ケビン・ミッチェル
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ケビン・ミッチェル(本名Kevin Darnell Mitchell , 1962年1月13日 - ) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手。右投げ右打ち。ポジションは外野手。アフリカ系米国人。トレードマークは金歯。
2001年に同じくダイエーでプレーしたトニー・ミッチェルは従兄弟にあたる。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1980年、ドラフト外で入団したニューヨーク・メッツのマイナー組織からプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせ、1984年にメジャー初昇格。1985年はメジャーでの出場はなかったが、1986年に再昇格すると、持前の打力と、複数のポジションを守れる器用さがツー・プラトーン・システムを好む監督デーブ・ジョンソンに好まれ、投手・捕手・中堅手以外の6つのポジションで先発出場を果たし[1]、この年の「ミラクル・メッツ」と呼ばれたワールドシリーズ制覇に貢献。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズ第6戦では、1点のリードを許した2アウト1塁の場面で打席に入り、2ストライクと追い込まれながらもヒットを打ち、逆転サヨナラ勝ちへとつなげた。
この年のオフに、ケビン・マクレイノルズら2選手との交換で、シェーン・エイブナーら4選手と共にサンディエゴ・パドレスに移籍し、さらに1987年シーズン中にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍[2]。強打の外野手で、ベストシーズンは1989年。この年は47本塁打、125打点をマークし、ナ・リーグのMVP及び打点王、本塁打王の二冠に輝き、チームのワールドシリーズ進出に貢献した。
その後は故障もあって不本意な成績が続いていたが、レッズ時代の1994年にストライキによるシーズン途中での中断ながら打率.326、30本塁打をマークして復活。1994年オフにフリーエージェントとなり移籍先を探し、1995年は推定年俸4億円以上を提示した日本の福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)でプレーすることになった。
シーズン開幕後は西武との開幕戦で1983年の駒田徳広以来史上2人目の初打席満塁本塁打を放つ(デビュー戦が開幕スタメン4番で1回表での達成というのは史上初)など、メジャー屈指のスラッガーにふさわしい打棒をみせていたが、ほどなく故障が再発し、外野手としてプレーすることが難しくなったため指名打者へ回る。その後も回復が思わしくなく、欠場することが多くなった。このことはマスコミに「仮病」「医師の診断が出ない」などと報道された。その後も、シーズン途中で病気療養を理由に一時帰国した際、「無断帰国」と報じられるなど、ミッチェルの名は「問題児」として世間に知られることとなった。また、8月に再来日した際には、「チームがまさかこのようになっているとは思っていなかった」という台詞を残し、物議を醸した。
本塁打の飛距離は大きく、その点についてはメジャーリーガーとしての実力を見せ付けたが、8本塁打、そのうち本拠地の福岡ドームではわずか1本塁打に終わった。結局、満足な成績を残せないまま、2度目の無断帰国をした8月にダイエーはミッチェルを即刻解雇。その際、ミッチェルは年俸の全額支払いを要求し、裁判沙汰となった。
ダイエー解雇後はボストン・レッドソックスなど数球団を転々とし、1998年にメジャーリーガーとしてのキャリアを終えた。2001年には独立リーグのソノマ・カウンティクラッシャーズでコーチとして在籍。佐々木誠と同僚になっている。
1999年、同年、両親に貸していた家の家賃滞納を巡って口論の末、父親の頭部を殴打し、逮捕された。
[編集] 年度別打撃成績
年 度 |
チ 丨 ム |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
四 球 |
三 振 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
塁 打 |
犠 打 |
犠 飛 |
敬 遠 |
死 球 |
併 殺 打 |
O P S |
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1984 | NYM | 7 | 14 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 | .214 | .214 | .214 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.428 |
1985 | 試合出場なし | ||||||||||||||||||||||
1986 | NYM | 108 | 328 | 51 | 91 | 22 | 2 | 12 | 43 | 3 | 3 | 33 | 61 | .277 | .344 | .466 | 153 | 1 | 1 | 0 | 1 | 6 | 0.810 |
1987 | ※1 | 131 | 464 | 68 | 130 | 20 | 2 | 22 | 70 | 9 | 6 | 48 | 88 | .280 | .350 | .474 | 220 | 0 | 1 | 4 | 2 | 10 | 0.824 |
1988 | SF | 148 | 505 | 60 | 127 | 25 | 7 | 19 | 80 | 5 | 5 | 48 | 85 | .251 | .319 | .442 | 223 | 1 | 7 | 7 | 5 | 9 | 0.761 |
1989 | SF | 154 | 543 | 100 | 158 | 34 | 6 | 47 | 125 | 3 | 4 | 87 | 115 | .291 | .388 | .635 | 345 | 0 | 7 | 32 | 3 | 6 | 1.023 |
1990 | SF | 140 | 524 | 90 | 152 | 24 | 2 | 35 | 93 | 4 | 7 | 58 | 87 | .290 | .360 | .544 | 285 | 0 | 5 | 9 | 2 | 8 | 0.904 |
1991 | SF | 113 | 371 | 52 | 95 | 13 | 1 | 27 | 69 | 2 | 3 | 43 | 57 | .256 | .338 | .515 | 191 | 0 | 4 | 8 | 5 | 6 | 0.853 |
1992 | SEA | 99 | 360 | 48 | 103 | 24 | 0 | 9 | 67 | 0 | 2 | 35 | 46 | .286 | .351 | .428 | 154 | 0 | 4 | 4 | 3 | 4 | 0.779 |
1993 | CIN | 93 | 323 | 56 | 110 | 21 | 3 | 19 | 64 | 1 | 0 | 25 | 48 | .341 | .385 | .601 | 194 | 0 | 4 | 4 | 1 | 14 | 0.986 |
1994 | CIN | 95 | 310 | 57 | 101 | 18 | 1 | 30 | 77 | 2 | 0 | 59 | 62 | .326 | .429 | .681 | 211 | 0 | 8 | 15 | 3 | 12 | 1.110 |
1995 | 試合出場なし | ||||||||||||||||||||||
1996 | ※2 | 64 | 206 | 27 | 65 | 15 | 0 | 8 | 39 | 0 | 0 | 37 | 30 | .316 | .420 | .505 | 104 | 0 | 1 | 2 | 1 | 8 | 0.925 |
1997 | CLE | 20 | 59 | 7 | 9 | 1 | 0 | 4 | 11 | 1 | 0 | 9 | 11 | .153 | .275 | .373 | 22 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0.648 |
1998 | OAK | 51 | 127 | 14 | 29 | 7 | 1 | 2 | 21 | 0 | 0 | 9 | 26 | .228 | .279 | .346 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0.625 |
通算 | 13年 | 1223 | 4134 | 630 | 1173 | 224 | 25 | 234 | 760 | 30 | 31 | 491 | 719 | .284 | .360 | .520 | 2149 | 2 | 42 | 87 | 27 | 89 | 0.880 |
- 太字はリーグ1位。
- ※1=サンディエゴ・パドレス→サンフランシスコ・ジャイアンツ
- ※2=ボストン・レッドソックス→シンシナティ・レッズ
[編集] 日本での通算成績
- 37試合 39安打 8本塁打 27打点 打率.300 1シーズン
[編集] タイトル・表彰
- ナ・リーグMVP、打点王、本塁打王(1989年)
[編集] エピソード
- 米国時代から問題行動が多いことで知られ、球団首脳にしてみれば、野球以外の面でもマスコミに注目(批判)されるという「リスク」を承知で獲得しなければならない選手と言えたが、王貞治をはじめとする現場の人間の多くはミッチェル獲得を強く望んでいた。1985年、当時巨人の監督であった王がメジャーリーグを代表する投手、デーブ・スチュワートを「トラブルメーカー」との評判から獲得を逸し、このことが王にミッチェル獲得に熱意を持たせる要因となった。
- ミッチェル獲得に伴い、外国人枠の関係からブライアン・トラックスラー、ケビン・ライマーのどちらかを解雇することとなった。当時のチーム事情からトラックスラー解雇が決定的だったが、トラックスラーはダイエー本社海外部のお墨付きで福岡ダイエーに入団した経緯を持っており、親会社との関係から簡単に解雇に踏み切れなかった。結局、1995年の高知キャンプでトラックスラーは解雇となったが、その結果、ミッチェルと球団との関係にヒビが入ることになり、その後の処遇に悪影響をもたらした。ライマーも大した成績は残せず、その年で解雇。
- 故障の再発で指名打者に回ったことによって山本和範が左翼を務めることとなったが、その山本も守備中に故障。同年の山本の解雇の遠因となった。
- ミッチェルが日本で起こした問題について、元阪神タイガースのランディ・バースは、「実力がある選手なのにメジャーリーグの球団が契約を結ぼうとしないのは(その選手に何らかの)問題があるから。ミッチェルの場合はトラブルメーカーであった事が理由なのはわかりきっていたはずだ」と発言をしている。
[編集] 脚注
- ^ シーズン前半は三塁手・遊撃手としての起用が中心であったが、シーズン後半にジョージ・フォスターが解雇されてからは主に左翼手で起用された。
- ^ この時の交換要員の一人に、その前年まで読売ジャイアンツでプレイしていたキース・カムストックが居た。
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
獲得タイトル・記録 | |||||||||
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1 ムーキー・ウィルソン / 2 ケビン・エルスター / 3 ラファエル・サンタナ / 4 レニー・ダイクストラ / 6 ウォーリー・バックマン / 7 ケビン・ミッチェル / 8 ゲーリー・カーター / 11 ティム・タフェル / 12 ロン・ダーリング / 13 リー・マッジーリ / 16 ドワイト・グッデン / 17 キース・ヘルナンデス / 18 ダリル・ストロベリー / 19 ボブ・オヒーダ / 20 ハワード・ジョンソン / 22 レイ・ナイト / 25 ダニー・ヒープ / 38 リック・アギレラ / 39 ダグ・シスク / 42 ロジャー・マクダウエル / 47 ジェシー・オロスコ / 50 シド・フェルナンデス 監督 デーブ・ジョンソン |