平和大通り
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平和大通り(へいわおおどおり)は広島県広島市を東西4kmに渡って横断する通りの名称である。日本の道100選の一つ。広島市道比治山庚午線の一部をなしている。市民は通称として「100m道路(ひゃくメーターどうろ)」「100米道路」と呼ぶ事もあり、その名の通り幅員が南北の緑地帯を含めて100mある。英語表記は「Peace Boulevard」。
- 供木運動により広島県内・日本全国・海外からの花や樹木の苗木や種子や樹木資金などの寄贈により緑化され様々な樹を見ることができる。
- 隣接する平和公園とともに市民の憩いの空間を形成している。
- 緑地帯の一部は市営有料駐車場となっており、自家用車での観光にも便利である。
- 広島市の平和の祭典ひろしまフラワーフェスティバルはこの通りを全面通行止めにして開催されるため、フェスティバル期間中は車での観光に適さない。
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[編集] 歴史
1945年、時の日本政府の要請に拠り、日本各地の大都市で空襲による延焼を防ぐ目的の防火帯を作るべく「建物疎開」が開始された。軍都であった広島でも、市街地を東西に横切るように幅100mの防火帯を作る計画が立てられ、市民や学生が木造家屋の町並みを撤去する建物疎開に動員された。同年8月6日、動員された人々が働く頭上で原子爆弾リトルボーイが炸裂。爆心から近い作業地域では学生など作業者数万名が死亡した。(正確な戦災者の数は今日でも判っていない)
1948年、広島平和記念都市建設法が制定され、被爆中心地である中島地区に併せ、この防火帯も平和大通りとして、両脇を緑地化した公園通りに生まれ変わる計画が動き始める。1954年から1958年にかけての供木運動により県内から12万本以上の木が寄付されたほか日本・世界からも苗木が贈られて緑化が行われた。度重なる復興優先縮小論などの紆余曲折を経て、1965年5月に西の観音・福島地区を抜け己斐まで全通し、今日の形となった。
1975年、プロ野球広島東洋カープが球団創立25年目にして、セ・リーグ初優勝を達成。平和大通りで優勝記念パレードを行い、沿道に40万人のファンが集まった。これは、優勝パレードとしては、現在でも日本史上最大の動員数記録であり、後のフラワーフェスティバル開催の契機になったと言われる。
1977年以降は、この通りを主要な会場とする市民の祭典「フラワーフェスティバル」が開催されるようになった。1996年からスタートした全国都道府県対抗男子駅伝競走大会のスタート&ゴール地点は平和公園であり、ランナーたちはこの通りを走りぬける。2005年には沿道に平和の門が設置された。
近年、広島電鉄の路線を平和大通りに伸ばす計画が検討されている。(広島電鉄本線西観音町から白神社まで)
[編集] 沿道の概要と主要施設
平和大通りは鶴見橋西詰めを東端とし、西に向かって元安川に架かる平和大橋、本川に架かる西平和大橋、天満川に架かる緑大橋を渡り、新己斐橋東詰が西端である。沿道の主要施設としては以下、西から東へ;
[編集] 主なイベント
[編集] 同名の通り
- 平和通り - (愛媛県松山市) 松山城の北側山麓に沿って走る片側2車線の通り。古町駅と上一万交差点とを結んでいる。付近には愛媛大や松山大などの教育施設が多く集まっており、俗に言う文教地区となっている。2005年8月現在、送電線を地中に埋設する工事がなされている。
- 平和通 - (札幌市白石区) 札幌東部の白石区を横断している片側2車線の通り。市内中心部の苗穂と郊外のひばりヶ丘、北広とを結んでいる。途中の豊平川には広島と同様に平和大橋が架かっている。
- 平和通買物公園 - (北海道旭川市) 日本初の恒久歩行者天国。旭川駅前のメインストリートであり、沿道には百貨店が連なっている。戦後になって「平和通」と名付けられた点において、広島と似ている。