風景
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風景(ふうけい)とは、身体感覚でとらえられる周囲の様子、特に目に見える景色を、主観的に構築し直した結果顕われる様子・景色のこと。
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[編集] 日本の風景
日本の景は、雄大さはなくても、変化に富んでおり、また四季の変化も明確であったから、風景への関心はきわめて高かった。これは、古代中国における山水癖といわれるものの影響も大きい。万葉集の成立以来、和歌では、風景が良く故事に表われる景色のうち、歌を詠むのにふさわしい場所が選ばれ、歌枕とされた。しだいに歌枕が確定されて、「能因歌枕」「五代集歌枕」のように編纂された。全国には三千もの歌枕があったが、「富士」「吉野」「竜田」「三輪山」「住吉の浜」などは、ことに著名な歌枕である。徳川時代になって五代将軍綱吉の寵臣、柳沢吉保が造営した六義園(現文京区)は、こうした日本全国の歌枕を取り入れて作庭された。名歌に詠まれた土地(名所)を訪れ、古人を偲んで歌を詠む場合もあったが、実際にその場に行ったことがなくても、文学的准素養として決められた風景を決められたように感ずることになっていた。風景への関心や認識は強まったが、固定化され、実感を失い、形式化してゆく。旅行者の視点が重んじられ、それも現実から遊離した擬似的な景になった。古くから日本に伝わってきて、日本の金沢八景などはそれにちなんで作られたものだとよくいわれている。
優れた自然景をもつ地域を風景地と呼ぶが、近代以前の地上には、風光明媚な地域や場所は無数に存在したといわれ、その中で多くの人に愛され、詩にうたわれ、絵に描かれたようなところが著名な風景地として定着し、文化的存在になった。中国で発達した山水画は日本にも大きな影響を与えた。山水画では、名所として瀟湘八景(湖南省洞庭湖付近の風景)が選ばれ、好んで画題とされていた。日本の画人も瀟湘八景を題材としたが、その影響で室町時代末以降、近江八景(琵琶湖付近の風景)が選ばれた。また、雪舟の水墨画「天橋立図」も有名である。しかし、江戸時代になって、瀟湘八景などは完全に日本化された傾向が見られる。そこで異国の情緒の感じる西湖十景を瀟湘八景の代わりに用いるようになったとされる。このようなイメージの転換も面白いところである。江戸時代は初期に松島、宮島、天橋立が「日本三処奇観」と呼ばれ、やがて日本三景として定着した。江戸時代は各国の地理に関心が高まった時代で、『都名所図会』『江戸名所図会』などの刊行や、葛飾北斎の『富嶽三十六景』シリーズ、歌川広重の『東海道五十三次』なども自然風景への関心を示していると言えよう。またこの時期、瀟湘八景から西湖十景へのイメージの転換過程がみられる。これは見方の変化であろう。
風景とは自然と人間との間につくられる関係で、時代、地域、民族、宗教などによって人々は風景に独特の意味を与えて、その思想を表現する。そこには自然に神を見る思想や死後の禁固を望む考え、自然との関係に先人の知恵を感じる思想や、将来の可能性を見る立場などがある。
風景についての見解や認識、鑑賞法や評価法、改造論や操作論など、さまぎまな角度からの論考として、日本で最初の近代的風景論は志賀重昂の『日本風景論』(1894年)といわれる。明治時代中期にベストセラーとなったの『日本風景論』は、日本人に新しい風景観をもたらしたと言われる。ナショナリズムの立場から、日本の風景が変化に富み、優れていることを説いたものであるが、自然の中に美を見出そうとする態度、特に、それらを論理的に描き出そうという方法は後に大きな影響を与えた。また、登山について実用的な案内も行っており、登山ブームのきっかけにもなった。(アルピニズム参照)1927年4月に大阪毎日新聞と東京日日新聞が「新日本八景」を公募によって決めるというコンテストを実施した。その趣意書には、「これまで名勝といい、勝景と呼ばれていたものの多くは全く個人の一部の趣味と、片寄った鑑賞とによって定められたもので、われ等の好尚を代表すべく余りにも隔たりがあり過ぎます。昭和の新時代の勝景を代表すべき新日本の勝策は宜しくわれ等の一新しい好尚によって選定されなくてはなりませぬ。これ本社がこの昭和の時代の初頭において「新日本八景」の選定を江湖にはかるゆえんであります。」としている。こうして、新たな風景観の中で尾瀬や上高地などが自然風景として評価されるようになった。1934年には国立公園として瀬戸内海、雲仙、霧島の3箇所が初めて指定され、同年、阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇山の5箇所が追加された。また同じ頃、外貨獲得のため観光地を整備するという政策が取られ、その一環で上高地、雲仙、志賀、赤倉、阿蘇、蒲郡、唐津、松島、琵琶湖、川奈、日光などに国際観光ホテルが建設された。
鉄道など交通機関の発達も、日本の風景に大きな影響を与えたといえる。[1] 日本における風景の原義は、風光(風と光。風の景ではない。古代中国では、「景」とは「光」のことであった。)であり、景そのものではなく風と光の織りなすものといった意味があるとの指摘もある。景は光と影を含む。眼の前に広がる自然を風や光や影として捉え、感じ、愛でることである。詩歌の世界ではその中心対象であった。[2]
類義語に景観、光景等がある。現在では「景観」と「風景」はほとんど同じ意味で使われる。しかし近代合理主義的理解が支配的だった頃は、「景観」は客観的景色として対象を記述するもので価値を含まないとされ、ランドスケープに用いて、主に都市など人工的なもの、用語例として都市景観、歴史的景観、景観評価、のように使われる。「風景」は逆に主観的な情動で客観性に欠けるとされていた。今でも若干その傾向は残っており、風景は「原風景」「風景美」のように、風景は主観的な景色・ランドスケープに用いる。主に自然に対し、用語例として「自然風景」のように使われることのほか、盛り場風景、授業風景などと雰囲気を表すことばとして用いられる。また自然や人造物の一部を風景ととらえ、主として美的感性によって観察、評価する文化的態度は風景鑑賞と日本では山水画、浮世絵、和歌や俳句、茶道や庭園などが風景鑑賞の文化を背景に発展した。具体的な風景の影響を受けて生まれた作品も多く存在する。
また、光景は瞬間的なもの、景観・風景は持続的なものに使われることが多い。景観の語感と比較すると、風景は自然が中心であるように思われ、人工物は山水画にあらわれるような点景であると思われがちである。風景も景観と同じく主体との関係はあるのだが、これを鑑賞できる一定の教養を前提にしているから、その水準での主観性をもちやすい。日本三景、近江八景などはその例である。風景のほうは心情的な面が強く、古くから使われてきたから市民的には使いやすい言葉である。「風景のデザイン」は、自然物を主たる対象にするランドスケープ・デザインのほうが馴染む。だが、現在、自然のままの風景はほとんどなく、何らかの人工的な手が加わっているから、両者はあまり差がなくなっている。風景という単語にはよく形容詞がつく。風光明媚な風景、たおやかな風景、雄大な風景、心落ち着く風景・・・このように何らかの評価が付加されて語られるのである。景観という言葉が、農村景観、文化景観というように本来は学術的用語であり、やや客観的な意味合いを持っているのに対し、風景は主観的で、より優しい響きをもっている。実際に多くの場合、我々が景観を見るときには意識的にであれ無意識であれ印象や影響を得ている。その印象をひとは様々な形で受け止める。そこには評価の過程がある。風景というのは一枚の写真であり、絵画であるといっても過言ではなく、人が写真や絵画にその風景を収めたいと思うのは何らかの理由でその風景を魅力的に思うからであるが、絵画や写真と異なり、風景は時性や五感と共に印象付けられる。日常風景ではその生活の様が静止画ではなく、音や熱気などと共に一連の生活という動きとなって印象付けられる。
「風景」という言葉には、文学的・芸術的なニュアンスが多く含まれており、景観よりも柔らかで心情的な響きがあって、こちらのほうが的確に表現できる場合もある。文芸評論家奥野健男の『文学における原風景』は作者の心に内在する風景を取り上げたものだが、それ以来「原風景」という用語がよく使われるようになったとされる。これを「原景観」とは言わない。風景は人によって様々な受け取られ方をするが、個々人の価値観を、文化を、時代を超えて人に愛される風景も確かに存在する。人類に共通する普遍的な要素がそうした風景の中には見られるのではないか、というのはオギュータンベルクのいう元風景の考えかたである。一般的に人間の活動と周囲の環境が調和した風景は好まれるし、人類の普遍的な生物学的性質-特定の造形を好むとか、パターンのない無秩序な混乱を好ましく思わないなど普遍的な認識パターンも元風景の要素として挙げられる。また人間は本来の生息適地の風景を本能的、無意識に覚えており、それが風景の好みに影響を与えている、という考え方がある。たとえば全人類に疎開林と草原を好む傾向が認められる。これは人類が二足歩行を行い始めたサバンナの景観と共通している。生物学的な元風景よりも高次な基層的な風景を、多くの人は原風景と呼ぶ。それは元風景の特質を持つ風景(もしくは逆の性質をもつ好ましくない風景)が、文化的、歴史的蓄積や個人の体験の蓄積の中である程度具体的な風景となり、人々の無意識(もしくはおぼろげな意識)の中で一つの風景の評価基準となったものである。それは幼少の頃からの個人的な体験によって積み重ねられたものもあれば、日本人全体が共有している美意識のように、文化集団で共有されるものもある。
[編集] 滋賀県における風景と景観
滋賀県は1984年7月に「湖国」滋賀の風景を守るために、「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例」という都道府県レベルでははじめての風景条例を制定した。琵琶湖沿岸の景観は条例の主軸になっており、湖岸全域が「琵琶湖景観形成地域」に指定されている。またそれ以外の地域においても「沿道景観形成地区」や「河川景観形成地区」等が指定され、開発行為や建築行為の規制誘導がはかられている。 滋賀県の取り組みは、住民と一体になった整備に眼がおかれている。条例で指定された地区においても、説明会や縦覧、意見書の提出といった手続きをとり、その後審議会にかけるといったように、住民の意見をできるだけ反映していくシステムをとっている。また、審議会にも地域リーダーの参加要請、さらには、住民の啓蒙のため、県民講座や絵画展、写真版などを開催。また、修景・企画担当の市町村職員を対象とした研修でも、設計者や地域リーダーとの意見交換をはかり、住民と行政担当者が一体となった整備を目ざしている。こうした住民と一体となった整備手法として、「近隣景観形成協定」の締結が風景条例にもりこまれている。協定は、住民が自主的に締結し市町村長の推薦に基づいて知事が制定・公表するという手続きを踏む。協定地区には補助制度かあり、補助金は県と市町村が折半する形をとっている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 柳田国男「風景の成長」『豆の葉と太陽』[柳田国男全集12]、筑摩書房、ISBN 4-480-75072-X
- ^ 『月瀬幻影—近代日本風景批評史』中央公論新社、2002年3月、446頁、ISBN 978-4120032509