松山城 (伊予国)
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松山城 (愛媛県) |
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通称 | 金亀城、勝山城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | 連立式層塔型3重3階地下1階 (1852年再)[1] |
築城主 | 加藤嘉明 |
築城年 | 慶長7年(1602年)着手 |
主な改修者 | 松平勝善 |
主な城主 | 加藤氏、松平(久松)氏 |
廃城年 | 明治6年(1873年) |
遺構 | 現存天守・櫓・門、石垣、堀 |
指定文化財 | 国の重要文化財(大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟) 国史跡 |
再建造物 | 小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門、艮門東続櫓など |
位置 | 北緯33度50分43.94秒 東経132度45分56.6秒 |
松山城(まつやまじょう)は、愛媛県松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸を構える城郭。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。
目次 |
[編集] 概要
今や日本に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つ(現存天守)。
現存12天守の中では、姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式で、日本三大平山城や日本三大連立式平山城にも数えられる。日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)もある。また、社寺建築に用いられる正面扉様式(蔀戸・しとみど)を持つ本壇天神櫓は全国的にもあまり例はない[2]。
[編集] 天守
創建当時には現在三重天守の建つ天守台に五重天守が建てられていたとされており、1642年に何らかの理由により、3重に縮小されている。本壇がある標高132mの本丸広場の一部は谷を埋め立てており、地盤が弱かったからとも、武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれている。その三重天守も1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失し、現在も現存する大天守は、三代目天守であり、黒船来航の前年である1852年に再建された連立式層塔型3重3階地下1階構造である。五重天守である福山城大天守(9間×8間)のものをしのぐ規模の天守台(8間×10間)に3重3階の大天守が建てられている。現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋章が付けられた、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)であるといわれている。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 江戸時代
- 1602年(慶長7年)、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明[3]が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する広大な平山城の築城に着手[4]。
- 1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
- 1619年(元和5年)、武家諸法度違反による福島正則の改易により、幕府の命を受け、嘉明が広島城受領のため赴く。
- 1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。
- 1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に逝去し、蒲生家が断絶する。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。
- 1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎える。
- 1642年(寛永19年)、創建当時5重であったという天守を、定行が3重に改築する。
- 1647年(正保4年)、寛永の鎖国後、長崎に2隻のポルトガル船が入港したため、定行が家臣とともに海上警備に赴く。この時に持ち帰った南蛮菓子の製法が、銘菓タルトの原型とされる。
- 1784年(天明4年)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。
- 1828年(文政11年)、藩主・松平定通が文武の振興[5]のため、藩学の拠点として明教館を創設した。
- 1854年(安政元年)2月8日、時の藩主・松平勝善が天守本壇を落成させる。
- 1867年(慶応3年)、藩主・松平定昭幕府老中職となる(大政奉還により辞任)。
[編集] 近代
- 1868年(明治元年)、土佐藩が松山城を受領・保護(藩主は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免される)。
- 1870年(明治3年)、松山城三之丸が焼失。2年後に二之丸も焼失。
- 1871年(明治4年)、廃藩置県により松山藩から松山県となる。
- 1873年(明治6年)の廃城令による破却に本丸は遭わなかった。主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられるが入札はなく、解体のみ行われたようである(大蔵省所管)。同年、愛媛県が成立。
- 1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の連兵場が三之丸(堀之内)にあった[6]。
- 1891年(明治24年)、俳聖正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表する。また、1895年(明治28年)には、「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠む(JR松山駅前に句碑がある)[7]。
- 1923年(大正12年)、松山城(本丸)が久松家[8]へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、以降、市の所有となっている[9]。
- 昭和に入り大天守を除く幾つかの建造物が放火・空襲により焼失、戦後の昭和40年代から忠実に復元され現在に至る[10]。
- 1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定される[11]。
[編集] 現代
- 1952年(昭和27年)に、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定される。
- 1955年(昭和30年)にはロープウェイが、1966年(昭和41年)には平行してリフトがそれぞれ登城客の利便を図るため設置され、360度開けた大天守からの眺望のよさもあり、松山市を代表する観光地となっている[12]。
- 1989年(平成元年)に、松山城山公園が日本さくら名所100選に選定された。
- 1992年(平成4年)4月に、大井戸などの遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成。
- 2004年(平成16年)10月より行われていた大天守ほか6棟の改修工事は2006年(平成18年)11月末に終了。改修を記念して、大天守の「しゃちほこ」に「天丸」と「まつ姫」の愛称が公募によって付けられた。また、改修工事中、江戸時代に侍を描いたと思われる、下見板裏の落書きが発見された(天守閣内に展示)。
- 2006年(平成18年)に、松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定された。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(81番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
- 2007年(平成19年)3月2日、情緒あるたたずまいが残されていることが評価され美しい日本の歴史的風土100選に道後温泉とともに選定された。
- 2008年(平成20年)1月、現存12天守スタンプ帳付きの松山城観光案内図の配布開始。
[編集] 城周辺
[編集] 城下町
愛媛県の県庁所在地であり、50万人を超える人口を有する四国最大の都市松山は典型的な城下町。標高150m[13]を超える大天守の最上階の窓から、360度広がる大パノラマで松山平野を見渡せば、城下町の言葉の意味をおのずと理解できる。また、天気にさえ恵まれれば、市内だけでなく西日本最高峰の石鎚山や日本一細長い半島といわれる佐田岬および瀬戸内海に浮かぶ県外の島々までも見ることができる。
松山市内から見る松山城天守は、江戸時代から今日にいたるまで、圧倒的な存在感を持ったランドマークである。今でも市民は帰郷時、松山城天守を見ると「帰ってきた実感が沸く」といい、それが天守がライトアップされた夜間の場合は、なおさら感傷的になるとも言われる。
[編集] 文化財
以下の21棟が国の重要文化財に指定されている。
- 天守
- 三ノ門南櫓
- 二ノ門南櫓
- 一ノ門南櫓
- 乾櫓
- 野原櫓
- 仕切門
- 三ノ門
- 二ノ門
- 一ノ門
- 紫竹門
- 隠門
- 隠門続櫓
- 戸無門
- 仕切門内塀
- 三ノ門東塀
- 筋鉄門東塀
- 二ノ門東塀
- 一ノ門東塀
- 紫竹門東塀
- 紫竹門西塀
[編集] 焼失した文化財
1945年、戦災で以下の11棟の建造物(旧国宝)が焼失した。
- 天神櫓、馬具櫓、太鼓櫓、巽櫓、乾門、乾門東続櫓、太鼓門、太鼓門続櫓、乾門西塀、太鼓門東塀、太鼓門西塀
また、戦後の1949年2月27日、不審火で以下の3棟の建造物(旧国宝)が焼失した。
- 筒井門、筒井門東続櫓、筒井門西続櫓
[編集] 観光
[編集] 交通アクセス
松山城本丸は、市街のほぼ中央に位置する標高132mの山頂にある[14]。天守へのルートは、4つあるが、一般・観光客向けのルートは東雲口と呼ばれる東側からの登城道で、こちらはロープウェイやリフトも整備されているし、東雲神社を通って徒歩で上ることもできる。他のルートは、地元の人が散歩等にもっぱら利用しており、県庁裏登城道以外はあまり整備されていない。
松山城ロープウェイ東雲口駅舎の最寄り駅は、徒歩約5分のところにある伊予鉄道市内電車の「大街道駅」(「坊っちゃん列車」も停車する)。大街道駅の北側に、ロープウエー街の入口があり、また、少し東側には交番や伊予鉄道のタクシー乗り場がある。なお、松山城ロープウェイ東雲口駅舎1階には、(財)松山観光コンベンション協会運営の年中無休の観光案内所[15]がある。
毎朝、城も巡る半日の定期観光バスが道後温泉駅前から伊予鉄道により運行されており、また、松山の見どころを定期的に巡回する「マドンナバス」も、土・日・祝・振替休日には運行している。
主な松山の玄関口からの公共交通手段は次のとおり。
- 松山空港から
- 「道後温泉駅前行き」リムジンバスで、乗車時間約30分「大街道(おおかいどう)」下車。
- JR予讃線松山駅から
- 「道後温泉行き」伊予鉄道市内電車で、乗車時間約10分「大街道」下車。
- 伊予鉄道松山市駅から
- 「道後温泉行き」「環状線大街道方面行き」伊予鉄道市内電車で、乗車時間約6分、「大街道」下車。または「道後温泉行き」坊っちゃん列車で、乗車時間約7分「大街道」下車。
- 松山観光港から
- 「道後温泉駅前行き」リムジンバスで、乗車時間約30分「大街道」下車。
- 三津浜港から
- 「松山市駅行き」伊予鉄道路線バスで、乗車時間約40分「松山市駅」下車。更に市内電車へ乗り換え。
なお、松山城ロープウェイ東雲口駅舎から道後温泉駅までの移動手段は次のとおり。
- 「ロープウェイ前」バス停から伊予鉄道路線バスで、乗車時間約7分「「道後温泉駅前」下車。(路線バスはどの行き先でも道後温泉駅前に停車し、おおよそ30分に1本程度運行。また、そのまま51番札所石手寺にも行く。)
- 駅舎から徒歩5分、「大街道」から伊予鉄道市内電車で、乗車時間約10分。または、「大街道」から坊っちゃん列車で、乗車時間約10分。
[編集] 利用情報
- 観覧時間 9:00~16:30(季節により異なる)
- 休み 無休(12月29日のみすす払いのため閉城)
- 料金 天守閣観覧料500円(大人)
- 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
- 松山城天守入口の米蔵内
[編集] 脚注
- ^ 落成は1854年(安政元年)。
- ^ 天神櫓には久松家の祖先とされる菅原道真が祀ってあり、艮の方角に位置することから、祖先の霊廟であるとともに城の守護神としての意味が与えられていたと思われる。
- ^ 賤ヶ岳の七本槍の一人で、朝鮮出兵における水軍の将。
- ^ 倭城の防御手法であるといわれる二之丸と本丸間を結ぶ登り石垣を築いている。
- ^ 定通は殖産興業にも留意しており、鍵谷カナにより伊予絣が創設された。
- ^ 二之丸は病院となっていた。
- ^ 1906年(明治39年)には、正岡子規と親交のあった夏目漱石により、小説「坊っちゃん」が発表された。
- ^ 明治に入って松平家が姓を返上し旧姓に戻した。
- ^ 2008年(平成20年)4月1日から伊予鉄道株式会社が松山城関連施設の指定管理者となった。
- ^ 国宝指定作業で正確な図面が残されており、ほとんど木造復元。
- ^ 旧国宝建造物35棟のうち、戦災で11棟が、昭和24年(1949年)の火災で3棟が焼失し、現存するのは大天守を含む21棟である。これら21棟は昭和25年文化財保護法施行により重要文化財指定となる。
- ^ 1951年(昭和26年)には松山国際観光温泉文化都市建設法が公布されていた。
- ^ 勝山(城山)の高さ132m、本壇の高さ8.3m、大天守の全高20m。
- ^ 二之丸からでも約90mの高さがある。
- ^ (財)松山観光コンベンション協会の電話番号089-935-7511。
[編集] 関連項目
- 道後温泉
- 道後温泉本館
- 湯築城
- 日本の城一覧
- 四国の史跡一覧
- 日本の観光地一覧
- 日本最後の一覧
- 新日本観光地100選
- 新日本旅行地100選
- 日本さくら名所100選
- 日本の歴史公園100選
- 日本100名城
- 現存天守
- 石垣の積み方
- 曲輪
- 一国一城令
- 武家諸法度
- 全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方
- 松山城放火事件
[編集] 参考文献
- 『松山城』 松山城編集委員会編(絶版)