支那事変
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支那事変(しなじへん)は、日中戦争の呼称として、当時の日本国政府が定めた呼称である。
当項目では、「支那事変」という呼称に関する問題について述べる。戦争の経過等については当項目ではなく日中戦争を参照のこと。
[編集] 概要
1937年7月の盧溝橋事件および8月の第二次上海事変以降、日本と中国とは事実上の戦争状態に突入した。しかし1941年12月までの間は、日本国政府と蒋介石政権の双方が宣戦布告を行わず、公式には「戦争状態にない」という状態が続いた。双方が宣戦布告を避けたのは、両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためである。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。
日本にとっては特にアメリカ合衆国で中立法が適用されることを避けたことが大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるときもしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国への武器および軍需物資の輸出を禁止するものであった。当時の日本は石油をはじめとする軍需物資の多くをアメリカとの貿易に依存しており、中立法が適用されれば長期の戦争継続は困難であった。
「戦争」に代わる呼称として日本政府では初め北支事変(ほくしじへん)、後には支那事変(しなじへん)の呼称を用いた。新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。1941年12月の日米開戦とともに、蒋介石政権は日本に宣戦布告し、日中間は公式に戦争状態となった。1941年12月以降、日本政府では中国大陸での戦争を含めて「大東亜戦争」と呼称した。
戦後は1937年7月以降を含めて「日中戦争」と呼ぶ呼称が広く定着している。これは「事変」といいながら事実上の戦争状態にあったという認識、さらに「支那」という言葉の使用を避けてのことである。ただし防衛庁防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である『戦史叢書』、靖国神社や各県の護国神社では「支那事変」の呼称を使用している。