トーマス・オマリー
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トーマス・オマリー Thomas O'Malley |
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基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニュージャージー州 |
生年月日 | 1960年12月25日(47歳) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 一塁手、三塁手 |
初出場 | MLB / 1982年 NPB / 1991年 |
最終出場 | 1996年 |
経歴 | |
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トーマス・オマリー(Thomas Patrick O'Malley、1960年12月25日 - )はアメリカニュージャージー州出身の元プロ野球選手。右投げ左打ち。現阪神タイガース駐米スカウト。独身(バツイチ)。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1982年にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーリーグの試合に初出場し、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、以後シカゴ・ホワイトソックス - ボルチモア・オリオールズ - テキサス・レンジャーズ - モントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ) - ニューヨーク・メッツと多球団を渡り歩くも、1983年のシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。そして1991年に来日し、同年より阪神の選手として活躍。初の春季キャンプでは川上哲治から「今年の外国人選手では一番すばらしい」と絶賛される。また、オマリー自身も日本野球に順応しようと、食事では箸を使うなど努力した。
1992年、前年オフに大洋を解雇されたジム・パチョレックを阪神に紹介し、入団させる。このパチョレックとのコンビで、同年は新庄剛志、亀山努ら若手選手とともに低迷した阪神を2位に躍進させた。1993年には首位打者のタイトルを獲得。また、ヒーローインタビューでお立ち台に上がったときの「ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番や!)」の絶叫もあってファンからの人気も高かった。
非常に選球眼が優れた選手であり、「臭い球」にはめったに手を出さず、スプレー・ヒッターとして鳴らした。が、守備中にバントシフトをとらないなど怠慢な守備もあった。また、常に打率で上位にランキングされていたものの、山本昌など、強力な左腕投手が登板する試合では、シーズンでも重要な試合であってさえ、ゲーム直前に突然膝の痛みなどを訴えてスタメン回避を取るなどの行動も目立った。これは露骨に打率記録の低下を嫌ったものではないかとの批判もあって、こういった「わがまま」さへの疑問が評論家やスポーツマスコミの間でも高まるようになっていった。中村勝広監督ともこういった問題で次第に対立するようになり、1994年オフに自由契約となった。
1995年、野村克也監督率いるヤクルトへ移籍。ちなみにオマリー自身は、1995年オフにゲスト出演した『ニュースステーション』で、久米宏からヤクルトへ移籍した理由を聞かれて「阪神は“子供”のチームだったから」と答えている。また、阪神甲子園球場で古巣相手に3連発したこともあり、移籍後は「ヤクルトファンノ、オウエンクダサイ(ヤクルトファンの応援下さい)」がお立ち台での決め台詞だった。
ヤクルト移籍後も主力選手として活躍、1995年には打率.307、本塁打は自己最多の31本、打点87を記録して長打力があることも見せつけると共に、ヤクルトのリーグ優勝に大きく貢献した。さらに、その年のシーズンMVP、さらには日本シリーズでもMVPに輝き、日本一にも大きく貢献した。1996年外国人選手初の6年連続3割を達成するも契約上の問題からヤクルトを退団、ボストン・レッドソックスに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されてしまい、そのまま引退。1998年にアメリカ独立リーグ、ニューアーク・ベアーズの監督などを務めた。
2001年、阪神春季キャンプに野村監督を表敬訪問し、その際に外国人選手へのアドバイスが高評価されて翌年の野村内閣入りが濃厚となるが、野村監督退団に伴い破談。ただ、その際の口約束があったせいでベアーズ監督を辞任していたために、翌2002年の春季キャンプのみの臨時打撃コーチとして古巣阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が星野仙一監督にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中も残留することになった。特命コーチ時代はジョージ・アリアス、トレイ・ムーア、ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガンらを指導するなど外国人選手の支えとなり、阪神の2003年のセントラル・リーグ優勝に貢献した。しかし、岡田彰布監督就任により、オマリー自身も星野監督、田淵幸一、達川光男各コーチとともに退任した。
2004年から、阪神の駐米スカウトに就任。シーズンオフ後、堀江貴文・ライブドア社長からのライブドアベースボール監督就任要請を受諾したが、同球団の参入自体が無くなったためにそのまま駐米スカウトとして阪神に残留しており、外国人選手獲得に力をつくす一方で、キャンプ時に来日し外国人選手の指導、アドバイスや自らも打撃投手をつとめるなどコーディネーターとしても活躍している。
[編集] エピソード
- ベンチで野球帽を前後逆にかぶる、大リーグにある「逆転のおまじない」を阪神ベンチに持ち込んだ。92年のシーズンから、亀山努らナインがオマリーに倣って、揃って帽子を逆にする姿が恒例となった。
- 長嶋茂雄に憧れており、小さなヘルメットを浅く被っていた。また、よくガムを噛みながらオープンスタンスで打席に立っていた。
- ヤクルトに移籍する前年のオールスターゲームにて、長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍アピールをするが、それとなく断られている。このシーンは『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などでよく流される。
- ビル・クリントン前アメリカ合衆国大統領と顔が非常に似ている事から、一部のファンからクリントンの親戚かと思われていた。
- 来日当初、悩殺コスチュームで歌手活動を行なっていた杉本彩にメロメロになり、杉本を好みの女性に挙げていた時期があった。
- 投手の配球を読むことに非常に長けており、変化球を投げられてわざと空振りし、次に同じ変化球が来たときに狙い打ちしたこともよくあった。
- 阪神時代、ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていたのは、メジャーリーグミネソタ・ツインズ在籍時代のシャツをそのまま愛用していたから。
- 阪神時代の1993年にはオールスターゲーム第2戦でMVPを獲得しており、外国人選手としては唯一、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターの3つでMVPを獲得している選手である。
- 1993・1994年にはMBSラジオ『毎日放送ダイナミックナイター』のCM明けのジングル音声を担当(デーゲーム中継や阪神戦以外の試合も含む)。
- 1994年にはCD「オマリーのダイナミック・イングリッシュ」を発売、6万枚を売り上げた。このCDに収録されている六甲颪(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)のあまりの音痴っぷりは一部で注目を集めた。また、引退後には『LOVE LOVEあいしてる』にもゲストとして招かれ、生歌で六甲颪を披露したが、歌は相変わらずであった。
- このオマリーが歌った六甲おろしは、1番の歌詞は日本語、2番の歌詞は英語である。1番は日本語のために下手なのはまだ分かるが、2番の英語の歌詞も下手であった。オマリーは根本的に音痴らしい。
- 同じく1994年に野茂英雄らとともに公共広告機構の関西限定の新聞広告にイラストで出演、これはこの年開港した関西国際空港とタイアップしたマナー啓発の広告だった。
- 現在、阪神電鉄のCMに出演中。甲子園球場での試合開催時に駐車場を開放していた甲子園競輪場が2002年3月19日のレースを最後に閉鎖し、甲子園球場への観客に対応した駐車場が近隣になくなったことから、2003年より「ノーマイカー甲子園」のイメージキャラクターを務めている。ここでは「ハンシンデンシャガ、イチバンヤァー!(阪神電車が一番や!)」としゃべっている。内容によっては最初に「hi!オマリーデオマ!」(2代目笑福亭鶴光の「鶴光でおま!」のキャッチフレーズを利用)と言うこともある。その2003年は阪神特命コーチとしてユニフォームを着ていたため、甲子園駅に隣接する阪神系列のテナントビル「アルカス」の巨大広告枠に「駐車場ありまへん。電車が一番や! by オマリー」の文字をバックにユニフォーム姿で電車での来場をPRした。その後阪神電車内の中吊りポスターにも登場し、両腕をクロスさせ「×」印を表現している。
- さらに2006年から「甲子園球場へのカン・ビン類持ち込み禁止」のイメージキャラクターも兼任(こちらも中吊りポスターがあり、手のひらを大きく出し「STOP」を表現)し、「甲子園のお願い事CMはオマリー」という図式が定着しつつある。
- 現在は投手ライアン・ボーグルソンの夫人、元モデルのニコールの通訳役という設定でCM共演している。
- 同時期に在籍した外国人選手のパチョレックと郭李が好調の時、外国人選手が2人までしか出場できないことがPKO問題と呼ばれた。
[編集] 日本での打撃成績
年度 | 所属 | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁刺 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 |
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1991 | 阪神 | 1 | 130 | 476 | 61 | 146 | 29 | 0 | 21 | 238 | 81 | 0 | 1 | 2 | 57 | 2 | 83 | .307 |
1992 | 111 | 381 | 55 | 124 | 30 | 2 | 15 | 203 | 62 | 3 | 1 | 1 | 94 | 2 | 70 | .325 | ||
1993 | 125 | 434 | 60 | 143 | 32 | 1 | 23 | 246 | 87 | 1 | 1 | 4 | 75 | 2 | 71 | .329 | ||
1994 | 124 | 430 | 61 | 135 | 18 | 2 | 15 | 202 | 74 | 2 | 1 | 4 | 89 | 1 | 74 | .314 | ||
1995 | ヤクルト | 3 | 125 | 421 | 83 | 127 | 20 | 0 | 31 | 240 | 87 | 6 | 6 | 5 | 96 | 2 | 57 | .302 |
1996 | 127 | 461 | 56 | 145 | 23 | 0 | 18 | 222 | 97 | 3 | 4 | 5 | 74 | 1 | 70 | .315 | ||
通算 | 742 | 2603 | 376 | 820 | 152 | 5 | 123 | 1351 | 488 | 15 | 14 | 21 | 485 | 10 | 425 | .315 |
[編集] メジャーでの打撃成績
- 466試合 打率.256(1213打数 310安打) 13本塁打 131打点
所属球団
- サンフランシスコ・ジャイアンツ:1982年~1984年途中
- シカゴ・ホワイトソックス:1984年
- ボルチモア・オリオールズ:1985年~1986年
- テキサス・レンジャーズ:1987年
- モントリオール・エクスポズ:1988年
- ニューヨーク・メッツ:1989年~1990年
[編集] タイトル・表彰
- 最優秀選手:1回、1995年
- 首位打者:1回、1993年
- ゴールデングラブ賞:1回、1992年(三塁手)
- ベストナイン:1回、1995年
- 最高出塁率:4回、1992~1995年
- 最多勝利打点:2回、1995~1996年
[編集] 監督としての成績
年度 | チーム | 前・後期 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 順位 |
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1998年 | Newark Bears | 前期 | 50 | 18 | 32 | 0 | .360 | 5位 |
後期 | 50 | 17 | 33 | 0 | .340 | 6位 | ||
1999年 | 前期 | 59 | 24 | 35 | 0 | .406 | 5位 | |
後期 | 60 | 31 | 29 | 0 | .516 | 3位 | ||
2000年 | 前期 | 70 | 38 | 32 | 0 | .542 | 3位 | |
後期 | 70 | 36 | 34 | 0 | .514 | 4位 | ||
2001年 | 前期 | 63 | 38 | 25 | 0 | .603 | 1位 | |
後期 | 63 | 37 | 26 | 0 | .587 | 2位 |
- ※2001年はプレーオフ進出。初戦はナシュア・プライドを2勝1敗で破るも決勝のサマセット・ペイトリオッツ戦は2勝3敗で敗退。
[編集] CD
- オマリーのダイナミック・イングリッシュ(1994/05/25)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- The Official Site of Major League Baseball: Stats: Historical Player Stats(メジャーリーグ成績・英語) (The Official Site of Major League Baseballより)
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