リトルボーイ
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リトルボーイ (Little Boy) は、第二次世界大戦においてアメリカ軍が広島県広島市に投下した原子爆弾のコードネームである。
これは、人類史上初めて実戦で使用された核兵器であった[1]。
(核の歴史の詳細は核兵器参照)
目次 |
[編集] 概要
全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5t。番号はMk.1。ウラン235を用いており、二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、臨界量を超過させて起爆するガンバレル方式である[2]。
積載されたウラン50kgのうち、1kgが核分裂反応を起こしたと推定されている。核出力はTNT換算で約15kt(5.5 × 1013ジュール)である。
[編集] 開発
ガンバレル方式の原子爆弾がどのように設計されたのかはいまだに機密扱いであり、公表されていない。
[編集] 実験
1945年当時、この方式の検証のための核実験は行われていない。核実験による検証を経たのは、プルトニウムを使った爆縮方式のものが1945年7月16日、アメリカニューメキシコ州アラモゴード近郊のアラモゴード爆撃試験場(現:ホワイトサンズ・ミサイル実験場内「トリニティ・サイト」)で行われたのみである。これは一般には、既にウラン235を使った核分裂試験が原子炉内で行われていた為に核爆発を伴う検証そのものが不要であったとされているが、実際はテストを行うことで高濃縮ウランが不足し、この方式の原子爆弾の戦線への投入に遅れが生じることを軍が嫌ったというのが真相のようである[3]。
[編集] 安全性
ガンバレル方式の原子爆弾は安全性に大きな問題があるために作られなくなったと言われている。 完成したガンバレル方式の原子爆弾は、推進薬に点火すると必ず核爆発を起こしてしまうため、フェイルセイフが存在しない。
そのため、爆弾を搭載したB-29が墜落したり、何かのミスで投下前に推進薬が点火したりするなど、万が一の場合に備え、爆撃機に兵器係として原爆の技術者を同乗させ、その者が投下の前に手作業で砲身内に推進薬(コルダイト火薬)を詰めこむという安全対策を取ったほどである。 たとえ推進薬が無くとも墜落の衝撃によって砲弾部が標的部に突入すれば核爆発が起きる可能性が十分に高く、海中に墜落すれば爆弾内に流入した水が変調装置として働き、臨界状態になる可能性があった。このため、海に落下すれば周囲一帯を危険地域として閉鎖せざるをえなくなる。 これらの危険性を排除できるだけの安全装置の開発は不可能であるとされ、ガンバレル方式自体が開発中止になる原因となった。
[編集] 経緯
- 1945年 - 太平洋戦争中にアメリカが立ち上げたマンハッタン計画に基づき、アメリカ国内で製造。
- 7月16日 - サンフランシスコにて重巡洋艦インディアナポリスに積載され、日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島へ向け出港。
- 7月25日 - トルーマン大統領、日本への原爆投下を決定。
- 7月26日 - テニアン島到着。
- 7月31日 - リトルボーイ組み立て完了。
- 8月5日 - 爆撃機への搭載完了。投下に用いられた爆撃機はB-29であり、機名はエノラ・ゲイと名付けられた。機長はポール・ティベッツ。
- 8月6日午前8時15分(日本時間) - 広島県広島市の上空高度9,600mから投下され、細工町(現:広島市中区大手町)の島病院上空約600mで爆発した。(500mとも言われる)
焼失面積13,200,000m²、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。爆心地の近くにあった広島県産業奨励館は、現在原爆ドームとして世界遺産に登録されている。
(原爆被害の詳細は広島市への原子爆弾投下を参照)
[編集] 注釈
- ^ リトルボーイの意味は、開発当初の設計(シン・マン)寸法よりも短いものとなったため、リトルボーイ(少年)と呼ばれていたからという。(これには異説もある)
- ^ ガンバレルとは、銃の弾の通る部分のこと。機構の詳細は原子爆弾参照。
- ^ 「リトルボーイ」に使われた大量の高濃縮ウランの出所は明らかになっていない。一般には米ニューメキシコ州ロス・アラモスにあるオークリッジ国立研究所の実験用原子炉であったとされている。
[編集] 関連項目
- 広島市への原子爆弾投下
- エノラ・ゲイ
- ファットマン - 長崎に投下された原子爆弾のコードネーム
[編集] 外部リンク