岩本義行
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岩本 義行 |
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基本情報 | |
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出身地 | 広島県三次市 |
生年月日 | 1912年3月11日(96歳) |
身長 体重 |
167cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1938年 |
初出場 | 1940年 |
最終出場 | 1957年 |
経歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 1981年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
岩本 義行(いわもと よしゆき、 1912年(明治45年)3月11日 - )はプロ野球選手(外野手)・プロ野球監督。怪力・豪傑にまつわる多くの逸話を残す伝説の猛打者。弟は南海ホークス他で活躍した岩本信一。孫娘は女優の遠野舞子(本名、岩本舞子)。広島県三次市出身。
目次 |
[編集] 来歴・人物
旧制三次中学(現・三次高校)に進学。二年生のとき、旧制広陵中学(現・広陵高校)に転校。豪放無類の名物男として、この頃から多くの逸話を残している。バットの振り過ぎで腕がボキッと折れたとか、そうではなく猛ヘッドスライディングをしてベースに下に腕を入れてボキッと折れたのだとか、そのため外角球はまったく打てず、引っ張り専門のバッティングしか出来なかったであるとか、敬遠のワンバウンドした球を本塁打にしたとか、中学生なのに髭ヅラで引率の教師と間違えられたとかである。その精悍な面構えから長打を連発、広陵野球部史上最強のスラッガーとして鳴らした。最上級生となった1931年夏甲子園大会に出場。準々決勝で名投手吉田正男の中京商業(現中京大中京高校)に惜敗(中京商業はこの年から空前の夏三連覇)。しかし同年秋の神宮野球大会では吉田を打ち込み、更に前年から夏春連覇中で、この年の夏はハワイ遠征で欠場した灰山元治、鶴岡一人らのいた同じ広島の広島商業を決勝で岩本の長打2本で下す。
明治大学に進学、ここでも二年生で首位打者、また当時としては驚異的な1シーズン3ホーマー、1試合13塁打(本塁打2、三塁打・二塁打各1本[1])の記録を作るなど豪快なプレーで神宮を沸かした。戦前の六大学リーグ戦の代表的スラッガーと呼ばれる。明治大学卒業後(1934年)は大同電力に就職。1936年発足の職業野球には参加せず、1937年、既に宮武三郎らは抜けたものの、六大学出身のスター選手を揃えたクラブチーム日本一の強豪・東京倶楽部に入団。3番ないし4番を打って第11回都市対抗野球大会準優勝に貢献した。東京倶楽部は翌1938年シーズン前に解散。東京倶楽部の在籍は1年のみで、この年新発足した南海軍の創設に参加した。
初代主将・背番号30。他の参加選手に比べてケタ外れの大物だった岩本は、監督・高須一雄を差し置いて陣頭指揮を執り、実技指導を行ってチームを鍛え上げプロ野球に殴り込むと意気上がったが、記念すべき初戦のオープン戦途中に赤紙が来た。この令状が届くと度胸のある男でも震えたといわれるが、豪傑岩本は何事も無かったのように令状をポケットに押し込むと 「打て!、打て!」とナインを叱咤し球場から消えた。2年間徴兵のため試合出場はなく復員した1940年から戦時下の1942年まで南海でプレー。1941年、太平洋戦争開戦直前に行われた現在のオールスター戦にあたる東西対抗戦でも西軍の四番を張った。この試合に出場した大半の選手は、この後戦地に送られ、吉原正喜、鬼頭数雄、村松幸雄らは帰って来ることはなかった。1942年には打撃三部門(打率・本塁打・打点)で全て2位。同年7月11日、後楽園球場での対名古屋軍戦で、1試合3ホームランのプロ野球新記録をマーク。戦前のなかなか外野へ飛ばないボールの時代に記録した唯一人の選手である。1938年の綿製品禁止令以降、粗悪となった用具がさらに進んだ年の記録で、ホームラン王・古川清蔵が105試合で8本という年の1試合3ホーマーであった。バットを体の正面でゆったりと構える独特の打法は神主打法と呼ばれた。明治在学中に自ら考案して身に付けたといわれ、この打法はバックスイングをほとんど取らず、腕力だけで引っ叩くという常人にはとても真似出来無い打法であった。
戦後はアマチュアの全広島でプレー後、1947年からは広陵の後輩・白石勝巳が創部して監督を務めていた植良組(別府市)に、白石の巨人復帰による後任を頼まれプレーイングマネージャーとして在籍。1949年、石本秀一の要請で大陽ロビンスに37歳で10年ぶりにプロ球界に復帰。翌1950年、大量補強したチームをまとめるため、明治の大先輩・小西得郎の監督就任要請にキャンプ地・倉敷からオート三輪で東京まで車を飛ばして説得、その義侠に感じて小西は要請を受諾したといわれている。自身も豪打は衰えず二リーグとなった同年、3月11日の開幕第2戦(下関球場対中日)で記念すべきセ・リーグ第一号本塁打を満塁で放つと、この年3番小鶴誠、5番大岡虎雄とクリーンアップを組み、水爆打線と呼ばれた史上屈指の強力打線を構成、史上初のトリプルスリー(打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝に大きく貢献した(この年の松竹の98勝〔137試合制〕と勝率.737 や二桁得点29試合は現在もセ・リーグ記録。最多安打1417本、15試合連続二桁安打などは現在もプロ野球記録)。毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3ホーマーと打ちまくり無死満塁で敬遠された(投手は若林忠志)。シリーズは、初戦岩本の無謀な三盗などで毎日に敗れた。このプレーは岩本の“ミステリー走塁”として日本シリーズ史上に名を残す。
翌1951年8月1日の阪神戦(上田球場)では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録(現在もプロ野球記録)、二塁打も放ち1試合18塁打のプロ野球記録を達成(現在もプロ野球記録)。この二塁打も左翼フェンス上部を直撃したといわれている。前年に続きこの年も31本塁打(本塁打王、青田昇と1本差)、打点87、打率2位.351(首位打者、川上哲治.377)、長打率1位、盗塁は10。肩も強かったためか前年とこの年に、二年連続で外野手シーズン最多補殺8という、これまたセ・リーグ記録を残している。翌1952年に大洋ホエールズに移籍。相手ピッチャーに嫌われたのか、あるいは打席に入ると打つことしか考えていなかったとも言われ、ボールを避けようとはせず、39歳で1シーズン24死球(55年間日本記録だったが2007年、やはり死球を避けないグレッグ・ラロッカ(オリックス)が記録を更新した)。岩本は頭部に死球を受けても平然と一塁に歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったという伝説がある。当時はヘルメットが無い時代。張本勲の話ではヒビの入った頭蓋骨のレントゲン写真を見せてもらった事があるそうである。(サンデーモーニング、2007年9月23日) 腕力が強かったが、それ以上に気が強かったともいわれる。
戦争などで何度もプロを抜け、キャリアの大半が飛ばないボールの時代だった影響で通算本塁打は123本だが、プロ野球に集中できる時代にいたら通算500本塁打以上は確実だっただろうと思われる。
1954年に一旦は引退しアマチュア・水沢駒形野球倶楽部に所属。同年第25回大会と翌1955年の第26回都市対抗野球に富士鉄釜石の補強選手として出場し健在ぶりを発揮、全試合4番を打ち第25回大会では東北勢初の決勝進出に貢献(準優勝)。翌1956年、強化三ヵ年計画を打ち出した東映フライヤーズの監督としてプロ野球復帰、この際プレーイングマネージャーとしても登録。1957年8月18日の阪急戦では45歳5ヶ月で本塁打を打ち、史上最年長記録となった(現在もプロ野球記録)。同年ようやく現役を引退。監督は1960年まで5年間務め毒島章一、土橋正幸、山本八郎などの猛者を率いて「駒沢の暴れん坊」と異名を取り血の気の多いファンを集め、1958年には5選手をオールスターゲームに送り、1959年にはチームを初めてAクラス入りさせた。「ファイト!ファイト!」「さあ、いけ!、しばけぇ!」と連呼し闘志溢れる陣頭指揮が話題となった。正捕手・山本八郎が故障すると自分でプロテクター、レガースを付けてホームに座り、若いピッチャーに大声をかけた。グラウンドではがなりまくるが、ユニフォームを脱げば若い選手とコップ酒を飲み"アンちゃん"の愛称で慕われたという。優勝を期待された翌1960年は相手チームからのマークもあって前半苦戦。このため巨人・水原茂辞任の噂を聞きつけた大川博社長に動かれた事もあって辞任した。しかし高卒新人張本勲を抜擢するなど1962年に日本一になる素地は創った。その後は近鉄のコーチ(1962年‐1963年)を経て別当薫の後、1965年から1966年近鉄の監督を務めた。東映監督の経験もあって期待されたが、長期の低迷から脱出する道筋を示すことは出来ず。チームをむしろパールスの暗黒時代に逆戻りさせた。唯一の功績は、高卒の鈴木啓示を抜擢してエースに育成したことだった。1981年に野球殿堂入り。
現在は郷里の三次で余生を送るが、地元のTVに出演して神主打法を披露したり、旅行に行ったりと、殿堂入り最年長OBは90歳を超えてもまだまだ元気である。孫は5人おり、その顔を見るのが楽しみというが、そのうちの一人が女優の遠野舞子である。
[編集] 脚注・出典
[編集] 年度別打撃成績
- 成績中の太字はその年のリーグ最多(最高)記録。
年 度 |
所 属 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 刺 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
故 意 四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
順 位 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
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1940 | 南海 | 45 | 165 | 20 | 37 | 9 | 1 | 0 | 48 | 10 | 9 | 2 | 1 | 18 | 5 | 25 | .224 | .291 | .319 | ||||
1941 | 84 | 340 | 34 | 68 | 14 | 0 | 7 | 103 | 30 | 17 | 0 | 30 | 6 | 30 | .200 | 32 | .303 | .277 | |||||
1942 | 104 | 358 | 51 | 98 | 17 | 3 | 7 | 142 | 46 | 37 | 16 | 5 | 71 | 5 | 18 | .274 | 2 | .397 | .401 | ||||
1949 | 大陽 | 52 | 196 | 30 | 48 | 12 | 0 | 8 | 84 | 34 | 5 | 2 | 0 | 19 | 6 | 22 | .245 | .429 | .330 | ||||
1950 | 松竹 | 130 | 552 | 121 | 176 | 23 | 3 | 39 | 322 | 127 | 34 | 8 | 0 | 40 | 7 | 48 | 15 | .319 | 7 | .583 | .372 | ||
1951 | 110 | 422 | 100 | 148 | 24 | 0 | 31 | 265 | 87 | 10 | 4 | 0 | 63 | 11 | 43 | 12 | .351 | 2 | .628 | .448 | |||
1952 | 大洋 | 120 | 454 | 82 | 130 | 24 | 3 | 16 | 208 | 81 | 16 | 6 | 0 | 44 | 24 | 41 | 19 | .286 | 14 | .458 | .379 | ||
1953 | 洋松 | 110 | 411 | 47 | 110 | 17 | 1 | 9 | 156 | 49 | 8 | 4 | 1 | 38 | 5 | 40 | 10 | .268 | 17 | .380 | .337 | ||
1956 | 東映 | 86 | 204 | 14 | 42 | 1 | 0 | 5 | 58 | 21 | 4 | 2 | 0 | 2 | 18 | 6 | 6 | 21 | 8 | .206 | .284 | .289 | |
1957 | 15 | 19 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | .105 | .263 | .261 | ||
通算 | 856 | 3121 | 502 | 859 | 141 | 11 | 123 | 1391 | 487 | 140 | 42 | 8 | 3 | 345 | 6 | 75 | 295 | 64 | .275 | .446 | .361 |
[編集] タイトル・表彰
[編集] 監督通算成績
- 922試合 370勝 532敗 20引分 勝率.410
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 真説 日本野球史、大和球士、ベースボール・マガジン社、1977年7月
- プロ野球を変えた男たち、鈴木明、新潮社、1983年8月
- 都市対抗野球大会60年史、日本野球連盟 毎日新聞社、1990年1月
- 東映社長 大川博 真剣勝負に生きる、ダイヤモンド社、1967年3月
- プロ野球人国記 中国編、ベースボール・マガジン社、2004年4月
- 定本・プロ野球40年、報知新聞社、1976年12月
- 近鉄バファローズの時代、大阪バファローズ研究会、イースト・プレス、2004年12月
[編集] 外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。