伊藤博文
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伊藤 博文 (いとう ひろぶみ) |
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在任期間 | 第1次: 1885年12月22日 - 1888年4月30日 第2次: 1892年8月8日 ‐ 1896年8月31日 第3次: 1898年1月12日 ‐ 1898年6月30日 第4次: 1900年10月19日 ‐ 1901年5月10日 |
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生年月日 | 1841年10月16日 (天保12年9月2日) |
出生地 | 周防国熊毛郡束荷村 (現・山口県光市) |
出身校 | 松下村塾 |
学位・資格・称号 | 従一位大勲位公爵 名誉博士(エール大学) |
前職 | 枢密院議長 |
世襲の有無 | - |
選挙区 | - |
当選回数 | - |
党派 | - |
没年月日 | 1909年(明治42年)10月26日 |
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の政治家である。
明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。
幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 幼年期 - 挙兵
周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に、農民・十蔵、琴子の長男として生まれる。家が貧しく12歳ころから奉公に出る。父が萩藩の中間水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となり、下級武士の身分を得る。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上聞多らと倒幕運動に加わった。
文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。また、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺した。
文久3年(1863年)には井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に(長州五傑)イギリスに渡航。翌元治元年(1864年)、四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走するもかなわず下関戦争(馬関戦争)が勃発する。戦後は和平交渉に通訳として参加した。
長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。後に奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。
[編集] 明治維新 - 初代首相
維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論争では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。
大阪会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。明治14年の政変で大隈重信らが失脚すると憲法制定のためにヨーロッパへ渡り、初代枢密院議長として大日本帝国憲法制定に関わる。明治17年(1885年)に内閣制度が創設され、初代内閣総理大臣となる。のち枢密院議長、貴族院議長などを経て3回組閣、合わせて4度にわたって内閣総理大臣を務めた。
明治33年(1900年)には立憲政友会を創立、初代総裁を務める。日露戦争前は、日露協商論・満韓交換論を主張し、ロシアとの不戦を説き、日英同盟に反対した。講和後、戦後処理に奔走する。後に元老の一員となる。
[編集] 韓国統監府初代統監就任 - 暗殺
明治37年(1905年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(韓国では広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。
日韓併合について、当初は保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、反対の立場を取っていた伊藤だが、韓国国内の抵抗派に手を焼き、最終的には殺害される前の閣議で併合による植民地化を、猶予を設けて承認した。伊藤はその施策から韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。
明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)[1]。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
ただし、日本の保守派の間では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている(韓国併合#歴史認識の差異も参照)。
また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。
伊藤の死に際しては、
- 日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。 高宗
- 韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。 エルヴィン・フォン・ベルツ
- 我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。 宮武外骨、『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号
などの評価がある。宮武の評価は、時としては異例のものであった。これまで伊藤を攻撃していたマスメディアまでも、その死に際して「伊藤公の死は日本の大損失である、否世界の大損失であると叫び、明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。
[編集] 死後
埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、桜に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。
[編集] 人物
[編集] 苦悩
4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に順風満帆であったわけではない。明治10年代、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う側面もあった)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
[編集] 芸者好き
伊藤の女好きは当時から非常に有名であり、女性と遊んでは捨て去ることから、「箒」というあだ名がついた。また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱でうなされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明は子孫の一人という。
[編集] 民族衣装
扶桑社刊の『新しい歴史教科書』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として韓国人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。
[編集] 操り人形
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。
[編集] 通称の変遷
当初は「利助(りすけ)」だったようだが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。
[編集] 栄典・爵位
- 1877年11月2日:勲一等旭日大綬章
- 1884年7月7日:伯爵授爵
- 1885年5月25日:スウェーデン王国 ヴァーサ勲章一等
- 1889年2月11日:勲一等旭日桐花大綬章
- 1895年8月5日:大勲位菊花大綬章 侯爵陞爵
- 1896年3月19日:ロシア帝国 アレクサンドル・ネフスキー勲章一等
- 1897年10月4日:ベルギー王国 レオポルト勲章一等
- 1898年4月29日:フランス共和国 レジョン・ド・ヌールグランクロワ章
- 1906年4月1日:大勲位菊花章頸飾
- 1907年9月21日:公爵陞爵
[編集] 家族・親族
- 妻・梅子(芸者時代はお梅と名乗る)
- 長男・文吉(養子。木田幾三郎・長男。文吉の妻は元首相桂太郎の娘・寿満子)
- 二女・生子(福岡県。末松謙澄子爵に嫁する)
- 孫・博精(妻は元首相高橋是清の孫娘)
- 曾孫・文子(出雲国造家の千家達彦妻)
[編集] 系譜
林家は越智氏の流れを汲むと称している。江戸時代、林家は代々農業を営んでいた[2]。博文の父・十蔵が伊藤家の養子に入ったことで伊藤姓を称するようになった。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ[3]。家紋は上がり藤。
助左衛門━十蔵━博文┳博邦━┳博精━┳博雅━┳智明 ┣生子 ┣博春 ┣邦子 ┗八重子 ┣朝子 ┣博通 ┣雪子 ┣文吉 ┣琴子 ┣文子 ┗眞一 ┣博約 ┣典子 ┣愛子 ┗久子 ┣博忠 ┣博臣 ┣博則 ┣博経 ┣十四子 ┣博孝 ┗博英
[編集] 邸宅
[編集] 参考文献
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 211-215頁
- 別冊歴史読本57 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 226-227頁
[編集] 登場作品
- 映画
- 二百三高地 役者:森繁久弥
- 長州ファイブ -CHOSHU Five- 役者:三浦アキフミ
- ロスト・メモリーズ 役者:ウ・サンジョン
[編集] 脚註
- ^ 死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされた伊藤は、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。
- ^ 『日本の上流社会と閨閥』には「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい捨て子だったという説もある。それが武士のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか孝霊天皇の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、河野通有の子孫とか言い出した。…偉くなってからの彼は故郷へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである…。」と記されている
- ^ 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 226、227頁
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 伊藤博文
- 伊藤博文肖像写真(国立国会図書館)
- 『現代名士の演説振』「伊藤博文」(1908年文献)国立国会図書館
- 伊藤博文の千円紙幣(日本銀行)
- 日本の墓 伊藤博文
- 墓所:伊藤博文
- 伊藤博文と明治前期政治史に関する基礎的書誌
- 伊藤公資料館電脳頁
- 伊藤博文別邸
- 伊藤博文旧宅
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歴代内閣総理大臣 | |||||
第--代 -- |
第1代 1885年-1888年 |
第2代 黑田清隆 |
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第4代 松方正義 |
第5代 1892年-1896年 |
第6代 松方正義 |
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第6代 松方正義 |
第7代 1898年 |
第8代 大隈重信 |
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第9代 山縣有朋 |
第10代 1900年-1901年 |
第11代 桂太郎 |
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羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 |
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山縣有朋 - 井上馨 - 松方正義 - 西郷従道 - 大山巌 - 西園寺公望 - 桂太郎 - 黒田清隆 - 伊藤博文 |
内務卿 |
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大久保利通 - 木戸孝允 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 松方正義 - 山田顕義 - 山縣有朋 |
内務大臣 |
山縣有朋 - 西郷従道 - 品川弥二郎 - 副島種臣 - 松方正義 - 河野敏鎌 - 井上馨 - 野村靖 - 芳川顕正 - 板垣退助 - 樺山資紀 - 芳川顕正 - 板垣退助 - 西郷従道 - 末松謙澄 - 大隈重信 - 内海忠勝 - 兒玉源太郎 - 桂太郎 - 芳川顕正 - 清浦奎吾 - 原敬 - 平田東助 - 原敬 - 大浦兼武 - 原敬 - 大隈重信 - 大浦兼武 - 大隈重信 - 一木喜徳郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 床次竹二郎 - 水野錬太郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 若槻禮次郎 - 濱口雄幸 - 鈴木喜三郎 - 田中義一 - 望月圭介 - 安達謙蔵 - 中橋徳五郎 - 犬養毅 - 鈴木喜三郎 - 山本達雄 - 後藤文夫 - 潮恵之輔 - 河原田稼吉 - 馬場鍈一 - 末次信正 - 木戸幸一 - 小原直 - 兒玉秀雄- 安井英二 - 平沼騏一郎 - 田辺治通 - 東條英機 - 湯沢三千男 - 安藤紀三郎 - 大達茂雄 - 安倍源基 - 山崎巌 - 堀切善次郎 - 三土忠造 - 大村清一 - 植原悦二郎 - 片山哲 - 木村小左衛門 - <廃止> |
後継職一覧 |
地方行政部門:国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣 警察部門:国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 土木部門:建設大臣 - 国土交通大臣 衛生・社会部門:厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 |
外務大臣(太政官達第69号) |
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井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西徳二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 -松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -田中義一 - 幣原喜重郎 -犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衛文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豊田貞次郎 - 東郷茂徳 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂徳 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号)) |
吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 -大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号)) |
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 |