練兵館
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練兵館(れんぺいかん、練兵舘)とは、斎藤善道(初代・斎藤弥九郎)によって開かれた、幕末の代表的な道場。神道無念流を教えていた。「技の千葉」(玄武館、北辰一刀流剣術)、「位の桃井」(士学館、鏡新明智流剣術)と並び、「力の斎藤」と称される幕末江戸三大道場の一つ。昭和50年(1975年)、斎藤善道の孫にあたる斎藤新太郎によって栃木県小山市に剣道場として再興された。(ただし、神道無念流は伝えておらず剣道を指導している)
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[編集] 力の剣法
神道無念流剣術の特徴は、「力の剣法」と言われる如く、「略打(軽く打つ)」を技ありとしてすら取らず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃のみを一本とした点にある。そのため、神道無念流剣術では他流派よりも防具を牛革などで頑丈にせざるを得なかった。また、他流試合は、相手を殺してしまいかねないので、ほとんど全面的に禁止されていた。
ただし、斎藤歓道(斎藤善道の三男)が千葉成之(千葉周作の次男)に胴を打たれて負けたことや、幕末の関東の剣術家の書いたものの中にも「神道無念流を相手にする場合は胴を狙え」という内容があるように、幕末頃の神道無念流は胴技に対して欠点を抱えていることが、他流から認識されていたようである。
[編集] 道場訓
もう一つの練兵館の特徴は、道場の板壁に大きく張り出された道場訓を稽古のたびに読ませるという点であった。それは以下のような内容であった。
- 兵は凶器といえば、その身一生持ちうることなきは大幸というべし。
- これを用うるは止むことを得ざる時なり。
- わたくしの意趣(いしゅ)遺恨(いこん)等に決して用うるべからず。
- これ、すなわち暴なり。
※ただしこれは読み下し文。
[編集] 門下生
幕末時には、現在の靖国神社の敷地の南西部一帯に百畳敷きの道場と三十畳敷きの寄宿所があり、ペリー来航以来の時代の雰囲気もあって、隆盛を誇った。「力の斎藤」故、道場主も自認するほど、乱暴者も多かった。
有名な門下生には、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎、津山藩の井汲唯一、大村藩の渡邊昇、斎藤善道と同郷の仏生寺弥助などがいる。特に桂小五郎は藩命で帰藩するまでの五年間(1853~1858)、塾頭・師範代を務め続けるほどの腕前であった。その次の塾頭は井汲唯一、渡邊昇らである。仏生寺弥助は、19歳 (17歳とも) で免許皆伝を得、桂や斉藤観之助を凌ぐ達人であったが、粗野な性格であったため塾頭になれなかったとされる。
塾頭
- 桂小五郎
- 井汲唯一
- 太田市之進
- 渡邊昇
- 佐藤常次郎
- 原保太郎
(のちに新選組に入隊することになる永倉新八は、同じ流派ではあるが練兵館ではなく、斎藤善道の師匠に当たる岡田吉利(初代・岡田十松)が開いた撃剣館に入門していた。ただし永倉の入門時は、吉利の子のの岡田利章(3代目・岡田十松)の時代。)
[編集] 歴史への影響
道場主の斎藤善道自身が、雑談の形で、桂小五郎など長州藩や水戸藩などの門下生たちに尊王攘夷思想の薫陶をそれとなく与え続けていたといわれる。
特に桂小五郎は、師匠の斎藤に積極的に願い出て、斎藤の兵学の師である西洋兵学者の江川英龍の弟子となっている。江川は、当時、最新の軍事知識を有する西洋兵学者として幕府からも絶大な信頼を得ており、ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊来航(1853年6月3日 (旧暦))により、江戸湾一帯の台場築造の責任者として駆り出された。桂は、江川から単に小銃術・西洋砲術など近代西洋兵学を学ぶだけでは飽き足らず、この台場築造の実際を見る機を捉えて、積極的に江川に願い出、江川の付き人として一般人が立ち入ることを許されなかった江戸湾の軍事要衝地における台場築造工事をつぶさに視察している。
伊豆国・相模国・甲斐国など五カ国の幕府代官を務める西洋兵学者の江川が、儒学の教養深い斎藤を自分の用人格(ようにんかく)として形式的に召し抱え、斎藤および練兵館の志士たちのスポンサー役を果たしつつ、幕府の危機を彼らに伝え続け、彼らはその貴重な情報を素直に受け止め続けていたのである。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『奔(はし)れ!憂い顔の剣士 桂小五郎』古川薫 著(小峰書店)
- 『醒めた炎 上・下』村松剛 著(中央公論社)