重宗雄三
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重宗雄三(しげむね ゆうぞう、1894年2月11日 - 1976年3月13日)は、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を3期9年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。
[編集] 人物
東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業し、明電舎社長・会長を務める。1945年、貴族院議員に勅選される。その後、同郷の岸信介、佐藤栄作兄弟に懇請される形で1947年、参議院議員選挙に立候補し、当選する。1953年から1956年まで参議院副議長。1959年、岸内閣に運輸大臣として入閣する。自民党参議院議員会長などを経て、1962年に参議院議長に就任する。
3期9年間にわたり参議院のドンとして君臨し、池田勇人、佐藤栄作内閣を支えた。重宗は参議院自民党を背景に参議院をまとめ、佐藤栄作首相も重宗の意向に逆らっては、法案審議もままならぬとて、しばしば議長室に自ら赴いて頭を下げるほどの権威を持つに至った。佐藤首相も頭を下げるというので「重宗天皇」などと称され、参議院は「重宗王国」と呼ばれた。重宗は、自民党全盛時代の参議院自民党の力をフルに活用し、しばしば危惧されていた参議院の独自性を守ろうとした節がある。しかし、その権勢が仇となり、議長4選をめぐり、角福戦争も合わさって、河野謙三らに批判されて、議長選挙では自民党の一部と野党が連合して河野を推し、出馬断念に追い込まれて4選を阻止された。
毎冬には、郷里の鱈と河豚を振舞う「たらふく会」を主催し、多くの議員で賑わったと言う。
1974年に政界引退、参議院議員当選5回を重ねた。自民党有力者から一字ずつ取った「三角大福」という造語を作ったのは重宗である。山陽新幹線新岩国駅の開設も岩国市を地盤とする佐藤や岸、重宗の力が大きかったとされる。
子息の重宗昌幸は1976年の第34回衆議院議員総選挙に旧山口2区から自民党公認で立候補したが、落選している。
[編集] 関連項目
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