倉野信次
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倉野 信次 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 三重県伊勢市 |
生年月日 | 1974年9月15日(33歳) |
身長 体重 |
177cm 87kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト4位 |
初出場 | 1997年4月10日 |
最終出場 | 2006年5月20日 |
経歴 | |
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倉野 信次(くらの しんじ、1974年9月15日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属した元プロ野球選手(投手)である。先発・中継ぎいずれもこなす使い勝手のよい投手として重宝された。
2008年からは、福岡ソフトバンクホークスのチーム運営部所属。
目次 |
[編集] 来歴・人物
青山学院大では井口資仁(ホワイトソックス)・澤崎俊和(元広島)・清水将海(中日)・高須洋介(楽天)らと共に黄金時代を築く。東都大学リーグ通算41試合登板17勝7敗、防御率3.17、154奪三振。3年生春に7勝1敗で最優秀投手とベストナインに選ばれる。
1996年、ドラフト1位指名の井口と共にドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団。
2001年、ストッパーのロドニー・ペドラザをはじめ自慢のリリーフ陣が不調で、終盤大事な場面で登板する機会に多く恵まれ、7勝を挙げた。
2004年シーズンは中継ぎ・谷間の先発とフル回転。特に先発では負け無しの7連勝を記録するなど9勝1敗の好成績を挙げ、ダイエーのリーグ1位に貢献し健在ぶりを見せた。
2007年は一軍出場がなく、10月6日に球団から戦力外通告を受ける。12球団合同トライアウト受験後、ロッテのテストを受ける。シーズン後のファン感謝祭での退団選手による挨拶の際、「2004年のプレーオフでファンの方々から『ナイスピッチング』より、『ありがとう』の声が多かったことは忘れません。僕のほうこそ皆さんのおかげでいいピッチングができ、お礼を言いたかったのに。本当にプロ野球選手になってよかったな、と思いました」と言い、喝采を浴びた。
2008年1月11日付で福岡ソフトバンクホークス株式会社チーム運営部に配属となった。
[編集] 年度別投手成績
- 表中太字はシーズンのリーグ最高記録
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 勝率 | 投球 回 |
与四 球 |
与死 球 |
奪三 振 |
失点 | 自責 点 |
防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | ダイエー | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 32.2 | 23 | 18 | 17 | 4.68 | ||
1998年 | 36 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.00 | 51.1 | 21 | 26 | 24 | 4.21 | |||
1999年 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 14.2 | 6 | 28 | 23 | 14.11 | |||
2000年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | 4.1 | 3 | 1 | 1 | 2.08 | |||
2001年 | 34 | 1 | 0 | 7 | 4 | 1 | .636 | 88.1 | 58 | 37 | 37 | 3.77 | |||
2002年 | 9 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.00 | 9.1 | 8 | 8 | 8 | 7.71 | |||
2003年 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 13.2 | 7 | 0 | 8 | 10 | 10 | 6.59 | |
2004年 | 37 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | .900 | 88.1 | 27 | 5 | 37 | 32 | 25 | 2.55 | |
2005年 | ソフトバンク | 15 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | .500 | 30.1 | 7 | 2 | 11 | 23 | 21 | 6.23 |
2006年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | 8.1 | 1 | 0 | 1 | 9 | 8 | 8.64 | |
2007年 | 一軍登板なし | ||||||||||||||
通算成績 | 164 | 1 | 0 | 19 | 9 | 1 | .679 | 341.1 | 176 | 192 | 174 | 4.59 |
[編集] エピソード
- 実家は料理旅館「倉野屋」を経営、倉野は男ばかり三人兄弟の次男。尚三男が店の後継者、長男は現在イギリスで鍼灸、マッサージを生業としている。
- 藤井将雄を兄のように慕っていた。福岡市内に在住する藤井の父方の親戚(飲食店経営)を藤井の存命中・他界後も変わらず応援している。
- 同県人同士、大道典嘉(現・巨人)、山本穰(スタッフ、故人)との結束は堅かった。2000年春、山本は病気で急逝したが、後年倉野は「前年に根本(陸夫)さん、同じ年の秋に藤井さんと相次いで恩義ある人達を失い、この悲嘆から立ち直るには時間がかかった」旨雑誌のインタビューで自ら語っていた。
- 以前、ダイエーの本体の経営状態がいよいよ危なくなり、球団保有問題が深刻化していたころ、日刊ゲンダイ記事で、倉野(ほか数名の選手)が移動等の空いた時間を見つけては一般紙・経済誌に目を通し、真剣にこの問題・今後の自分らの立場を案じたと報道されたが、同記事では倉野らと対照的に、特に若手選手のほとんどが事態にあまりにも関心がなかったことも紹介されていた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス) 1996年ドラフト指名選手 |
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1位:井口忠仁 / 2位:松中信彦 / 3位:柴原洋 / 4位:倉野信次 / 5位:岡本克道 / 6位:村上鉄也 / 7位:新里紹也 |