原文兵衛
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原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年4月29日 - 1999年9月7日)は日本の内務官僚、政治家。第20代参議院議長(在任期間・1992年8月7日 - 1995年7月22日)。従二位勲一等。
妻光子は町村農場創設者・町村敬貴の娘。北海道知事・町村金五は妻の叔父にあたり、内閣官房長官・町村信孝は妻の従弟である。娘婿に参議院議員の中川雅治がいる。
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[編集] 来歴・人物
1961年に警視総監に就任。4年間の在任中に吉展ちゃん誘拐殺人事件、草加次郎事件の陣頭指揮や東京オリンピックでの治安対策に尽力した。
1971年参院選に東京都地方区に自由民主党から出馬し初当選。連続当選4回。自民党東京都連会長などを務め、1981年には鈴木善幸内閣で環境庁長官に就任する。
1991年の海部俊樹総裁下で自民党参議院議員会長に就任。次の宮澤喜一総裁下でも留任。1992年の参院選では陣頭指揮を執り、前回参院選より議席を回復させた。臨時国会で引退した長田裕二前議長に代わって参議院議長に就任。1993年に自民党単独政権が崩壊し、細川護煕連立内閣が発足するが、自民党側の砦として細川政権に抵抗する形で参議院議長の職を全うした。
1995年参院選に出馬せず政界引退を表明。地盤は保坂三蔵が引き継いだ。
[編集] エピソード
- 警視庁警務課長時代に1945年3月10日の東京大空襲を経験。この時、警視庁の専属カメラマンとして空襲の記録の任に当たっていた石川光陽が決死の覚悟で撮影に赴く際に「必ず生きて帰れ」と督励、石川はその言葉を守って生き抜き、大空襲の惨状を伝える写真を残した。
- サハリン残留朝鮮人帰還問題や「慰安婦」問題など、いわゆる戦後処理問題の解決にも熱心だったとされる。女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)初代理事長。
[編集] 参考文献
- 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 389-393頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁
[編集] 関連人物
[編集] 脚注
- ^ 『町村金五伝』390頁
[編集] 外部リンク
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