勲等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
勲等(くんとう)は、勲功に対して授与されたもの。日本においては、律令制度が出来た当時は勲位と称し、勲一等以下勲十二等までの12等級あった。また、位階勲等という様に、叙勲は位階に応じて行われた。以下、日本の勲等について詳述する。
目次 |
[編集] 概要
勲位の相当は次の通りである。勲一等(正三位に相等)・勲二等(従三位)・勲三等(正四位)・勲四等(従四位)・勲五等(正五位)・勲六等(従五位)以上を勅授。勲七等(正六位)・勲八等(従六位)・勲九等(正七位)・勲十等(従七位)・勲十一等(正八位)・勲十二等(従八位)。
平安時代以降、江戸時代に至るまで官位即ち位階と官職は公家や武家の身分制の中で活用されてきたが、勲等については時代が後になるにつれ用いられることが少なくなった。
明治に入り、1875年(明治8年)に太政官布告に基づく勲等・賞牌(賞牌は翌年勲章に改称)の制度ができ、勲章の等級として勲等(勲一等から勲八等まで)が制定され、次いで翌1876年(明治9年)に詔書に基づく大勲位が、最上位の勲等として制定された。勲章の授与にあたっては、まず相応の勲等に叙した上(叙勲)で勲等に相当する勲章が贈られることとされた(授章)。さらに1890年(明治23年)に金鵄勲章が制定されると、勲等の他に軍人に対して授与される功級という等級も創設された。
戦後、金鵄勲章が廃止され、あわせて通常の叙勲(現職官吏等への叙勲)もしばらく停止されたことから、昭和30年代まで生前叙勲は行われなかった。池田勇人内閣の時に戦後初めて勲章制度の運用が復活し、今日に至る。
2003年(平成15年)11月3日以降、日本の勲章の官民格差是正と多角的な観点を求める声に基づいて太政官布告が改正され、大勲位以外の、数字で表現する等級としての勲等は廃止された(ただし、改正後の太政官布告の条文にも引き続き「勲等」の文言があり、表記ができなくなっただけで概念としては残っている)。勲等の廃止においては与党の一部から反対も出たが、今後どの様な栄典制度となるか、官民格差是正や栄典法制定問題などがある中で、現在のところは不透明な情勢にある。
当該制度改正により、日本で勲等の授与(叙勲)という行為が適用されなくなった後も、政府は勲章の授与(授章)について授章のみならず「叙勲」の表現も用いている(たとえば、官報の叙位叙勲欄は叙位授章欄などへ変更されずにそのままの名称である)。これは、旧制度で明確に分けられていた「勲等」と「勲章」について、新制度で「勲等」が完全廃止されて純粋に「勲章」のみとなった訳ではないことを意味している。制度改正により、新制度下で「勲○等」の勲等を授与することはできなくなったが、太政官布告の規定上は「六級」(6つの級)という個別呼称のない概念としての勲等が引き続き存置されており、新制度下の勲章はそれら個別名称を持たない6区分の勲等のいずれかに属しているものとなっているため、勲章を授ける(受ける)ことの意義の中に(明示的ではないが)事実上勲等の属性を帯びたものとなっている。今日、勲等に叙す慣例がなくなり勲章の授与を叙勲と称することになったことで、叙勲は勲章を授与すること自体を指す意味が強くなった。
- 肩書として位階と勲等を用いる場合、古くからの儀典の慣例として、「正三位勲一等日本太郎」のように勲章を省くのが正式とされ、たとえば国会議員が死亡した場合の国会での弔詞でもそのような勲章省略の肩書で故人を呼称したが、新制度下の国会弔詞では旧制度叙勲済の死亡者については引き続き旧勲章を省略して従来の呼称方式を用いるのに対し、新制度下で叙勲された死亡者に対しては「正三位旭日大綬章日本太郎君は多年憲政に・・・」のように呼称しており、この点でも、新制度下の勲章は旧制度下の勲章と異なり、わずかながらでも勲等としての意味合いを含有していることが推定される。
[編集] 勲位
- 勲一等
- 勲二等
- 勲三等
- 勲四等
- 勲五等
- 勲六等
- 勲七等
- 勲八等
- 勲九等
- 勲十等
- 勲十一等
- 勲十二等
[編集] 勲等
- 大勲位
- 勲一等
- 勲二等
- 勲三等
- 勲四等
- 勲五等
- 勲六等
- 勲七等
- 勲八等