聖路加国際病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん、St. Luke's International Hospital)は、東京都中央区にある財団法人<公益法人>であり総合病院。東京都災害拠点病院。
目次 |
[編集] 名称
病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされるルカの漢字表記からとられている。「せいろか」という読み方が定着しているが正確には誤りである。ただし、職員も一般的な読み方にあわせ「聖路加」と発音する。
聖ルカは、『コロサイ人への手紙』で「親愛なる医者のルカ」(4章14節)と呼ばれていることから、キリスト教圏では病院の名前に使われることが多い(参考:en:St Luke's Hospital)。ちなみにルカは12使徒ではない。
[編集] 概要と特徴
[編集] 評価
種々のメディアにおいて高い評価を受けている[1][2][3]。宮家、皇族の縁者、文化人、財界人などが利用する病院としても有名である(戦前の旧病棟の建設にあたり多額の資金が皇室から下賜されているなど歴史的に皇室との関係が非常に深い)。
現在、病床の半数が差額ベッドであり、特に救急入院の際には医療者・患者とも逡巡するのが常である。無差額ベッドもあるが、長期入院の患者を主治医の裁量で「入院期間の半分程度」になるように割り振るのが慣例となっている。生活困窮者や心身障害者などに対しては、社会資源の利用を調整したり患者の家族の悩みに応じる、などの役割を担った医療ソーシャルワーカーが常駐する「医療社会事業科」が1階ロビーに面して開設されている[4]。が、将来的には全室が差額ベッドとなる予定である。
日本最初の人間ドックの開設などで予防医療の重要性を呼びかけたり、「成人病」の呼称を「生活習慣病」と正確なモノに改めるように提言するなど、設立以来今日まで日本の医療行政におけるご意見番的な存在でもある[要出典]。
[編集] 第1街区: 旧病院棟(1933年)の保存部分を含む棟
保存部分はアントニン・レーモンドら3名のチェコ人建築家によって設計されたネオ・ゴシック様式の建物で、 創立者トイスラーの出身地であるボストンのマサチューセッツ総合病院をイメージしてデザインされた。
礼拝堂のステンドグラスは、予算の関係から複雑な聖人画などは作れなかった。逆に抽象的な図像でキリスト教の殉教の歴史を象徴する画が配されており、特に魚の図像はローマのキリスト教弾圧の時代にキリスト教徒同士の合い言葉であったと同時に、築地市場のある土地を反映したものとなっている。
礼拝堂の前には床のタイルにハエやネズミなど、伝染病を媒介する動物、及びアラジンの魔法のランプ(迷信を象徴するもの)がレリーフとして彫られており、これらを足で踏みつける事が出来るようになっている[5]。
新館に移転後はオルガンなどが設置され、現在は聖公会による聖書朗読会やミサなどが行われている。また、日に4度(9・10・12・17時)鐘楼から賛美歌の鐘が流れ、築地・佃一帯で聴く事が出来る。
かつて病棟があったときには、各階病棟から礼拝堂(旧館チャペル)に出ることができた。旧館には現在、入院病棟は無い。
[編集] 解体計画
中央区明石町の3街区にわたる病院敷地全体の再開発事業(聖ルカ・ライフサイエンスセンター構想)の開始にあたり、当初計画では旧病院棟の全体が取り壊される予定であった。しかし、日本建築学会がアントニン・レーモンドの設計による礼拝堂(旧館チャペル)の文化的重要性を理由に保存の要請をした結果、設計変更が行われて旧病院棟のチャペルを含む中央部分は内外観ともにレーモンドの設計による姿が忠実に保存修復されて全体の象徴になっている。なお、チャペル及び付属する旧病棟は、居留地時代の名残を残す明石町のシンボルとして、東京都選定歴史的建造物の選定を受けている。
[編集] 現状
現在は中央部分(外部はエントランス部分から十字架が立つ尖塔にかけて、内部は礼拝堂・ロビー・事務室・その他)が保存されている。十字架の尖塔と礼拝堂の保存部分を中央にして左右に保存部分とデザインを整合させて設計されたウイング状の棟があるがこの部分は新築である。左側のウイングの大部分は聖路加看護大学の施設となっており、右側のウイングには「小児総合医療センター」などの施設がある。かつては右側ウイング内に「予防医療センター(人間ドック)」があったが現在は超高層ビル棟(聖路加タワー)の3・4階に移転している。
[編集] 第2街区: 新病院棟
日建設計によって設計された。ユタ州ソルトレイクシティのセントマークス病院(1973年)をモデルとした建築[6]であるが、敷地に合わせて多少縮小されている。1992年竣工。
設計思想は日本の大規模な総合病院における、緩和ケア病棟や訪問看護科、北米ER型救急外来設置などの面における嚆矢である。患者のプライバシーに配慮する方針、及び感染防御の観点から500床の病床のほとんどが個室(例外は小児病棟、緩和ケア病棟、三つの集中治療室のみ)である。東京都の指定する三次救急病院である。また「緩和ケア病棟」や「訪問看護科(「自宅での看取り」を援助)」による終末医療の面でも日本における模範的・指導的な先駆者の立場にあたる[要出典]病院である。
また、戦時や大規模災害時には病院機能を臨時拡張して医療処置を遂行できるよう設計されていることで有名である。具体的には、施設内のあらゆる壁面に酸素供給口が設けられており、大規模災害時などにチャペル・ロビー・ホール・廊下などの病院内の全ての空間が「野戦病院化」して当該時に激増する患者・被災者に対して院内のどこでも救急救命医療処置を施すことが可能になっている事などである。これは当時の常務理事である日野原重明が、スウェーデンの病院に同様の設計があることから提言したと述べている[7]。日野原がこの設計を取り入れたのは、東京大空襲の経験による。
この「全館野戦病院化が可能である」という日本においては珍しい[8]機能は、完成から3年後(1995年)の地下鉄サリン事件において劇的な形でいかんなく発揮されることになった。
新病院に移転すると共に、薬品・物品の搬送(SPDシステム)は専門の係員を雇い、看護師・薬剤師の業務を大きく軽減した。また、電子カルテを積極的に導入しており、2003年導入の第三次システムではほぼ完全にペーパーレス化を実現している。
テレビ局などのドキュメンタリー取材もよく受け入れている[9][10]。しかし、杏林大学#医学部付属病院などのような、病院を舞台としたドラマや映画の撮影などに病院の施設を提供するということはしていない。
第3街区の棟(聖路加タワー)とは屋外空間状態(屋根付き)の連絡橋(下は片側2車線の公道)で2階レベル同士が繋がっている。
[編集] 第3街区: 超高層ビル棟(聖路加タワー)
病院の敷地を構成する3街区のうちの最も隅田川寄りの街区に建設された超高層ビルディング形態の棟。47階建てと38階建ての高低差がある特徴的なデザインのツインタワー構造で東京湾岸のスカイラインを造形する代表的な建築物として知られている。
47階建ての棟の3・4階には予防医療センター(人間ドック)があり、その上部はオフィスフロアとして賃貸されている。かつて、大手広告代理店電通の大半の部署が汐留に新本社ビルを完成させる前にこの部分に入居していた。最上部には展望レストラン「Luke」(聖ルカの意)があり、また、日本テレビとフジテレビの定点観測カメラが東京湾岸の状況を中継するために設置されている。
38階建ての棟は、下から約4分の3は医療介護付き居住施設の聖路加レジデンスで、約4分の1の最上部には東京新阪急ホテル築地が入居している。
新阪急ホテルは上記の地下鉄サリン事件の当日にスタッフを病院の後方支援に充てるという体制を組んで救助活動に参加した。
[編集] 歴史
同院発行の100周年記念誌[11]による。
- 1874年(明治7年)、東京・築地の外国人居留地に、イギリス国教会長老派の宣教医師ヘンリー・フォールズが病院「健康社」を設立。後に「築地病院(Tsukiji Hospital)」と改称し、築地近辺で転々と場所を移動した(後に東京都が設立する築地病院とは別である)。フォールズはこの地で指紋捜査法を発見した。
- 1902年(明治35年)、フォールズが帰国した後荒廃していた築地病院の建物を、聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とする(病院は同年を公式な設立年としている)。
- 1923年(大正12年)、関東大震災で病院が倒壊、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。新病院が完成後は、仮設病院は管理棟や看護専門学校(後の聖路加看護大学)として使用された。
- 1933年(昭和8年)、皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により病院が再建され、聖路加国際病院及び聖路加国際医道院(St. Luke's International Medical Center)とする。
- 1943年(昭和18年)、戦時体制下で大東亜中央病院と改称する。
- 1945年(昭和20年)、聖路加国際病院がある事により、築地・明石町一帯は東京大空襲による爆撃を免れるが(一説には米軍が病院屋上より爆撃地点を確認したとの説がある)、敗戦後1955年(昭和30年)までの占領時代は米軍に接収されて米軍極東中央病院として使用されたため、その時期は現在の国立がんセンター中央病院がある場所に「聖路加築地分院」を開設して診療した。
- 「本院」が米軍から返還された後に「分院」の方は、その敷地と施設において国立がんセンターが発足[要出典]して、その目的で使用されるようになり今日に至っている。
- 1963年(昭和38年)、付属の看護専門学校を改組し4年制の聖路加看護大学とする。
- 1992年(平成4年)、震災後の仮設病院跡地に新病院が完成。
- 1995年(平成7年)、地下鉄サリン事件が発生。最寄り駅である築地駅で最も多くの被害者が出た事から、本件で最大の被害者受け入れ先となった。
[編集] 診療科
|
|
|
|
[編集] 関連組織および法人
- 財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所
[編集] 脚注
- ^ 日経ビジネス」が毎年主催する「良い病院ランキング」でたびたび第1位になる[要出典]
- ^ 週刊ダイヤモンド」2007年4月7日特大号の特集記事内「8000人が選んだベスト病院ランキング」総合第1位
- ^ 行きたい病院・満足した病院ランキング goo Researchと読売ウィークリーの調査:「行きたい病院」2位、満足度3位(いずれも東京都内)
- ^ 「医療社会事業科」については、日本の医療ソーシャルワーカーの第1号は浅賀ふさで、1929年、アメリカで学んだ浅賀が聖路加国際病院に勤務したことから日本の医療社会事業の歴史が始まったという背景がある。明治期には困窮者に医療を提供しつづけたことで明治天皇から褒状と花輪が贈られた
- ^ 藤森照信『建築探偵 奇想天外』朝日文庫 ISBN 4-02-261181-2
- ^ ルイス・G.レッドストーン編 田中一夫訳 『病院と医療施設』 啓学出版 現代建築集成
- ^ 聖路加国際病院 救命救急センター『業績集 1997-2007』
- ^ 現時点で明確に確認されているのは聖路加国際病院のみである。
- ^ NHKスペシャル『こども 輝けいのち』ISBN 4-1408-0813-6
- ^ アンテナ22#2006年 「実録 ナースのお仕事・救命センター新人奮闘記」
- ^ 『聖路加国際病院の一〇〇年』
[編集] 関連項目
- 渋沢栄一
- 日野原重明
- 三笠宮崇仁親王
- 正田英三郎
- 水上達三
- 土居健郎
- 横尾和子
- 伊藤雅俊
- 森亘
- 地下鉄サリン事件
- 特定機能病院
- 東京都災害拠点病院
- 救急指定病院
- 地域医療支援病院
- 聖バルナバ病院(同じく聖公会系の病院)