洲崎球場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
洲崎球場(すざききゅうじょう)とは、現在の東京都江東区新砂一丁目付近に戦前所在した野球場。
目次 |
[編集] 概要
プロ野球草創期、上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つとなっていた。一応、大東京軍の本拠地球場として建設されたが、実際は当時フランチャイズ制が敷かれていなかった事もあり、東京巨人軍もよく試合をしていた。
1936年10月に3ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年には92試合もの試合が開催された。しかし、海の側にありカニが這いずり回っていたといわれ、グラウンドが海水につかってコールドゲームになることもしばしばあり、環境的に良くなかったため、水道橋に後楽園球場ができると翌年1938年には僅か3試合の開催と激減した。結局、解体したのがいつなのかもはっきり分かっていない。1945年終戦年の地図には既に記載は無く材木置場となっていたといわれ、その後敷地の一部が帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)に譲渡された。
洲崎球場で行われた試合の中では、1936年の巨人vsタイガースの優勝決定戦は語り草になっている。また1937年7月17日のイーグルス対金鯱戦は観客僅か90人だったといわれ、ワースト記録として、今なおプロ野球史に残るとされる。
近くに洲崎遊郭(洲崎パラダイス)があり、プロ野球選手も試合後などに良く通っていたと言われる。
[編集] 所在地について
あまりにも周囲が変貌したためか、長年正確な所在位置の特定が困難となっていた。雑誌『野球小僧』の企画で、関係者が図書館などで調べ大体の位置が判明した。ようやく江東区役所が、2005年2月に江東区新砂一丁目2番8号付近に記念碑を建てた。
- 洲崎遊廓が近所にあり、隣接地にあったと誤解されがちであるが、実際は幾分離れた場所にあった。なお、大下弘の追悼文で「選手達が球場入りするとき、彼が遊廓の二階から手を振っているのが見えた」との記述があるが、時代考証からいって間違いと思われる。
- 当時市電(東京都電)に乗って見に行ったとの記述がいくつかの文章で見られる。最寄り停留所は上記の所在地から推測すると、東陽公園前電停(現在の東京地下鉄東西線東陽町駅の位置)であったようで、市電の洲崎電停からは若干距離があったようだ。当時の報道にも、「洲崎電停終点からは徒歩6分、城東電車からなら徒歩3分」とある。ただし、当時の東陽公園前電停は城東電気軌道という、市電とは独立した一私鉄であり、都心からの直通がなかったため、市電を利用して洲崎電停から歩く来場者の方が多かったと推測される。
- 多くの記述で、埋め立て地にあったとされている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- あの頃こんな球場があった、佐野正幸著、草思社、2006年
前本拠地: n/a - |
太陽ロビンスの本拠地 1936 - ? |
次本拠地: 西宮球場 1948 - 1949 |