藩閥
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藩閥(はんばつ)は明治から大正にかけて日本の政府と軍の要職を占めた旧・西南諸藩出身者のグループに対する批判的呼称である。ここで用いられる西南諸藩とは特に薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩のいわゆる薩長土肥であるが、しかし土佐・肥前出身者は少数にとどまり、薩摩・長州両藩出身者が群を抜いて大規模な閥族を形成した。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、実質的に伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった。
藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであるため当時から批判的に取り扱われてきた。自由民権運動の頃から批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「閥族打破・憲政擁護」が合言葉とされた。しかし一方では、政府と軍の各部署の間の有機的な連係が藩閥によって形成されていたという側面もあり、昭和に入り試験や育成機関から採用された官僚や軍人が部署の実権を掌握するようになると縦割り的弊害が甚だしくなり国家の方針が定まらず迷走することになる。また、藩閥の消滅による緊張感の低下が政党の腐敗を招き、官僚や軍部に迎合するようになった。