山沖之彦
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山沖 之彦 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県幡多郡黒潮町 |
生年月日 | 1959年7月26日(48歳) |
身長 体重 |
191cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1981年 1位 |
初出場 | 1982年 |
最終出場 | 1994年 |
経歴 | |
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山沖 之彦(やまおき ゆきひこ、1959年7月26日 - )は阪急ブレーブス、オリックス・ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブ、阪神タイガースに所属した元プロ野球選手(投手)。野球解説者。高知県黒潮町出身。AB型。
目次 |
[編集] 来歴・人物
中村高校時代の1977年、第49回選抜高等学校野球大会でエースとして準優勝(チームメンバー12名で「二十四の瞳」と称された)。専修大学に進学し、東都大学リーグでは、4年生秋に7勝3敗でチーム優勝に貢献し最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた。リーグ1部通算53試合登板し22勝22敗、防御率2.29、232奪三振。1981年に阪急ブレーブスへドラフト1位で入団した。
入団後は190cmを超える長身から投げおろす重いストレートとフォークボールを武器に、入団初年度の1982年から先発投手の一角として定着。1984年には抑えの切り札としてリーグ優勝に貢献した。山田久志が衰えを見せた1987年にはリーグ最多勝を挙げ、その後は右のエースとして左のエースである星野伸之と並んで活躍した。
しかし、1990年の上田利治監督勇退後は後任の土井正三監督との確執が伝えられるなど、あまり活躍の場には恵まれなかった。仰木彬監督が就任した1994年オフに活躍の場を求め、FA権を行使して阪神タイガースへ移籍したが、故障の影響で一軍登板はなく、その年のオフに自由契約となりそのまま現役を引退した。
1996年からサンテレビとラジオ関西の野球解説者として活動し、現在はラジオ関西とJ SPORTSで野球解説を続けている。
私生活では1984年に宝塚歌劇団月組男役(65期生<1979年初舞台>)であった白川亜樹と結婚。白川との間には息子1人(一般人)と、娘で宝塚歌劇団93期生(2007年初舞台)で星組男役の芹香斗亜があることを公表している。
[編集] 年度別投手成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982年 | 阪急 オリックス |
30 | 7 | 0 | 4 | 7 | 15 | 1 | 163.2 | 149 | 14 | 69 | 106 | 70 | 3.84(16) |
1983年 | 34 | 16 | 1 | 3 | 15 | 8 | 2 | 233 | 217 | 23 | 86 | 143 | 90 | 3.48(7) | |
1984年 | 48 | 1 | 0 | 0 | 11 | 8 | 15 | 131.2 | 119 | 18 | 55 | 121 | 60 | 4.10(14) | |
1985年 | 38 | 5 | 0 | 0 | 7 | 14 | 6 | 139.2 | 143 | 27 | 58 | 61 | 75 | 4.83(18) | |
1986年 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 52 | 65 | 7 | 29 | 42 | 34 | 5.88 | |
1987年 | 32 | 15 | 3 | 4 | 19 | 10 | 0 | 245.1 | 230 | 22 | 41 | 155 | 75 | 2.75(3) | |
1988年 | 25 | 6 | 3 | 0 | 7 | 12 | 0 | 142.2 | 166 | 26 | 47 | 73 | 79 | 4.98(25) | |
1989年 | 23 | 4 | 0 | 0 | 11 | 6 | 0 | 124.1 | 137 | 17 | 41 | 70 | 73 | 5.28 | |
1990年 | 25 | 9 | 3 | 1 | 13 | 8 | 0 | 182.2 | 167 | 20 | 50 | 123 | 76 | 3.74(9) | |
1991年 | 24 | 6 | 1 | 1 | 9 | 7 | 0 | 155.2 | 170 | 13 | 41 | 77 | 57 | 3.30(9) | |
1992年 | 8 | 3 | 0 | 1 | 4 | 3 | 0 | 56.2 | 58 | 5 | 10 | 25 | 23 | 3.65 | |
1993年 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 28.2 | 23 | 1 | 8 | 14 | 6 | 1.88 | |
1994年 | 21 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 0 | 108 | 107 | 16 | 41 | 41 | 51 | 4.25 | |
1995年 | 阪神 | 1軍登板なし | |||||||||||||
通算成績 | 327 | 72 | 11 | 14 | 112 | 101 | 24 | 1764 | 1751 | 209 | 577 | 1051 | 769 | 3.92 |
[編集] タイトル・表彰
[編集] 背番号
[編集] エピソード
- 1981年のドラフトでは阪急は、阪急沿線に住んでいて阪急指向の強い金村義明を1位指名したが、近鉄との抽選に敗れ、チームの現実に合わせて「外れ1位」を即戦力投手に切り替え、指名した山沖が活躍したことで、成功だったと言える。
- 1982年8月12日の近鉄バファローズ戦で、指名打者として打席に入ったことがある(結果は三振)。ただし、これはこの年から「先発の指名打者は相手チームの先発投手が降板した場合を除き、最低でも1打席を完了しなければならない」というルールが設けられたことを忘れていた上田利治監督が偵察要員のつもりで山沖をスタメンに入れたものである。
- なお、指名打者制の導入後、パシフィック・リーグの公式戦で投手が投手以外のポジションでスタメン出場し、実際に打席に立ったのはこの山沖のケースのみである。
- ちなみに山沖は1990年9月12日の日本ハムファイターズ戦では投手として打席に立ち、この時は四球を選んでいる。
- 2006年現在、日本国内でFA移籍を経験した選手の中で、移籍先の球団を1年で、また1軍での出場がないまま退団した唯一の選手である(メジャーリーグにFA移籍した選手を含めるなら、移籍先を1年で退団した選手は新庄剛志や藪恵壹がいる)。
- 阪神では全く活躍しなかったため、ファンの間ではM永とあだ名されている松永浩美と同様にY沖と呼ばれている。
- 白川とはプロ野球ファンで白川とよき友人であったタカラジェンヌを通し知り合い、グループ交際を経て結婚。
- 山沖・白川の交際・結婚はその後イチロー(チームの後輩)・一路真輝(宝塚時代白川と寮で同室だった)との姉弟のような交流や、小川博文(チームの後輩)・朝霧舞(一路の雪組の後輩)の交際・結婚へつながったことが知られる。
- 2003年はNTT西日本硬式野球部の臨時コーチも務めている。今後は妻子は関西に残し単身JR北海道硬式野球部監督就任する事になる予定。佐藤義則ヘッドコーチも同時に就任。
- その巨体と風貌から、アンドレとあだ名された時期もあった。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ) 1981年ドラフト指名選手 |
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1位:山沖之彦 / 2位:太田敏之 / 3位:南牟礼豊蔵 / 4位:有賀佳弘 / 5位:岩本好広 / 6位:田島克彦 |