勝田主計
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勝田 主計(しょうだ かずえ、明治2年9月15日(1869年10月19日)-昭和23年(1948年)10月10日)は日本の大蔵官僚、政治家。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之と親しかった。
[編集] 生涯
1869年(明治2年)現在の愛媛県松山市一番町に松山藩士・勝田久廉の五男として生まれた。勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、1895年(明治28年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。大蔵次官を経て1915年(大正4年)に朝鮮銀行総裁に就任。寺内内閣及び清浦内閣で大蔵大臣を、田中義一内閣で文部大臣を務めた。その後1939年(昭和14年)内閣参議となった。なお、第2次近衛内閣でも安井英二の後任内務大臣として一旦は内定されたものの、勝田が内務省出身ではないことを憂慮した昭和天皇の意向(『木戸幸一日記』)に従って辞退している。
[編集] 家族親族
勝田主計はイヨ夫人との間に5男7女をもうけたが、長男・力と三男・惇が早世したため次男・浩が嗣子となった。四男・龍夫は日本債券信用銀行頭取を務めたが文筆家としても知られ、西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘婿ということから『重臣たちの昭和史』等の日本現代史に関する著書も多い。五男・祐行はテレビ朝日アナウンサー・勝田和宏の祖父なので、和宏は主計の曾孫にあたる。六男・高司は東京大学教授を務めた学者で工学博士として知られており、七男・和男はユニバース開発の社長を務めた。
主計・イヨ夫妻の長女・道子は元蔵相の広瀬豊作に、次女・起代子は弁護士の中野善敦に、三女・真代は元大倉商事社長の黒田康彦に、四女・素代子は元東洋レーヨン事業部長の早崎文雄に、五女・泰代は元東京芝浦電気社長の玉置敬三に嫁いだ。
主計の弟・久貫は元日本電子計算社長・勝田正之の父である。正之は久貫の長男(従って主計の甥にあたる)で、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘・寿々子と結婚した。故に勝田家は三菱の創業者一族・岩崎家と閨閥で結ばれたといえる。なおの寿々子の父・康弥は弥太郎の三男にあたる。
[編集] 外部リンク
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