを承諾した。
移籍1年目の1986年に115試合出場、打率.297の成績を残し、外野手のレギュラーを獲得。1988年の「10.19」にも出場している。1989年の日本シリーズで巨人と対戦し、第2戦で桑田真澄から同点タイムリーを放つ。この日本シリーズを花道に現役引退した。
引退後、1990年から2005年まで巨人の打撃コーチ、二軍監督を務めた。特に新人時代の松井秀喜、清水隆行などに「ウォーキング打法」を教え、主力打者に育て上げた。
- 巨人二軍監督時代の2002年1月12日、「サタデー・ウェイティング・バー」(エフエム東京)の「家族特集・成人式」に、広告代理店勤務の長男と出演し、子供から見た野球選手の父親とはどういう姿なのかというテーマで、対談形式で語った。[1]
2006年から2007年まで日本ハムの打撃コーチを担当した。日本ハムは当時、巨人時代の同僚・高田繁がゼネラルマネージャーを務めていた。数年に1回3割を打つ程度だった稲葉篤紀を覚醒させ、日本ハムでも中~短距離打者(特に左打者)の指導に実績を残した。反面、自分とタイプの異なる打者(右の長距離打者など)の指導は苦手なようで、左の長距離打者が不在だった2007年の日本ハム打線は得点と本塁打数がリーグ最少、チーム打率は同5位と低迷した。巨人コーチ時代も同様の状況で、チームが貧打に陥ったときがあった(巨人は複数コーチ制で解決している)。
2008年からは東京ヤクルトスワローズ監督に転進した高田の縁で、東京ヤクルトの二軍打撃コーチを務める。
[編集] 背番号
- 35 (1971年、1974年~1985年)
- 55 (1972年~1973年)
- 7 (1986年~1989年)
- 77 (1990年~2007年)
- 79 (2008年~)
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971年 | 巨人 | 35 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 |
1972年 | 55 | 18 | 22 | 4 | 5 | 2 | 0 | 1 | 10 | 3 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | .227 | |
1973年 | 24 | 27 | 0 | 6 | 2 | 1 | 0 | 10 | 2 | 0 | 1 | 0 | 2 | 11 | .222 | ||
1974年 | 35 | 63 | 68 | 8 | 16 | 2 | 1 | 3 | 29 | 8 | 0 | 0 | 0 | 11 | 17 | .235 | |
1975年 | 114 | 314 | 35 | 92 | 15 | 1 | 12 | 145 | 42 | 1 | 4 | 1 | 37 | 51 | .293 | ||
1976年 | 108 | 258 | 44 | 77 | 14 | 1 | 10 | 123 | 39 | 10 | 1 | 0 | 28 | 41 | .298 | ||
1977年 | 90 | 143 | 12 | 35 | 2 | 0 | 5 | 52 | 21 | 2 | 1 | 1 | 7 | 26 | .245 | ||
1978年 | 80 | 110 | 17 | 33 | 6 | 0 | 4 | 51 | 9 | 6 | 2 | 2 | 5 | 21 | .300 | ||
1979年 | 102 | 205 | 27 | 53 | 10 | 0 | 5 | 78 | 20 | 6 | 2 | 2 | 16 | 28 | .259 | ||
1980年 | 114 | 344 | 48 | 101 | 20 | 2 | 14 | 167 | 47 | 4 | 3 | 2 | 21 | 41 | .294 | ||
1981年 | 116 | 336 | 50 | 105 | 17 | 1 | 13 | 167 | 35 | 11 | 2 | 2 | 31 | 45 | .313 | ||
1982年 | 120 | 353 | 38 | 94 | 15 | 5 | 13 | 158 | 46 | 5 | 0 | 2 | 28 | 50 | .266 | ||
1983年 | 119 | 381 | 61 | 115 | 18 | 4 | 10 | 171 | 50 | 3 | 5 | 7 | 44 | 38 | .302(13) | ||
1984年 | 103 | 198 | 31 | 56 | 6 | 1 | 5 | 79 | 31 | 4 | 3 | 2 | 25 | 23 | .283 | ||
1985年 | 69 | 77 | 7 | 16 | 2 | 0 | 1 | 21 | 8 | 0 | 1 | 3 | 9 | 12 | .208 | ||
1986年 | 近鉄 | 7 | 115 | 360 | 43 | 107 | 24 | 1 | 8 | 157 | 38 | 3 | 0 | 2 | 32 | 46 | .297 |
1987年 | 102 | 287 | 24 | 69 | 9 | 1 | 6 | 98 | 30 | 0 | 0 | 2 | 27 | 37 | .240 | ||
1988年 | 90 | 216 | 22 | 47 | 12 | 0 | 5 | 74 | 18 | 1 | 2 | 0 | 16 | 25 | .218 | ||
1989年 | 89 | 214 | 16 | 49 | 10 | 1 | 3 | 70 | 27 | 2 | 0 | 1 | 19 | 26 | .229 | ||
通算成績 | 1639 | 3915 | 487 | 1076 | 186 | 22 | 118 | 1660 | 474 | 58 | 27 | 29 | 360 | 544 | .275 |
[編集] タイトル・記録
- 初出場:1971年5月25日、対ヤクルトアトムズ9回戦(明治神宮野球場)
- 初安打:1972年5月25日、対ヤクルト8回戦(明治神宮野球場) - 投手:渡辺孝博
- 初本塁打:1972年7月19日、対大洋ホエールズ15回戦(後楽園球場) - 投手:坂井勝二
[編集] 関連項目
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監督 |
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88高田繁 |
コーチ |
80小川淳司(ヘッド)|77八重樫幸雄(打撃)|73大田卓司(打撃)|72荒木大輔(投手)|84伊藤智仁(投手)|83馬場敏史(内野守備走塁)|85飯田哲也(外野守備走塁)|71中西親志(バッテリー)|81長田孝幸(コンディショニング) |
二軍監督・コーチ |
89猿渡寛茂(監督)|99山部太(投手兼トレーニング)|74八木沢荘六(投手)|75土橋勝征(打撃)|79淡口憲治(打撃)|76角富士夫(内野守備走塁)|82佐藤真一(外野守備走塁)|97高橋寛(育成)|92中村達昭(コンディショニング) |
投手 |
11由規|12林昌勇|13佐藤賢|14高市俊|15村中恭兵|16加藤幹典|17川島亮|19石川雅規|20鎌田祐哉|21松岡健一|22増渕竜義|24花田真人|25館山昌平|26岡本秀寛|30西崎聡|34リオス|35橋本義隆|41高井雄平|42木田優夫|44松井光介|47遠藤政隆|48萩原淳|52伊藤秀範|53五十嵐亮太|57丸山貴史|58高木啓充|61石井弘寿|62吉川昌宏|63山本斉|65押本健彦|66山田弘喜|68上原厚治郎|70河端龍|78ゴンザレス |
捕手 |
28川本良平|32小野公誠|37福川将和|38衣川篤史|51米野智人|59水野祐希|112小山田貴雄(育成選手) |
内野手 |
00川島慶三|2リグス|4度会博文|6宮本慎也|7田中浩康|10城石憲之|33畠山和洋|36川端慎吾|39梶本勇介|40大原秉秀|45ウィルソン|46鬼崎裕司|55野口祥順|60三輪正義|67大塚淳 |
外野手 |
0志田宗大|5ガイエル|8武内晋一|9飯原誉士|23青木宣親|29福地寿樹|31真中満|43宮出隆自|49松元ユウイチ|50上田剛史|54斉藤宜之|56中尾敏浩|64牧谷宇佐美 |
読売ジャイアンツ 1970年ドラフト指名選手 |
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1位:湯口敏彦 / 2位:大北敏博 / 3位:淡口憲治 / 4位:樋沢良信 / 5位:森下敏秀 / 6位:高橋英二 / 7位:魚満芳 |