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濱口雄幸 - Wikipedia

濱口雄幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

濱口 雄幸
(はまぐち おさち)

27
日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 1929年7月2日
 - 1931年4月14日

生年月日 旧暦明治3年4月1日
1870年5月1日
出生地 高知県長岡郡五台山村
出身校 東京帝国大学法学部卒業
学位・資格・称号 正二位勲一等
法学士(東京帝国大学)
前職 大蔵省行政官
専売局長官
逓信省次官
大蔵省次官
衆議院議員
大蔵大臣
内務大臣
立憲民政党総裁
世襲の有無 世襲ではない
選挙区 衆高知
当選回数
党派 立憲民政党
没年月日 昭和6年(1931年8月26日

濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日1870年5月1日) - 昭和6年(1931年8月26日)は、日本官僚政治家。第27代内閣総理大臣正二位勲一等。初の明治生まれの内閣総理大臣である。

目次

[編集] 来歴

高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。

明治22年(1889年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等学校を経て、明治28年(1895年東京帝国大学法科を卒業。

大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官などを務め、大正4年(1915年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。加藤高明内閣大蔵大臣、第一次若槻内閣の内務大臣などを務める。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界からの信任のある井上準之助日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。

[編集] ライオン宰相の生き様

官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が濱口雄幸である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。

首相官邸前のライオン像と“ライオン宰相”濱口雄幸。
首相官邸前のライオン像と“ライオン宰相”濱口雄幸。

濱口は大蔵省入省後、1度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎ら先輩や友人が、東京帰京の嘆願を行って呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省海軍軍令部帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、大戦も連合国の勝利に終わり、平和の到来が確定するや国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じ始めていた。その上、戦後軍拡の名の下に際限なき海軍費の膨張が始まると、列国間の建艦競争が激化することをも憂慮していた。特にアメリカ合衆国が国際社会の中で早晩1番の大国となるのは明らかであり、そのことについて濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。

日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する声がある一方で、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し(後述)社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。

[編集] 根回しに頼らない正面突破

大礼服姿の濱口総理
大礼服姿の濱口総理

以上の経験は、昭和4年(1929年)に成立した濱口内閣に遺憾なく発揮された。田中義一内閣が異例な形で総辞職した後を受けて、濱口は、政治空白は許されないとしてわずか1日で組閣を行った。その電光石火の早業に、宮内大臣牧野伸顕が「意気込頼母しく感じたり」と記すのも無理はなかった。

濱口は、内には大戦の好況に時代慣れした弛緩に警告を与えて不況からの脱出を唱え、他方、外には外務大臣幣原喜重郎を重用して国際協調路線を貫いた。しかし、そのためには政府与党が磐石でなくてはならない。第2回普通選挙で政友会に圧勝した濱口は、政局運営に自信を持った。だが、その濱口でさえも、政党政治は最高の形態と見ていたわけではない。「世界多数の文明国に於ける政治の形式であって、他に代るべき良き政治の形式を見出すことが出来ないため」としている。ベストではないがベター・チョイスというわけである。それがゆえに濱口は、この時代を政党政治の「試験時代」と認識した。この認識はロンドン軍縮でも活用された。濱口は日本側の首席代表に若槻禮次郎を任命した。ワシントン会議では加藤友三郎ジュネーブ会議では齋藤實と、それまでの海軍軍縮会議の責任者は海軍出身者だったが、今回は民政党(立憲民政党の略称)の大幹部たる若槻、つまり文官を任命しただけでも、濱口のスタイルが理解できる。ロンドン軍縮会議は紛糾を重ねた。軍令部を中心に、強硬派が巡洋艦の日本の対英米保有比率7割に猛反対、これに右翼や野党も同調して対外問題は一挙に国内問題に転じた。濱口首相は根回しを山梨勝之進海軍次官に依頼するが、反対派には伏見宮博恭王東郷平八郎といった大物が存在し、速やかな解決は不可能だった。宮中ではこの事態を危惧して、侍従長鈴木貫太郎に根回しをさせるほどだった。

圧倒的な議席を有する民政党を率いる濱口は、大衆に支持されていた。また宮中からも信頼されているという自信があった。そこに彼自身の頑固な性格が加味されて根回しに頼らず、正面から難局を突破しようとしたのである。いみじくも、海軍大臣財部彪に「唯一正道を歩まん」、「仮令玉砕すとも男子の本懐ならずや」と述べているのは、まさに濱口の真骨頂なのである。料亭政治を嫌い、また根回しを回避し、断固たる姿勢で政局に臨んだ濱口は、戦前の首相としては珍しい存在である。その政治手腕はその意味で一長一短はあったが、自らの政治哲学を頑固に追い求めた点、首相としては稀有な存在といえよう。

[編集] 金本位への転換

濱口が内閣総理大臣を引き受けるにあたって、主眼となっていた課題は経済政策であった。第一次世界大戦後の国内好況が既に終わりを告げて久しく、昭和2年(1927年)に起きた金融恐慌をはじめ、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると濱口は考えたのである(実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた)。

一貫して国際協調を掲げていた濱口は、蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、彼の協力の元、軍部をはじめ内外の各方面からの激しい反対を押し切る形で金解禁を断行。当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。特に当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において解禁した(石橋湛山ら経済学者は新平価での解禁を主張していた)ことで、輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は昭和4年(1929年)には0.5%、翌・昭和5年(1930年)には1.1%と経済失政であると評される事になる。

濱口自身「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」と語るように、国内の経済問題が一日にして好転するとは考えておらず、むしろ金解禁は経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革されると考えていた。しかし、結果的には大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなり、経済失策は、後に禍根を残した。また、ともすれば「清貧」思想、「苦難を乗り越えてこその繁栄」などの精神論に傾きがちであり、石橋ら経済学の観点からの反対論を封じてしまうこともしばしばあった。

任期中に濱口自身が凶弾に倒れたため、その後の経済政策は第2次若槻内閣が引き継ぐ。そして昭和6年(1931年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況は民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相を務めた高橋是清リフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策であった。犬養内閣において、成長率は昭和7年(1932年)に4.4%、同8年(1933年)に11.4%、同9年(1934年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。

[編集] 濱口首相遭難事件

東京駅 遭難現場のプレート
東京駅 遭難現場のプレート

これらの思い切った断行が右翼からの反感を買い、昭和5年(1930年11月14日、濱口は広島県福山市郊外で行われる陸軍の演習を視察する予定で、昭和天皇行幸に付き添い(更にお国帰りも兼ねて)特急に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で愛国社社員の佐郷屋留雄(さごやとめお。21歳)に銃撃される。この時は、弾丸が骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したが、一命を取り留めた。翌・昭和6年(1931年)3月に、野党政友会鳩山一郎らの執拗な登院要求に押され、まだ傷の癒えない身で無理をして衆議院に登院、5ヵ月後に亡くなった。この間、臨時首相代理を幣原喜重郎にゆだねた。

ちなみに濱口の死因に関しては、後日濱口が特殊な細菌の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿した事による症状の悪化であると判明したため、狙撃犯・佐郷屋の裁判において被告が殺人罪にあたるのかそれとも殺人未遂罪にあたるのかで大いに紛糾した。審理の結果、狙撃と死亡との間の相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、昭和8年(1933年)の判決の内容は死刑であった(但し昭和9年(1934年)に恩赦で無期懲役に減刑され、昭和15年(1940年)11月に仮出所している。佐郷屋は第二次世界大戦後も右翼活動を続け、昭和47年(1972年)4月死去)。

[編集] 家族・親族

  • 長男 雄彦(銀行家・元東京銀行頭取、元国際電電(KDD)会長) - 二女淑は皇后美智子の兄正田巌の夫人である。
  • 二男 巌根(銀行家・元長期信用銀行会長) - 二女英子は元首相鳩山一郎の女婿元日本輸出入銀行総裁古沢潤一の長男義文の夫人である。
  • 三女 富士(官僚、政治家大橋武夫に嫁する)

[編集] 系譜

  • 浜口氏
        昭和天皇━━━今上天皇
                ┃
              ┏美智子
       正田英三郎━━┫
              ┗正田巌
                ┃
               ┏淑
     小林和介━━直   ┃  
           ┣━━━╋宏
浜口雄幸    ┏浜口雄彦  ┃
  ┃     ┃      ┗幸
  ┃     ┃
  ┣━━━━━╋富士    ┏大橋宗夫
  ┃     ┃ ┣━━━━┫
  夏     ┃大橋武夫  ┗大橋光夫
        ┃
        ┗浜口巌根  ┏郁子
           ┣━━━┫
           稜   ┗英子
     古沢潤一       ┃
       ┣━━━━━━古沢義文        
     ┏百合子    
鳩山一郎━┫ 
     ┗鳩山威一郎  

   

[編集] 参考文献

  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 158-161頁

               

[編集] 関連項目

  • 濱口内閣
  • 『随感録』 濱口雄幸
  • TVドラマ
    • 「男子の本懐」(1981年NHKドラマ 原作:城山三郎
  • 石橋湛山…遭難事件直後に「東洋経済新報」誌上において濱口首相退陣論を唱えるが、26年後にこの時の持論に従って自らが首相を退陣した。

[編集] 外部リンク


          歴代内閣総理大臣          
第26代
田中義一
27
1929年 - 1931年
第28代
若槻禮次郎

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬

高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介

廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎
阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王

幣原喜重郎
吉田茂
片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曾根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹
宮澤喜一
細川護熙

羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
先代:
勝田主計
大蔵大臣
第26代:1924年 - 1925年
次代:
早速整爾
先代:
若槻禮次郎
内務大臣
第43代:1926年 - 1927年
次代:
鈴木喜三郎


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