ウィリー・カークランド
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ウィリー・カークランド Willie Kirkland |
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基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | アラバマ州シラリア |
生年月日 | 1934年2月17日(74歳) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
初出場 | MLB / 1958年 NPB / 1968年 |
最終出場 | MLB / 1966年 NPB / 1973年10月22日 (対:巨人戦) |
経歴 | |
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ウィリー・カークランド(Willie "Charles" Kirkland、1934年2月17日 - )は、メジャーリーグ及び日本の阪神タイガースで活躍したプロ野球選手であった。右投げ左打ち。
[編集] 来歴・人物
アメリカ合衆国アラバマ州シラリアに生れる。サウスウエスト高等学校卒業後、メジャーリーグでプレーし、サンフランシスコ・ジャイアンツ、クリーブランド・インディアンズなどで活躍し、4年連続20本以上の本塁打もマークした。
1968年、阪神タイガースに入団。37本の本塁打を放ち主軸打者に定着。以後6年間在籍し、阪神には少ないホームランバッターとして貴重な存在だった。特に読売ジャイアンツ戦になると活躍し、1イニング2本塁打(1969年)、1試合3本塁打(1970年)を記録した。その反面、引っ張り専門のバッティングで三振も多く打率も.250前後からあがらなかった。
いつも、「爪楊枝」をくわえてプレーをする姿が当時人気のあった「木枯し紋次郎」に似ていることから「モンジロー」というニックネームでファンに親しまれた。
日本での最後の打席は、1973年10月22日の対巨人最終戦、9回裏2死から阪神最後の打者となり、高橋一三の前に三振を喫した。この直後、阪神の惨敗に怒った観衆が暴徒と化してグラウンドに乱入するという事件が起きた。
掛布雅之の前に背番号31番を付けていた選手でもある。
[編集] 年度別打撃成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1968年 | 阪神 | 31 | 133 | 518 | 71 | 128 | 16 | 0 | 37 | 255 | 89 | 3 | 0 | 2 | 47 | 104 | .247(24) |
1969年 | 130 | 496 | 57 | 122 | 17 | 0 | 26 | 217 | 66 | 1 | 0 | 0 | 40 | 133 | .246(21) | ||
1970年 | 118 | 369 | 40 | 92 | 16 | 1 | 15 | 155 | 32 | 3 | 6 | 1 | 32 | 81 | .249(24) | ||
1971年 | 110 | 292 | 23 | 64 | 12 | 0 | 14 | 118 | 27 | 0 | 9 | 0 | 31 | 65 | .219 | ||
1972年 | 114 | 346 | 40 | 92 | 17 | 0 | 20 | 169 | 52 | 0 | 5 | 0 | 29 | 66 | .266 | ||
1973年 | 98 | 252 | 23 | 61 | 5 | 0 | 14 | 108 | 38 | 0 | 2 | 1 | 25 | 55 | .242 | ||
通算成績 | 703 | 2273 | 254 | 559 | 83 | 1 | 126 | 1022 | 304 | 7 | 22 | 4 | 204 | 504 | .246 |
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube